【フランス王国の歴史】ブルターニュ継承戦争からジャックリーの乱

【フランス王国の歴史】ブルターニュ継承戦争からジャックリーの乱 世界史
【フランス王国の歴史】ブルターニュ継承戦争からジャックリーの乱

1341年、ブルターニュ公国の継承を巡る争いは、すでに始まっていた英仏間の百年戦争と結びつき、やがてフランス全土を巻き込む大きな戦火となっていきます。1346年8月、クレシーの戦いでフランス軍は、イングランドの長弓兵たちの前に惨敗を喫します。この戦いは、中世の軍事技術と戦術に大きな転換をもたらしただけでなく、騎士道精神に基づく従来の戦争観をも覆すことになりました。

しかし、人々を襲った最大の試練は戦争だけではありませんでした。1347年、シチリアに上陸した黒死病(ペスト)は、またたく間にヨーロッパ全土に広がり、人口の3分の1から半分を失わせるという未曾有の災厄をもたらしました。そしてその傷が癒えぬ間に、1356年、フランスはポワティエの戦いで再び大敗を喫し、ジャン2世国王までもが捕虜となる事態に陥ります。

社会秩序が大きく揺らぐ中、1358年、ついに農民たちが立ち上がります。ジャックリーの乱の勃発です。この反乱は、単なる支配者への反抗というだけでなく、疫病と戦争によって疲弊した中世社会の構造的な矛盾が一気に噴出した出来事でした。

本稿では、これら一連の出来事を丹念に追いながら、14世紀フランス社会が直面した未曾有の危機とその克服の過程を記述していきます。

ブルターニュ継承戦争(1341年~1365年)

14世紀のフランスにおいて、ブルターニュ公国では相続をめぐる深刻な争いが発生しました。この争いは「ブルターニュ継承戦争」として知られ約24年にわたり続き、百年戦争における英仏対立の一部となりました。

相続問題の発生

1341年、ブルターニュ公ジャン3世が亡くなりました。しかし、彼には子どもがいなかったため、公国の継承をめぐる争いが勃発しました。継承権を主張したのは、ジャン3世の異母弟であるジャン・ド・モンフォールと、ジャン3世の兄の娘であるジャンヌ・ド・パンティエーヴルの二人でした。

大国の介入と対立

この継承問題は、フランスとイングランドという二大国の対立を巻き込む形で発展していきます。

  • イングランド王の支持
    イングランド王エドワード3世はジャン・ド・モンフォールを支持しました。彼はフランス王家と敵対関係にあり、ブルターニュに自国の影響力を及ぼすことを狙っていました。

  • フランス王の支持
    一方、フランス王フィリップ6世はジャンヌ・ド・パンティエーヴルを支持しました。フランス王家としては、ブルターニュを自国の統制下に置きたいという意図があったのです。

こうして、1341年にブルターニュ継承戦争が始まりました。これは単なる地方の相続争いではなく、フランスとイングランドの対立が絡む大規模な戦争へと発展していきました。

クレシーの戦い(1346年)

ブルターニュ継承戦争が続いている最中、別の大きな戦争が勃発しました。それが、1346年に起こった「クレシーの戦い」です。この戦いは、百年戦争の中でも特に重要な戦闘の一つとされています。

クレシーの戦い

クレシーの戦い
引用元を日本語化Goran tek-en, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

イングランド軍の侵攻

1346年、イングランド王エドワード3世は再びフランスへの侵攻を決意しました。彼は防備が手薄なノルマンディーに上陸し、東へと進軍を開始します。その目的は、フランドルの勢力と合流し、フランス軍に対抗することでした。

これに対し、フランス王フィリップ6世はイングランド軍の進軍を阻止するため、フランドルへ続く重要な地点であるクレシーで軍を配置し、迎え撃つことを決意しました。

クレシーの戦いと黒太子の活躍

両軍はクレシーで激突し、大規模な戦闘が繰り広げられました。この戦いでは、イングランド軍が優れた戦術を駆使し、圧倒的な勝利を収めました。

特に注目すべきは、エドワード3世の息子である王太子エドワードの活躍です。彼は非常に勇敢である一方、冷酷な戦いぶりでも知られていました。そのため、「エドワード黒太子」と呼ばれるようになりました。この戦いの後、彼はフランス各地を襲撃し、大きな混乱を引き起こしました。

