【フランス王国の歴史】七年戦争の失地回復を目指したアメリカ独立戦争参戦

【フランス王国の歴史】七年戦争の失地回復を目指したアメリカ独立戦争参戦フランス
【フランス王国の歴史】七年戦争の失地回復を目指したアメリカ独立戦争参戦

18世紀のフランスは、アーヘンの和約からアメリカ独立戦争まで、国際情勢の変動に翻弄されながらも、自国の地位を確立しようと模索していました。七年戦争の敗北によりフランスは大きな領土を失いましたが、その経験が後のアメリカ独立戦争への積極的な関与につながります。

本記事では、オーストリアとの外交革命、七年戦争、そしてアメリカ独立戦争を経てフランスがどのように変遷していったのかを詳しく解説します。

アーヘンの和約後のヨーロッパとフランス

1748年のアーヘンの和約によって、長く続いたオーストリア継承戦争が終結し、ヨーロッパ各国は一時的な安定を取り戻しました。この講和条約では、プロイセンがオーストリアから奪取したシュレージエンの領有を確定させ、オーストリアのマリア・テレジアはその喪失を受け入れる形となりました。一方でフランスは、かつて獲得した領土を放棄することとなり、国内においては「戦争に勝ったにもかかわらず利益を得られなかった」との不満が広がることになります。

この講和の背景には、フランスが戦争の継続による経済的負担を懸念し、イギリスとの関係改善を模索したという事情もありました。しかし、フランスとオーストリアの関係は決して悪化せず、後に両国が外交革命によって急接近する伏線ともなりました。

外交革命とフランス・オーストリア同盟

18世紀半ばのヨーロッパでは、従来のアンシャン・レジーム下での同盟関係が大きく変化することになります。伝統的にフランスとオーストリアは敵対関係にあり、フランスはハプスブルク家の勢力拡大を防ぐために長らくブルボン家ハプスブルク家の対立を続けてきました。しかし、1748年の講和後、オーストリアは失ったシュレージエンを奪回するため、新たな同盟を模索するようになります。

この時、フランスでもオーストリアとの関係を見直す動きがあり、特にルイ15世の寵姫であるポンパドゥール夫人がこの外交方針の転換に大きく関与しました。結果として、1756年にはフランスとオーストリアが同盟を締結し、伝統的な対立関係が逆転することとなります。これを外交革命と呼びます。この同盟は、後に起こる七年戦争の舞台を決定づける重要な要素となりました。

七年戦争の勃発とフランスの参戦

1756年に勃発した七年戦争は、ヨーロッパにおいてはプロイセンとオーストリアの対立を軸とし、さらにフランスとイギリスの植民地争奪戦が絡むことで、世界的な規模へと発展しました。フランスはオーストリアと同盟を結んでいたため、当然ながらプロイセンと敵対することとなりました。

戦争の初期段階では、フランス軍はドイツ方面に進軍し、オーストリア軍と連携してプロイセンのフリードリヒ2世と対峙しました。しかし、フランス軍は戦略的な統一性を欠き、戦局を決定づけるような決定的勝利を挙げることができませんでした。一方でイギリスとの戦いでは、北米とインドにおいて植民地戦争が激化し、フランスの劣勢が明らかとなります。

特に北米では、イギリスが強力な海軍力を駆使してフランス植民地を次々に攻略し、1759年のケベックの戦いではフランス軍が壊滅的な敗北を喫しました。この戦いによってフランスの北米における覇権は大きく後退し、最終的に1763年のパリ条約において、フランスはカナダを含む広大な領土をイギリスに割譲することとなりました。

パリ条約とフランスの敗北

1763年のパリ条約では、フランスはイギリスに対して北米の大部分の領土を放棄し、スペインに対してルイジアナを譲渡することとなりました。これは、フランスにとって植民地帝国の縮小を意味するものであり、国内では戦争の指導者たちに対する批判が高まりました。

この戦争によってフランスが被った経済的損失は甚大であり、特に膨れ上がった戦費の影響で国家財政は著しく悪化しました。ルイ15世の治世後半には、度重なる戦争による財政危機が深刻化し、これが後の改革の必要性を高める要因の一つとなります。

また、七年戦争におけるフランスの敗北は、植民地政策の見直しを促すこととなり、新たな対外戦略の模索が始まります。その一環として、フランスはイギリスに対抗するために、北米の独立運動に接近することになります。この動きが、のちのアメリカ独立戦争へのフランス参戦へとつながっていくのです。

七年戦争後のフランスと国際情勢

1763年のパリ条約によってフランスは広大な植民地を失い、国内では戦争の結果に対する不満が高まりました。フランスの敗北は、財政の破綻を加速させ、王室の権威低下にもつながりました。これを受けて、フランスは新たな外交戦略を模索することになり、特にイギリスに対抗するために北アメリカの独立運動に目を向けることになります。

また、ヨーロッパでは啓蒙専制の考えが広まり、フランスの政治にも影響を与えました。オーストリアのマリア・テレジアやプロイセンのフリードリヒ2世は啓蒙思想を取り入れつつも、絶対王政を維持しようとしました。フランスにおいても、テュルゴーやネッケルといった改革派が台頭し、国家財政の健全化を試みましたが、既得権益層の反発により十分な成果を上げることはできませんでした。

アメリカ独立戦争へのフランスの関与

1775年に始まったアメリカ独立戦争は、フランスにとってイギリスへの復讐を果たす好機となりました。当初、フランスは慎重な態度を取っていましたが、1777年のサラトガの戦いでアメリカ軍が大勝すると、フランスは正式にアメリカの支援を決定しました。

1778年、フランスはアメリカ合衆国と同盟を結び、イギリスに対して宣戦布告しました。これにより戦争は国際的な広がりを見せ、スペインやオランダもフランスに続いてイギリスと敵対することになりました。フランス軍は陸上戦だけでなく海戦でもイギリスと戦い、特に1781年のヨークタウンの戦いでは、フランス艦隊が重要な役割を果たし、アメリカ独立戦争の決定的勝利に貢献しました。

1783年のパリ条約と戦後のフランス

1783年、戦争終結を決定づけるパリ条約が締結され、イギリスはアメリカ合衆国の独立を正式に承認しました。フランスはこの戦争で名誉を回復しましたが、同時に戦費の増大によって財政状況はさらに悪化し、王国は深刻な財政危機に直面することになります。

戦争の終結後、フランスでは改革の機運が高まりましたが、貴族や聖職者の反発により十分な成果を上げることができませんでした。この財政危機が後のフランス革命の導火線となり、絶対王政の終焉へとつながっていくのです。

こうして、フランスはアメリカ独立戦争によって国際的な影響力を取り戻しましたが、その代償として国内の不満が高まり、王政の基盤が揺らいでいくこととなりました。

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