15世紀末から16世紀半ばにかけて、フランス王国とハプスブルク家を中心とするヨーロッパ諸国がイタリアを巡って繰り広げたイタリア戦争は、単なる領土争いにとどまらず、近代ヨーロッパの国際関係を大きく変える契機となりました。
フランス王シャルル8世のイタリア遠征から始まったこの戦争は、次の王であるルイ12世やフランソワ1世、さらにはカール5世との対立を経て、長期にわたる激しい戦いへと発展しました。戦争の舞台となったミラノ公国やナポリ王国の運命は刻一刻と変化し、最終的にはスペイン・ハプスブルク家がイタリアに覇権を確立することになります。
この記事では、イタリア戦争の背景、戦局の推移、そしてその歴史的意義について詳しく解説していきます。
ヨーロッパの政治情勢とフランス王国の野望
15世紀末のヨーロッパは、大国間の勢力争いが複雑に絡み合う時代でした。百年戦争(1337年~1453年)の終結により、フランス王国は国内統一を進め、中央集権を強化しつつありました。一方で、神聖ローマ帝国やイングランド王国、スペイン王国などの強国も、それぞれの権益を拡大しようとしていました。このような状況の中で、イタリア半島は、政治的に分裂しており、諸国が互いに抗争を繰り広げる状態にありました。
フランス王シャルル8世(在位:1483年~1498年)は、かつてフランス王家と縁のあったナポリ王国の王位を自らのものとする野望を抱いていました。これは、ナポリ王国が15世紀初頭にアンジュー家の支配を受けていたことに由来しています。しかし、当時のナポリ王国はアラゴン王国の影響下にあり、フランスの介入は当然ながら周辺国の警戒を招くものでした。
イタリア半島の政治状況
15世紀のイタリア半島は、一つの統一国家ではなく、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ナポリ王国、そして教皇領といった複数の国家が覇権を争う状態でした。特に、北イタリアではミラノ公国とヴェネツィア共和国が長年対立し続けており、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァは、自国の優位を確立するためにフランスを利用しようと画策しました。
当時のナポリ王国は、アラゴン家出身のフェルディナンド1世(在位:1458年~1494年)が支配しており、彼の孫であるアルフォンソ2世が後継者と目されていました。しかし、アルフォンソ2世の統治には不安要素が多く、南イタリアにおけるアラゴン家の支配を脅かす存在が求められていました。そのため、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァは、フランス王シャルル8世に対してナポリ遠征を持ちかけ、これがイタリア戦争の発端となりました。
シャルル8世のイタリア遠征
1494年、シャルル8世は約2万5000人の軍勢を率いてアルプスを越え、イタリア半島に侵攻しました。この軍勢には、重装騎兵だけでなく、当時のヨーロッパでは革新的な火砲も含まれており、特にフランス軍の大砲は強力で、要塞都市の防衛を容易に突破する力を持っていました。フランス軍の進軍は驚異的に速く、各地の都市はほとんど抵抗することなく降伏しました。
最初に進軍を受けたのは、フランス軍を招き入れたミラノ公国でしたが、ミラノを越えて南へ進むと、フィレンツェ共和国のピエロ・デ・メディチが戦わずしてフランスに屈服し、フィレンツェ市民の怒りを買って追放されるという事態になりました。こうして、フランス軍はイタリア半島を南下し、ナポリ王国に迫っていきました。
ナポリ王国の陥落とフランスの一時的勝利
シャルル8世の軍がナポリ王国に到達した頃、アルフォンソ2世はすでにナポリを放棄し、息子のフェルディナンド2世に王位を譲っていました。しかし、フランス軍の圧倒的な力の前にナポリ王国軍は持ちこたえることができず、1495年2月、フランス軍はナポリに無血入城しました。こうしてシャルル8世は、ナポリ王としての戴冠を果たしましたが、彼の勝利は長くは続きませんでした。
フランス軍の急速な進軍に危機感を抱いたヴェネツィア共和国、神聖ローマ帝国、スペイン王国、教皇アレクサンデル6世らは、フランスの南イタリア支配を阻止するために神聖同盟(ヴェネツィア同盟)を結成しました。これにより、フランス軍はイタリア半島で孤立することになり、帰路を確保するためにナポリを離れる決断を余儀なくされました。
シャルル8世の撤退とイタリア戦争の長期化
1495年、シャルル8世は北上を開始しましたが、途中で同盟軍との戦闘が避けられない状況となりました。1495年7月、フォルノーヴォの戦いが勃発し、フランス軍は同盟軍と激突しました。戦闘そのものは決定的な勝敗がつかなかったものの、フランス軍は撤退を余儀なくされ、シャルル8世はフランス本国へと戻りました。
こうして、フランスのイタリア遠征は一時的な成功に終わりましたが、イタリア戦争はこれで終わることなく、その後もフランスとスペイン、さらには神聖ローマ帝国が絡む複雑な戦争へと発展していくことになります。この戦争は、フランスが再びイタリアへの野心を抱き、後のルイ12世やフランソワ1世の時代にも継続され、最終的には16世紀半ばまで続くことになるのです。