カレーの占領とその影響

クレシーの戦いに勝利したイングランド軍は、さらに進軍を続け、フランスの重要な港町であるカレーを占領しました。彼らはこの地に新たな都市を築き、以後、カレーはイングランド軍がフランスへ侵入するための拠点として利用されるようになりました。

クレシーの戦いは、イングランド軍の戦術的な優位性を示し、フランス軍に大きな打撃を与えた戦いでした。この戦いの結果、フランス国内ではさらなる混乱が生じ、百年戦争は長期化していくことになります。

ペストの大流行

14世紀半ば、ヨーロッパ大陸ではペストが猛威を振るい、大規模な人口減少を引き起こしました。この病は社会全体に深刻な影響を与え、人々の暮らしや価値観を大きく変えることとなりました。

ヨーロッパを襲ったペスト

ペストが大流行したことで、多くの町で人口が急激に減少しました。特に若者の犠牲者が多く、家族単位で命を落とすケースも珍しくありませんでした。ある町では、人口が10分の1にまで減るほどの被害を受けました。

このような状況の中、人々は次々と倒れ、路上で息絶える者も多くいました。また、家の中で孤独に命を落とす人も後を絶たず、家族全員が亡くなっている家も見られるようになりました。

差別と迫害の激化

ペストの原因が分からなかった当時、多くの人々は恐怖と混乱の中で根拠のない噂を信じるようになりました。ドイツでは、ペストをユダヤ人のせいだと考え、多くのユダヤ人が虐殺される悲劇が起こりました。このような迫害は、ヨーロッパ各地で見られ、社会不安をさらに助長しました。

ペスト後の社会の変化

ペストの大流行が収束すると、人々は大量の死を目の当たりにしたことで、生きることの喜びを再認識するようになりました。人々は互いの大切さを実感し、積極的に結婚し、多くの子どもをもうけるようになりました。

この現象は、疫病や災害が収束した後の社会で共通して見られるものです。ペストの恐怖を乗り越えた人々は、新たな人生を築くために力強く前進していきました。

ペスト(黒死病)の大流行(1346年~)

ペスト(黒死病)の大流行(1346年~)
引用元を日本語化Flappiefh, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

ポワティエの戦い(1356年)

フランスの財政悪化

相次ぐ戦争により、フランス王国の財政は次第に厳しくなっていきました。戦いのたびに、封建領主に兵士を提供してもらうため、多額の資金が必要だったためです。

フィリップ6世は、ブルジョワの商業活動に高額な税を課し、さらに三部会を開いて貴族や商人に資金を提供するよう求めました。その見返りとして、王に対する様々な要求が出されるようになりました。

ジャン2世の即位とさらなる苦境

1350年、フィリップ6世が死去し、息子のジャン2世が王位を継ぎました。しかし、彼の即位後も財政状況は依然として厳しく、王は引き続き三部会に頼るしかありませんでした。

その頃、イングランドの王太子エドワード(通称「エドワード黒太子」)が南フランスを襲撃し、各地で略奪を行っていました。ジャン2世は討伐に向かいましたが、1356年、ポワティエの戦いで敗れ、捕虜となってしまいました。

フランスの混乱と社会への影響

この戦いにはジャン2世の息子、シャルル(後のシャルル5世)も参加していましたが、彼は戦場を離れパリへと逃げ帰りました。シャルルは父に代わってフランス王の代理を務め、パリの防衛を強化するために街の周囲に城壁を築き、巨大な要塞へと変えていきました。

ポワティエの戦いでは、多くの貴族もイングランド軍の捕虜となりました。彼らは莫大な身代金を支払うことで解放されましたが、その資金を工面するために農民に重い税が課せられ、多くの人々が財産を失いました。

また、貴族たちは財政負担を軽減するため、それまで雇っていた兵士を大量に解雇しました。職を失った兵士たちは、田舎へ戻ると盗みや殺人を繰り返し、農民たちを拷問して財産を奪うこともありました。このような無法状態が各地で発生し、フランス社会はますます混乱していきました。

ブルジョワと貴族の対立

三部会の開催と要求

1357年、フランスの首都パリで三部会が開かれました。この三部会には、フランス国内の聖職者、貴族、そしてブルジョワ(裕福な市民)から数百人の代表者が集まりました。

