アマースト – 世界史用語集

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概要

「アマースト(Amherst)」は一般に18世紀イギリスの軍人ジェフリー・アマースト(Jeffery Amherst, 1717–1797)を指す用語として用いられます。彼は七年戦争(北米ではフレンチ・インディアン戦争)期に北米英軍の中心的指揮官として活動し、ルイブール攻略(1758)やモントリオール無血開城(1760)に関与してフランス領カナダの支配終結に大きく寄与しました。一方で、1763年の先住民戦争(いわゆるポンティアック戦争)に際する書簡で、天然痘の利用を示唆する記述が残されており、倫理的評価をめぐる議論が続いています。英語圏の大学・都市・郡に「アマースト」の名を冠した例が多く、近年はその記憶の再検討が進んでいます。本項では主に人物ジェフリー・アマーストを中心に、歴史的背景と論点を解説します。

なお、「アマースト」という姓は同族の政治家・外交官にも見られ、特に甥のウィリアム・ピット・アマースト(後のアマースト伯、1773–1857)は19世紀前半のインド総督として知られます。両者は人物像も活動時期も異なるため、混同に注意が必要です。

軍歴の骨子—英仏植民地戦争と北米の戦局

ジェフリー・アマーストはケントの地主小貴族の家に生まれ、若年から陸軍で経験を積みました。オーストリア継承戦争期の従軍を経て、七年戦争では北米戦線に派遣され、1758年のルイブール攻略遠征で総司令官を務めます。砦と港湾の攻略は大西洋側からサン・ロラン川へ至る英軍の回廊を切り拓き、翌年からのケベックおよびモントリオール方面作戦の前提条件を整えました。

1759年、アマーストは陸上からの圧迫としてティコンデロガ(旧フランス名カリヨン)とクラウン・ポイントを確保し、セントローレンス流域への侵攻経路を固めました。1760年には三方向(ケベックのジェームズ・マレー、シャンプレーン方面のウィリアム・へヴィランド、オンタリオ湖・セントローレンス川を下るアマースト本隊)から協同でモントリオールへ進撃し、総督ヴォードルイユに無血開城を受け入れさせます。これにより、北米におけるフランスの組織的抵抗は終結し、英領支配の基盤が確立しました。

戦後、アマーストは北米駐在英軍の総司令官として駐屯と秩序維持を担い、財政・兵站の節約から前線交易の贈与慣行を縮減し、砦と辺境統治の合理化を図りました。彼の合理主義は軍規の引き締めと補給の効率化には寄与しましたが、先住民社会との外交儀礼(贈与と同盟の更新)に対する理解の不足が摩擦を増幅させた側面がありました。1763年、同盟網の揺らぎと領土拡張への不満は、各地の砦包囲や襲撃として噴出し、いわゆるポンティアック戦争が広がります。

アマーストは1776年に一代貴族アマースト卿に叙され、帰国後はイギリス本国陸軍の総司令官(Commander-in-Chief of the Forces)として1778–1782年、さらに仏革命戦争初期の1793–1795年にも再任されました。晩年はケントで過ごし1797年に没します。北米戦線の成果によって名声を確立した一方、後述する1763年の書簡により、彼の歴史的評価は単純な英雄像から大きく揺さぶられることになりました。

先住民政策と「天然痘ブランケット」問題—史料と解釈

1763年に勃発した一連の武力衝突(総称してポンティアック戦争)は、パリ講和(1763)で英仏間の戦争が終わった後も、辺境の軍事・交易秩序が再編途上にあったことを示します。アマーストは軍事的威圧と懲罰を重視し、贈与・交歓を重んじる従来の外交慣行を「浪費」とみなして削減しました。これは英側の財政負担を軽減する意図でしたが、先住民社会からは同盟関係の軽視と受け取られ、砦包囲や交易拠点への攻撃を刺激する結果となりました。

同年の攻囲戦のさなか、ペンシルベニアの砦(フォート・ピット)周辺では天然痘の流行が発生していました。この状況のもと、現地の民兵・交易業者が先住民側の使者に対し、天然痘患者に接触した毛布や手拭いを渡したことを示す同時代の記録が残っています。さらに、ロンドンに保管される書簡には、アマーストが部下のヘンリー・ブーケ大佐に対し、敵対部族への天然痘感染の利用を示唆する文言で問いかけ、ブーケがそれに応じる形で「試みる」と返答した往復が含まれます。これらの文書は、少なくとも意図のレベルで生物学的手段の使用が議論され、現場で類似の行為が実行されたことを示します。

