アンカラ(アンゴラ)の戦い – 世界史用語集

アンカラ(アンゴラ)の戦いは、1402年7月、アナトリア内陸のチュブク平原(今日のアンカラ北東)で行われた、ティムール(タメルラン)率いるティムール朝軍と、オスマン帝国のスルタン、バヤズィト1世(稲妻王)の間の決定的会戦です。結果はオスマン側の大敗で、バヤズィトは捕縛され、帝国は王子たちの内戦(いわゆる空位時代・1402〜1413)に陥りました。この挫折は、コンスタンティノープル包囲の即時解除やアナトリア諸ベイリクの復活をもたらし、オスマン拡張の勢いを一時的に止めました。欧州にとっては、オスマンの「不可逆的前進」に対する思わぬ猶予を与えた事件として記憶されます。

本項では、①前史と衝突の構図、②兵力・布陣・戦場条件、③会戦の推移、④結果・影響と学習要点、の順で整理し、年号・地名・人物を明確に押さえます。なお、古い史料は兵数を誇張する傾向が強いため、規模の具体的数字は幅を持って理解することが大切です。

スポンサーリンク

前史と衝突の構図:急膨張するオスマンと西に現れたティムール

14世紀末、オスマン帝国はバルカンとアナトリアで急速に勢力を伸ばし、バヤズィト1世(在位1389–1402)はベイリク(地方政権)を次々と併合してアナトリアの再編を進めました。1394年からはコンスタンティノープル包囲を開始し、バルカンではニコポリスの戦い(1396)で十字軍を破って欧州の脅威を退けます。他方、東方では中央アジアからイラン・イラクを制圧したティムールが西進し、征服された諸政権の亡命者や、オスマンに圧迫されたアナトリア諸ベイリクの訴えを取り次いで、両大国間の緊張が高まりました。

外交的には、互いに威令の行使と権威の確認を競い、使節の往復が侮辱と見なされるなど、名目や儀礼の衝突が実戦への引き金になりました。戦略環境の要点は二つです。第一に、オスマンはバルカンとアナトリアで二正面負担を抱えつつ、バヤズィト自身が迅速な機動戦を好んだこと。第二に、ティムールは征服地の騎射兵・重騎兵に加え、インド遠征(1398–99)後に得た象兵を前衛に配するなど、兵種の多様性と戦術的柔軟性に富んでいたことです。アナトリア諸ベイリク(カルマーン、ジェルミヤーン、メンテシェ、サルハーン等)の一部は心情的・血縁的にティムールへ傾いており、戦況のなかで離反の潜在リスクを抱えていました。

兵力・布陣と戦場条件:チュブク平原、水源、暑熱、諸侯軍の脆さ

戦場は、アンカラ北東のチュブク平原に広がる乾いた台地で、わずかな河川・泉が軍の生命線でした。ティムールは先着して水源と有利地形を押さえ、陣城・壕・荷駄の環を築いて、騎兵突撃への備えを固めます。補給線を伸ばして急行したオスマン軍は、夏の高温と渇水、行軍疲労に悩まされ、当初の攻勢持久力を削られていきました。

両軍の兵数は史料で大きく異なりますが、おおむねオスマンはルメリア(バルカン)の封土騎士(ティマール騎兵)と歩兵、アナトリアの諸侯軍、セルビアの重騎兵(ステファン・ラザレヴィチ率いる)などを含む大軍を動員しました。対するティムール軍は、中央アジアの騎射兵を中核に、重騎兵・歩兵・工兵・象兵を組み合わせた合成軍で、序列化された諸部族軍・封臣軍を翼と予備に配していました。肝心のオスマン右翼・左翼には、それぞれ王子(スレイマン、ムサなど)が配され、迅速な突撃で決戦を早期に決める構想でしたが、諸侯軍の忠誠の不確実性が潜在的弱点でした。

会戦の推移:前哨戦から両翼崩壊、セルビア騎兵の殿、バヤズィト捕縛へ

前哨戦ののち、オスマンは主力で正面攻撃に移り、翼側からも突撃をかけました。ティムール軍は前衛の象兵と弓騎兵の射撃で間合いを調整しつつ、壕と荷車陣で突撃の勢いを殺ぎ、翼側から包囲的圧力を強めます。長引く戦闘と暑熱、渇きに加え、戦場に展開していたアナトリア系諸侯の部隊の一部がティムール側へ寝返ると、オスマンの両翼は次第に動揺・崩壊しました。

なかで、セルビアの重騎兵はステファン・ラザレヴィチの指揮で粘り強く戦い、退却路を確保する殿(しんがり)の役割を果たしたと伝えられます。しかし全体として包囲網は狭まり、日暮れまでの攻防でオスマン中軍は瓦解、混乱の中でバヤズィト1世が捕縛されました。王子の一部とルメリア勢は辛うじて撤退し、やがてバルカン・アナトリア各地で王子間の内戦が始まることになります。

結果・影響と学習要点:空位時代、諸ベイリク復活、コンスタンティノープル包囲の解除

戦後、ティムールはアナトリアを縦横に進軍し、バヤズィトに征服されていたベイリク諸政権の復活を宣言して旧支配者に返還しました。彼はバルカンへの深追いを避け、戦利品と威信を携えて東方へ去ります(1405年にティムールが没)。一方のオスマンは空位時代(インテレグナム)に入り、バヤズィトの王子スレイマン、イーサー、ムサ、メフメドらが覇権を争いました。最終的にメフメド1世が1413年に統一を回復しますが、それまでの十余年、国家は分裂と内戦で疲弊しました。

広域的な帰結は三つあります。第一に、コンスタンティノープル包囲の解除です。都市は半世紀の猶予を得て、1453年のメフメト2世による陥落まで生き延びました。第二に、アナトリア西部の政情が複雑化し、オスマンの中央集権化が遅延したこと。第三に、欧州諸国はオスマンの不可逆的進撃像を一時的に修正し、外交・同盟の再編に余地が生まれました。もっとも、15世紀なかばにはオスマンがふたたび統合と拡張を果たし、ティムールの勝利は長期的にはオスマンの台頭を止める決定打にはなりませんでした。

学習の要点として、①年号と場所—1402年、アンカラ(アンゴラ)=チュブク平原、②陣営と人物—ティムールバヤズィト1世、セルビアのラザレヴィチ、③戦術的ポイント—水源の先占と壕・荷車陣、象兵と弓騎兵の連携、諸侯軍の離反、④結果—オスマン空位時代、アナトリア諸ベイリクの復活、コンスタンティノープル包囲の解除、の四点を確実に押さえると理解が安定します。数字(兵数・損害)は史料で大きく揺れるため、因果関係と戦場条件に重心を置くのが有効です。

総括すると、アンカラの戦いは、戦術上は水と地形・工兵と兵種運用、政治上は在地諸勢力の忠誠と離反、戦略上は二正面負担と補給という、複数の層が交差した会戦でした。勝者ティムールの帝国は短命に終わりましたが、この一戦はオスマン帝国の形成史に深い刻印を残し、東地中海世界の時間軸を一時的に押し戻したのです。戦いの名が「アンカラ(アンゴラ)」と二通りに記されるのは、トルコ語形と欧語形の違いに由来し、いずれも同一の会戦を指します。