アルジェリア戦争(1954–1962)は、フランスの植民地として再編されたアルジェリアにおいて、民族解放戦線(FLN)とその軍事部門(ALN)が主導した独立闘争と、フランス国家・軍・入植者社会(ピエ・ノワール)・武装組織(OAS)などが絡み合って展開した多層的な武力紛争です。形式的には1954年11月1日の一斉蜂起(通称トゥーサン・ルージュ)から、1962年3月18日のエビアン協定と3月19日の停戦、7月1日の住民投票を経て7月5日の独立宣言に至る8年間を指します。戦闘はゲリラ戦・テロ/対テロ・大規模掃討作戦・情報戦・都市戦・国境封鎖・再定住キャンプ化など多様な局面を取り、同時にフランス本国の政体危機(第四共和政の終焉と第五共和政の成立)をも引き起こしました。死者数は推計に幅があり、アルジェリア側では数十万から100万超まで主張が分かれ、フランス軍人・警察・入植者・MNA(メサリ派)らを含む犠牲も甚大でした。戦争は解放と暴力、国家・民族・個人の記憶をめぐる長期の課題を現在まで残しています。
背景には、1830年のアルジェ占領以後に形成された入植者優位の土地・政治・法制度がありました。三県制の「本国編入」の名のもとで、フランス市民権は主に欧州系住民に与えられ、ムスリム多数派は個人身分法(イスラーム法)を保持する代償として市民権から事実上排除され、選挙や教育・雇用で構造的差別に晒されました。1945年5月のセティフ・ゲルマ事件に象徴される流血は、戦後の改革期待が裏切られた失望を深め、民族運動の分裂(FLNとMNAの対立)と急進化を促しました。
発火点と前半期:トゥーサン・ルージュから都市戦へ
1954年11月1日、FLNはアルジェリア各地で警察・軍・象徴施設を狙う一斉攻撃を開始しました。第四共和政は当初「治安維持」の枠内で鎮圧を図りましたが、事態は速やかに軍事化します。山岳・農村ではALNが夜間・分散の打撃と行政施設の破壊で支配域を拡大し、フランス側は「区画制(quadrillage)」と呼ばれる部隊の細密配置、村落の集団移転(再定住キャンプ)、情報提供網の構築で応じました。FLNは同時にフランス国内外のディアスポラへ訴え、チュニジア・モロッコ独立(1956)後は国境地帯での補給線確保を進めます。
1956–57年のアルジェの戦いは、都市テロ/対テロの典型として記憶されます。FLNの女性運搬者・学生・労働者が爆弾を密かに設置し、カフェ・市場・行政施設を狙った攻撃を重ねました。これに対し、マス司令官の空挺部隊は大規模検問・夜間急襲・尋問と拷問・失踪のシステムでネットワークを解体します。短期的に軍事的成果を挙げた一方、その方法は国内外で強い批判を招き、フランスの正統性を著しく傷つけました。拷問の暴露は、ジャーナリストや知識人(『質問(ラ・クエスチョン)』など)の介入を誘発し、戦争の語りを道徳的争点へと押し上げます。
国境では、補給と越境移動を遮断するためにモーリス線(電流・地雷・監視網を備えたチュニジア国境封鎖線)が建設され、1958年にはチュニジア領サキエト・シディ・ユセフへの爆撃が国際的非難を呼びました。スエズ危機(1956)で英仏が中東で挫折するなか、アルジェリア問題は国連や第三世界の世論で「植民地主義の焦点」となり、フランスの孤立を深めました。
後半期と政治の激変:第五共和政成立、エビアン協定、独立
戦局が膠着するなか、1958年5月にアルジェの入植者・軍の一部がパリ政府に反旗を翻し、将軍たちが「フランスの救済」を叫んでド・ゴールを呼び戻す事態が発生しました。第四共和政は崩壊し、ド・ゴールが首相として権力を掌握、憲法改正により第五共和政が成立します。ド・ゴールは当初「アルジェリアはフランスの一部」と発言しつつ、次第に自決(自己決定)の方針へ舵を切り、軍の一部・入植者過激派(OAS)と鋭く対立するようになります。