この場で、三部会は王太子であるシャルル5世に対し、厳しい意見を述べました。全国の代表者からなる三部会こそが王国全体の民意を反映していると考えられていたため、その意志を尊重するよう求めたのです。

また、三部会は具体的な要求も提示しました。主なものは以下の通りです。

  • 王に上納している戦費の用途が不明瞭であるため、三部会がその収支管理を行うこと。
  • 通貨の発行は三部会が決定すること。
  • 領主による私的な戦争を禁止すること。


シャルル5世は、これらの要求にしぶしぶ合意し、署名しました。しかし、この約束はすぐに破られることになります。

シャルル5世の裏切りとマルセルの反発

合意したにもかかわらず、シャルル5世は三部会の決定を無視し、独断で貨幣を発行しました。これに強く反発したのが、三部会のブルジョワ代表であり、パリの実質的な市長でもあったエティエンヌ・マルセルです。

マルセルは武装した部下を引き連れ、シャルル5世の自宅に押し入りました。そして、彼の側近2人を目の前で殺害させた上で、王太子に対し、国王代理の座を退くよう迫ったのです。

この事態に追い込まれたシャルル5世は要求を受け入れ、パリがフランス統治を引き受ける形となりました。こうして、ブルジョワが政治の主導権を握るかに見えました。

三部会の動揺と農民の蜂起

しかし、事態は予想外の方向へ進みます。三部会の他の代表者たちは、マルセルの急進的な行動に距離を置き始めました。彼らは、暴力を用いて権力を奪うことを望んでいなかったのです。

さらに、ブルジョワ市民と貴族の対立が激化する中、別の問題が発生しました。それは、農民たちの蜂起です。長年の重税と戦争の影響に苦しんでいた農民たちは、貴族や都市の権力者に対して立ち上がったのです。

こうして、フランス国内はブルジョワと貴族の対立だけでなく、農民の反乱という新たな混乱に突入していきました。

ジャックリーの乱(1358年)

農民の苦しみと侮蔑

当時の農民たちは、極限まで追い詰められていました。かつて貴族たちは農民に武器を持たせ、戦闘訓練を施そうとしたことがありました。しかし、彼らは農民を見下し、「お人好しのジャック(フランス語でジャック・ボノム Jacques Bonhomme)」と嘲笑しました。これは、未熟な兵士を「ジャンジャン」と呼ぶのと同じ発想でした。

そのため、農民たちを侮辱する意味を込めて「ジャック」と呼ぶ風潮が広まり、この反乱は「ジャックリーの乱」として知られるようになりました。

貴族への反発とマルセルの関与

農民たちの怒りの矛先は貴族に向けられました。この動きは、当時貴族と対立していたパリ市長エティエンヌ・マルセルにとって有利に働きました。食料の確保を目的に、マルセルは一時的に農民側に付くことを決断しました。

しかし、フランス王位を狙っていたイベリア半島のナヴァール王がフランス国内を荒らし、パリ周辺の農民を弾圧したため、マルセルは次にナヴァール王と手を組むことを考えました。ナヴァール王は過去にフランス王によって幽閉されていましたが、マルセルによって助けられた経緯がありました。

交渉の失敗とマルセルの孤立

当初、パリに運ばれるはずだった食料は、すべてフランス王太子シャルル5世によって没収されてしまいました。これを解決するため、マルセルはナヴァール王にシャルル5世との交渉を依頼しました。

しかし、ナヴァール王はシャルル5世との交渉から戻ってきたものの、その内容や結果をマルセルに明かしませんでした。この態度に不信感を抱いたマルセルは、ナヴァール王とも対立するようになります。

結果として、シャルル5世とナヴァール王の両方に食料を押さえられたマルセルは、ますます苦境に追い込まれていきました。

マルセルの最期と農民の変化

窮地に陥ったマルセルは、最後の手段としてナヴァール王にパリの統治を委ねることを決意しました。しかし、この計画を実行に移す直前の1358年、マルセルは側近によって暗殺されてしまいました。暗殺を実行した側近は、実はシャルル5世側の人物と繋がっていたのです。

それまでの農民は、外敵に対して命乞いをすることしかできませんでした。しかし、ジャックリーの乱をきっかけに、彼らは武器を手に取り、自ら戦うことができると知ったのです。この経験を通じて、農民の地位は次第に向上していきました。

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