ルイ12世のイタリア政策とミラノ公国の征服
シャルル8世の死後、1498年に即位したルイ12世は、イタリア戦争を継続する強い意志を持っていました。彼は自らの血統を根拠に、ミラノ公国とナポリ王国の両方に対する権利を主張し、再びイタリアへの侵攻を計画しました。特に、ミラノに関しては、母方を通じてヴィスコンティ家の血を引いていることを理由に、正当な支配権を持つと主張しました。
1499年、ルイ12世は軍を率いてイタリアに侵攻し、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァを追放することに成功しました。ミラノはフランスの支配下に入り、ルイ12世の野心はさらに広がっていきました。しかし、ルドヴィーコ・スフォルツァは1500年にスイス傭兵の力を借りてミラノ奪還を試み、一時的に復権します。しかし、フランス軍の反撃を受けて再び敗北し、ルドヴィーコは捕虜としてフランスへ送られ、そのまま幽閉されました。こうして、フランスはミラノを確保し、次の目標であるナポリへと目を向けることになります。
フランスとスペインの対立:ナポリ分割条約とその破綻
ナポリ王国に対するフランスの野心は、すでにスペイン王フェルナンド2世(アラゴン王)と競合するものでした。ルイ12世は、直接ナポリを征服するのではなく、1500年にスペインとグラナダ条約(ナポリ分割条約)を結び、ナポリ王国をフランスとスペインで分割統治するという妥協策を選びました。
しかし、この分割統治はすぐに破綻しました。両国の間で統治権を巡る対立が激化し、1502年には戦争へと発展しました。最終的に、1503年のガリリアーノの戦いでスペイン軍が決定的な勝利を収め、フランスはナポリから撤退を余儀なくされました。以降、ナポリはスペイン王国の支配下に置かれ、フランスのナポリ支配の夢は潰えることとなります。
フランソワ1世とハプスブルク家の対決
1515年、ルイ12世の死後に即位したフランソワ1世は、イタリア戦争をさらに拡大させることになります。フランソワ1世は即位直後にイタリア政策を再始動し、まずはミラノの奪還を目指しました。1515年のマリニャーノの戦いでフランス軍はスイス傭兵軍を破り、再びミラノ公国を支配下に置きました。この戦いでフランスは強力な軍事力を示し、フランソワ1世のイタリア支配の野望は大きく前進したように見えました。
しかし、フランスのイタリア支配には新たな強敵が現れます。それが、神聖ローマ皇帝カール5世です。1519年、スペイン王カルロス1世(カール5世)が神聖ローマ皇帝に選出されると、彼はハプスブルク家の広大な領土を背景に、フランスとの覇権争いを本格化させました。カール5世は、スペイン、ネーデルラント、オーストリア、神聖ローマ帝国の広範な領土を支配し、フランスを包囲する形となりました。このため、フランスはハプスブルク家との長期にわたる戦争へと突入することになります。
パヴィアの戦いとフランスの敗北
フランソワ1世とカール5世の対立は、1525年のパヴィアの戦いで頂点に達します。この戦いで、フランス軍はカール5世の軍に壊滅的な敗北を喫し、フランソワ1世自身が捕虜となるという屈辱的な事態に陥りました。彼はスペインのマドリードへ送られ、1526年にマドリード条約を結ばされました。この条約により、フランスはミラノの支配を放棄し、ブルゴーニュ公国をカール5世に譲ることを約束させられました。
しかし、フランソワ1世は帰国後すぐに条約を無効と宣言し、イタリア戦争を継続しました。彼はカール5世に対抗するため、コニャック同盟(1526年)を結成し、教皇クレメンス7世、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェなどと連携しました。しかし、この同盟も決定的な勝利を収めることができず、1527年には神聖ローマ帝国軍がローマを占領するというローマ略奪(サッコ・ディ・ローマ)が発生しました。これにより、イタリア戦争はさらに泥沼化していきました。
イタリア戦争の終焉とハプスブルク家の支配
フランスとハプスブルク家の争いは、1540年代まで続きました。フランソワ1世の死後、フランス王アンリ2世が戦争を継続しましたが、彼も決定的な勝利を収めることができませんでした。最終的に、1559年のカトー・カンブレジ条約により、フランスはイタリアにおける領土的野心を放棄し、ミラノをはじめとするイタリアの主要都市はハプスブルク家の支配下に入ることとなりました。
こうして、約65年にわたるイタリア戦争は終結し、イタリア半島はスペイン・ハプスブルク家の影響下に置かれることになりました。この戦争を通じて、フランスはイタリアでの支配権を獲得することはできませんでしたが、軍事技術の革新や外交戦略の変化など、多くの影響をヨーロッパにもたらしました。また、この戦争を通じて、ヨーロッパの国際関係は「フランス vs. ハプスブルク家」という形で固定化され、後の三十年戦争(1618年~1648年)などへと続く長期的な対立の構造が形成されることになったのです。