軍事面では、1959–60年のシャル・プラン(司令官モーリス・シャルによる機動掃討と再定住の組合せ)でALNの正規部隊は打撃を受けましたが、政治決着の圧力はむしろ強まりました。FLNはチュニスに臨時政府(GPRA)を樹立して交渉主体を整え、国連・アフロ=アジア諸国の支持を背景に外交戦でも攻勢に出ます。ド・ゴールは経済・社会対策としてコンスタンティーヌ計画(住宅・雇用・教育の拡充)を打ち出しますが、植民地構造の根本的矛盾を解くには至りませんでした。
1961年、将軍反乱(シャル、ザレールら)とOASのテロは、フランス本国の都市にまで暴力の連鎖を持ち込みました。同年に行われた自決の国民投票でフランス有権者は交渉路線を大差で承認し、1962年3月18日のエビアン協定で停戦・捕虜交換・フランス人の権利保障・サハラの一部権益などが定められました。3月19日に停戦が発効、7月1日にアルジェリア住民投票が行われ、7月5日に独立が宣言されます(フランス側の独立承認は7月3日)。
社会の代償と長い記憶:ピエ・ノワール、ハルキ、記憶の戦争
独立直前から直後にかけて、約80万~100万人規模のピエ・ノワールがフランスへ大量移住しました。彼らは本国での住宅・職・社会統合に課題を抱え、地域社会の記憶政治に新たな層を加えました。他方、フランス側に協力したムスリム補助兵ハルキと家族は報復の危機に晒され、多数が殺害・迫害されました。フランスは一部を受け入れたものの、多くは現地に取り残され、長く公的承認と補償の問題が尾を引きました。
都市と農村では、戦時の掃討・拷問・失踪・再定住政策が社会の裂け目を深くし、独立後の国家形成(FLN一党体制・軍の影響力)にも影を落としました。フランス国内でも、警察による弾圧事件(1961年パリのデモ弾圧など)は抑圧の記憶として語り継がれ、戦後の知識人・歴史家によって検証されました。
法と記憶の領域では、長らくフランス当局はこの戦争を「事件(les événements)」と呼びましたが、1999年に議会が公式に「戦争」と認定しました。21世紀に入ると、拷問・失踪の国家責任、個別事件の真相究明、記念日の位置づけ、教科書叙述、博物館・記念館の展示など、「記憶の戦争(guerre des mémoires)」が続いています。アルジェリア側でも、犠牲者数・殉教者像・内部分裂(MNAとの抗争など)の記憶化には政治的配慮が介在し、単線的な英雄物語では捉えきれない複雑さが存在します。
意義と学習の要点:多層の戦争を読む、用語上の注意
アルジェリア戦争は、植民地近代の「統治の技術」と「抵抗の技術」が正面衝突した事例です。四つの層を区別しつつ関連づけて学ぶと理解が深まります。第一は軍事層(ゲリラ/対ゲリラ、都市テロ/対テロ、国境封鎖、情報戦)です。第二は政治層(第四共和政の不安定、ド・ゴールの権力構築、自決への転回、OASの反乱)です。第三は社会層(ピエ・ノワール、ハルキ、農村再定住、都市社会、ディアスポラ)です。第四は国際層(国連、第三世界の台頭、隣国の独立、冷戦下の思惑、スエズ後の欧州)です。これらが相互に影響し合うことで、戦争は植民地の枠を超えた欧州・地中海世界の大変動となりました。
用語上の注意として、①FLN(民族解放戦線)とその軍部ALN、②海外の暫定政府GPRA、③入植者武装組織OAS、④MNA(メサリ派)とFLNの抗争、⑤モーリス線・シャル・プラン・コンスタンティーヌ計画、⑥エビアン協定と停戦日(3月19日)、⑦独立の法的・政治的時系列(仏国民投票→エビアン→アルジェリア住民投票→独立宣言)を正確に押さえると、叙述の骨格が安定します。犠牲者数や責任の配分は資料と立場により見解が分かれるため、複数推計を併記し、出典と方法の違いを説明する姿勢が望ましいです。
総括すれば、アルジェリア戦争は、フランスとアルジェリア双方に制度・社会・記憶の長い課題を残しました。戦時の暴力は終結しても、帰還者の統合、ハルキとその子孫の待遇、拷問と失踪の解明、歴史教育、記念日の共有など、平和のインフラを築く作業は現在形の課題です。世界史の学習では、戦争を「独立の達成」だけでなく、民主政治と法の支配、情報と世論、国際秩序の再編といった普遍的論点へと接続して考えることが大切です。

