概要
「アミアンの和約(Treaty of Amiens)」とは、フランス革命戦争の局面を画する1802年3月に、フランス共和国(第一統領ボナパルト)とイギリス(グレートブリテンおよびアイルランド連合王国)との間で結ばれた講和条約を指し、同席したスペイン王国・バタヴィア共和国(オランダ革命政権)を含む多国間の最終文書として調印されました。1790年代から続いた英仏戦争に一時的な終止符を打ち、欧州と植民地の双方で「平和の休止期」をもたらした点で重要です。日本の教科書ではしばしば「一時講和」「見かけの平和」と説明され、実際、この和約は1803年5月に英が再宣戦して失効し、ナポレオン戦争の本格化へつながりました。
アミアンの和約の核心は、海洋・植民地で優位に立ったイギリスが一定の獲得地(セイロン・トリニダード)を保持する一方、占領地の多くを返還し、地中海・地中海周辺(マルタ・イオニア諸島・イタリア・エジプト)での秩序再編に合意したことにあります。フランス側は大陸での勢力圏(とくにイタリア・ライン左岸)を事実上温存しつつ、地中海の要衝マルタ島の中立化やエジプトからの撤兵を受け入れました。和約は、国内政治的にはボナパルト体制の安定と英国内の反戦世論への応答を同時に満たし、経済・文化面では両国間の往来を活発化させる短いが濃密なインターミッション(幕間)を生み出しました。
成立の背景—第二次対仏大同盟の終結とロンドン予備条約
1798年以降の第二次対仏大同盟では、ロシア・オーストリア・英国などがフランス共和政と対峙しましたが、1799年の統領政府成立とボナパルトの台頭、1800年マレンゴの戦い、1801年のリュネヴィル条約(仏・墺)によって大陸戦線は収束へ向かいます。大陸で孤立しがちになった英国は、通商の再開と財政再建の必要に迫られ、フランス側も対内改革や植民地政策の立て直しを望みました。こうして1801年10月、ロンドンで英仏間の予備条約(ロンドン予備条約)が成立し、地中海と植民地の処理について大枠の妥結が図られます。アミアンでの本条約は、この予備合意を基礎に、スペイン・バタヴィア共和国を含む形で最終化されたものです。
外交過程では、英側のホークスベリー卿(のちのリヴァプール伯)と、仏側の外相タレーランやロンドン駐在のオットが中心的役割を果たしました。国内政治の観点では、英では長期戦を主導した小ピットに代わってアディントン内閣が成立し、重税(所得税)や海上封鎖で疲弊した世論は「とにかく一度、戦争を止めよ」という空気を強めていました。仏では、ボナパルトが宗教和解(1801年コンコルダート)や行政・財政の整備を進めるためにも、対英講和が不可欠でした。こうして1802年3月、北仏の都市アミアンで調印に至ります。
主な条項—地中海と植民地をめぐる再編
アミアンの和約は、形式的には「平和・友好・善隣」の回復を宣言し、捕虜交換・抑留者帰還といった通常条項を含みます。実質的な要点は以下の通りです(地名は当時の表記・勢力を基準):
第一に、マルタ島問題です。英軍が占領していたマルタ(およびゴゾ島・コミノ島)は、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)に返還され、島は「永世中立化」されること、列強の保障(ガランティ)が付されることが取り決められました。英軍は一定の準備期間ののち撤兵し、暫定的な守備は第三国(ナポリ=両シチリア王国)などが担う構想でした。この履行をめぐる遅延が、後述する和平崩壊の導火線となります。
第二に、イギリスの植民地保有です。バタヴィア共和国(旧オランダ)からはセイロン島の割譲を受け、スペインからはトリニダード島の割譲が確認されました。これに対し、イギリスは当時占領していたケープ植民地(喜望峰)や西インド・南米の多くのオランダ領(いわゆるオランダ・ギアナの大部分)を返還することに同意しました。小アンティル諸島のフランス領(マルティニーク、グアドループ、サン=ルシ)なども原所有国へ戻され、英仏のカリブ支配は一時的に戦前状態へ近づきます。
第三に、地中海・イタリア・オリエントの秩序です。フランスは教皇領およびナポリ王国(両シチリア)からの撤兵を約し、英はエジプトからの撤兵を約して、同地をオスマン帝国の宗主権下へ復帰させることで合意しました。また、イオニア諸島の「七島連合(セプティンスラ共和国)」の現状は列強により承認され、英はジブラルタルの保有を維持、スペインはミノルカ島の返還を受けました。オランダ執政家オラニエ公家の補償についても、諸国が別途調整することが定められています。