ただし、歴史学上の論点は二つあります。第一に、これらの行為が実際にどの程度の疫学的効果(感染拡大)をもたらしたのかは、当時すでに複数の経路で天然痘が流行していたため、単一の原因に帰属させるのが難しいという点です。第二に、指揮命令系統において、アマーストの書簡は「許可・奨励」であったのか、感情的・報復的なレトリックが先行したのか、その解釈にも幅が存在します。いずれにせよ、意図の存在と実行例の記録は否定できず、現代の倫理基準からは明白に許容されない姿勢であったことは明らかです。

アマーストの統治方針全体を見ると、彼は先住民を独立した外交主体として遇するよりも、軍事的服従を軸に秩序を再編しようとしました。贈与・同盟更新の儀礼的枠組みを軽視した結果、関係の悪化を招き、後任のトマス・ゲージらが部分的に従来の慣行へ回帰して関係修復に努める展開となります。したがって、アマーストの名は、英仏戦争の勝利という側面と、帝国統治の硬直と暴力性という側面の双方を象徴する存在として記憶されています。

倫理史の観点からは、天然痘の意図的利用に言及した書簡は、近代軍事と医学・疾病の交錯を示す重要史料です。近世的な「報復の正当化」や「敵の殲滅」を語る語彙は、今日の国際人道法や公衆衛生の価値観とかみ合いません。史料批判の課題は残しつつも、植民地戦争の暴力が言語・書簡のレベルでどのように正当化され、現場でどのような逸脱行為を誘発しえたのかを検討することが、アマーストを理解する際の鍵になります。

記憶・地名・再評価—「アマースト」の名をどう扱うか

「アマースト」の名は、北米の都市・郡・教育機関に広く刻まれています。マサチューセッツ州のアマースト町や、同地に立地するリベラルアーツ・カレッジ(アマースト・カレッジ)などが代表例です。これらの命名は19世紀のナショナル・メモリーの形成過程で、英仏戦争の勝者としてのアマースト像が称揚された結果といえます。しかし21世紀に入り、先住民に対する隔離・暴力・病原体利用を示唆する言説への批判的検討が進むにつれ、記念像・紋章・マスコット・建物名の見直しが相次いでいます。教育機関では、学生・卒業生・地域社会の対話を経てシンボルを改める動きが広がりました。

名称変更や記念物撤去は、過去を「消す」行為というよりも、誰の記憶を公共空間に優先的に刻むかという現在の選択に関わるものです。アマーストの軍事的手腕と、書簡に見られる非人道的発想は同一人物の中に共存しており、どの側面を公共の称揚に値するものと見なすかは社会の価値観に依存します。多くの地域社会では、先住民の歴史や視点を組み込む展示・カリキュラムの拡充、土地の伝統的所有者を紹介する「アクノリッジメント(謝辞)」の導入など、単なる名称変更にとどまらない包括的な記憶の再編が模索されています。

同時に、史学的にはアマーストを単純な「悪役」や「英雄」として押し込めるのではなく、帝国拡張・軍事官僚制・財政国家化の文脈で読み解く作業が重要です。彼の政策は、費用対効果や規律を重んじる18世紀的官僚理性の表れであると同時に、文化的相互理解の欠如と差別的前提によって暴力を助長した事例でもあります。この二面性を描くことは、近代世界の形成における暴力と統治の連関を理解する助けになります。

最後に、用語上の注意として、インド総督を務めた甥ウィリアム・ピット・アマースト(Amherst, 1st Earl Amherst)と区別する必要があります。彼は19世紀前半に清との通商交渉(アマースト使節、1816–17)やビルマ戦争などに関わりましたが、人物も時代背景もジェフリー・アマーストとは異なります。授業や試験で「アマースト」とのみ記された場合、どちらを指すかは文脈確認が不可欠です。

総じて、アマーストという語は、英仏植民地戦争の勝利者像と、植民地統治の暴力的側面という相反する記憶の結節点です。軍事的成功の陰で失われた生命と文化に目を凝らし、同時に巨大帝国を運営した18世紀ヨーロッパの制度と思想を相対化して読み解くことが、現代的な歴史理解にとって有益です。過去をめぐる公共の議論に参加する際には、史料に基づく慎重な言及と、当事者に敬意を払う姿勢を併せ持つことが求められます。