第四に、周辺的ながら重要な規定として、北大西洋の漁業権や通商の再開手続き、仏領ギアナの国境画定などが盛り込まれました。大陸内部の国境(ライン左岸やイタリア諸共和国)については、すでにフランスと神聖ローマ帝国側の合意(リュネヴィル条約)で定まった秩序を黙示的に追認する形となり、英はそれを事実上受け入れることになりました。要するに、英が海上と植民地で一部の果実を確保し、仏は大陸秩序の主導権を温存する「すれ違いの妥協」だったのです。
破綻の経緯と影響—マルタ問題、拡張の不信、世論の反転
和約はたしかに戦火を止めましたが、その寿命は短命でした。最大の争点はマルタです。騎士団の再建(多国籍団体の人員・資金の再編)と永世中立化の実務は予想以上に難航し、保障国の枠組みも整わないまま時間が経過しました。イギリス政府は、騎士団統治が実効的安全を確保できないとして撤兵を先送りし、フランス側はこれを条約違反として非難しました。英国内でも「撤兵反対」の声が強まり、地中海制海権の要衝を手放すことへの抵抗が政権の立場を硬化させていきます。
他方、フランスは停戦下で国内整備を急速に進める一方、対外的にはオランダ(バタヴィア)・スイス(ヘルヴェティア)への軍駐屯の継続、イタリア諸国の再編・統合(1802年にボナパルトがイタリア共和国大統領に就任)、ピエモンテ併合など、拡張・干渉をやめませんでした。これらの動きは法文上は和約違反と断じにくい側面があるものの、英世論にはフランスの覇権主義が続くという不信を増幅し、印刷物の応酬と相互不信が再燃します。
通商面では、両国の市場が再接続され旅行と出版が活況を呈しましたが、これは同時に英経済の対仏依存や禁輸政策の解除に伴う政治的摩擦も生みました。しだいに「講和は時間稼ぎにすぎない」との声が英議会で優勢となり、結局、1803年5月、イギリスはフランスに対して再び宣戦布告します(アミアンの平和の崩壊)。以後、ナポレオン戦争の長い局面が幕を開け、地中海・カリブ・インド洋・大陸のあらゆる戦線が再活性化しました。
短期的には、この1年ほどの平和は英仏双方に「呼吸の時間」を与え、仏では統領政府の制度化(終身統領への道)や法典編纂の準備、英では海軍力と財政の立て直しが進みました。長期的には、英が海上権益(セイロン・トリニダード)とジブラルタルを固め、後の帝国ネットワーク形成に重要な足場を得た点、仏が大陸秩序の主導権を温存しつつも英の海上優位を覆せなかった点が、それぞれ19世紀国際秩序の骨格を予告したと言えます。
意義と学習の要点—「偽りの平和」をどう捉えるか
アミアンの和約は、単なる一時停戦ではなく、海洋帝国と大陸帝国の利害がどこで交錯し、どこで妥協不能になるかをはっきり示した事件でした。地中海の要衝(マルタ)の中立化が実務上いかに難しいか、植民地の保持・返還が本国の世論と安全保障認識にどのような圧力を与えるか、停戦下の「グレーゾーン行動」(同盟国への駐兵や政治制度の再編)が信頼をいかに損なうか—これらは19世紀に限らず、今日の国際政治にも通じる普遍的論点です。
用語上のポイントとしては、①「ロンドン予備条約(1801)」と「アミアン本条約(1802)」の区別、②条項群の地理的対応関係(マルタ=中立化/セイロン・トリニダード=英保有/ケープ・オランダ領=返還/エジプト=オスマン領へ復帰/ジブラルタル=英保有維持)、③和約の短命化の原因(マルタ問題とフランスの拡張的振る舞い、英世論と政権の硬化)を押さえると、試験でも論述でも筋の通った説明が可能になります。
総括すれば、アミアンの和約は、「革命と戦争の時代」に差し込んだ短い休戦の光でした。ボナパルトの政治演出と英国内政の都合が一致した結果であり、相互不信と戦略的利害の根本的対立は解消されませんでした。しかし、この幕間が与えた経験—貿易と旅行の再開、プロパガンダと世論の揺れ、条約履行の技術的困難—は、のちのナポレオン戦争と19世紀海洋帝国主義の輪郭を、早くも輪郭線として示していたのです。歴史用語として学ぶ際には、和約の「短命さ」だけでなく、そこで可視化された利害と制度の交錯に注目することが、理解を一段深めてくれます。

