「アンジュー伯(Comte d’Anjou)」とは、中世フランス西部のアンジュー(中心都市アンジェ)を領した伯位の称号であり、9〜12世紀にかけて勢力を拡大したインジェルジェ家(アンジュー家=Ingelgerids)からプランタジネット家、さらに13世紀のカペー家分家へと受け継がれた歴史的称号を指します。アンジュー伯はロワール川流域の交通を押さえ、ノルマンディー・ブルターニュ・メーヌ・トゥーレーヌ・ポワトゥーと接する戦略的位置を占めました。この称号の歴史は、ヨーロッパ封建社会のダイナミズム—在地領主の自立、城郭建設競争、修道院ネットワーク、婚姻外交、王権との交渉—を凝縮しており、とりわけ11〜12世紀にアンジュー伯家の一員ジョフロワ・プランタジネットが皇妃マティルダ(神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世未亡人、イングランド王ヘンリ1世の娘)と結婚したことから、のちの「プランタジネット朝(アンジュー朝)」の端緒を開いた点で世界史上の重要性を持ちます。さらに13世紀にはルイ9世の弟シャルル・ダンジューがこの称号を継ぎ、シチリア・ナポリ王国を切り開くことで、同じ「アンジュー」の名のもとに英仏・地中海世界をつなぐ二つの系列(プランタジネット系とカペー系アンジュー)が並立する構図が生まれました。
本稿では、(1) 用語と地理・時期の範囲、(2) インジェルジェ家の成立と拡張—黒伯フルクに至る戦略、(3) ジョフロワ・プランタジネットと「アンジュー帝国」への跳躍、(4) カペー家分家による再編と公国化—シャルル・ダンジューからヴァロワ=アンジューまで、の四点から「アンジュー伯」という用語の骨格と射程を整理します。単なる系譜の羅列ではなく、領主国家の形成原理と婚姻・封臣関係・君主権の駆け引きという観点を重視して叙述します。
用語と範囲—地理・称号・時代の重なり
「アンジュー」はフランス西部ロワール中流域の歴史的地域名で、中心都市アンジェ(Angers)を核にメーヌ川・ロワール川の合流点を押さえる交通の要衝でした。ブドウ栽培や岩塩、石材、森林資源に恵まれ、修道院経済(フォントヴロー修道院など)を含む宗教的インフラも厚く、在地領主の課税・保護権と深く結びついていました。伯位は当初カロリング朝・初期カペー朝の下で王権から委任された地方官の性格を帯びましたが、10世紀以降、世襲化・在地化し、伯家が自立的な権力として振る舞うようになります。
アンジュー伯の称号は、概ね三つの大きな局面に分けて理解できます。第一は9〜12世紀のインジェルジェ家の時期で、フルク一族がアンジュー・メーヌ・トゥーレーヌをめぐってブロワ家やノルマン公国と競い、城郭建設と婚姻外交で領域国家の骨格を固めました。第二は12世紀半ば、ジョフロワ5世(プランタジネット)が皇妃マティルダと結んで生まれたヘンリ(のちのイングランド王ヘンリ2世)が英仏複合的な「アンジュー帝国」を築いた局面です。第三は13〜15世紀のカペー家分家時期で、アンジュー伯位がフランス王家の末子相続(アパナージュ)として再配分され、シャルル・ダンジューが地中海でシチリア・ナポリ王として活動、やがて1360年の公国化(アンジュー公)を経てヴァロワ=アンジュー家が「善良王ルネ」に至る文化的輝きを示しました。このように、同じ「アンジュー伯」という語は、英仏王権・地中海政治・在地領主制の交差点で複数の文脈を持ちます。
地理的にも、アンジューはノルマンディー(北西)、メーヌ(北)、ブルターニュ(西)、トゥーレーヌ(東)、ポワトゥー(南)と接し、封建的戦争と婚姻の舞台でした。都市アンジェはロワール水運と陸路が交わる位置にあり、伯の居城(のちのアンジェ城)と司教座が政治・宗教の双輪として機能しました。河川・湿地・台地が入り組む地勢は、防御拠点の選定と補給線の維持に直結し、アンジュー伯の戦術は「城と道」の制御を中心に発展します。
起源と拡張—インジェルジェ家から黒伯フルクへ
伝承的祖とされるインジェルジェ(9世紀末頃)から、息子のフルク1世(赤伯)・フルク2世・ジョフロワ1世(灰外套、グリーズゴネル)へと継承が進み、アンジュー伯家は周辺の諸伯—トゥール、メーヌ、ブロワ—と抗争しながら勢力を拡張しました。ジョフロワ1世はカペー朝初期の政治変動の中で巧みに立ち回り、教会・修道院への寄進と軍事的圧力を併用してアンジューの骨格を固めました。続くフルク3世ネラ(「黒伯」987–1040)はアンジュー伯家の中興の名将として知られ、城郭建設と再建の名手でした。彼は対ノルマン・対ブロワの戦争を繰り返し、ロワール流域に一連の要塞(例:ランジュ、モンソロー、マイエンヌ方面の拠点)を配置し、敵の行軍経路を切断しました。彼の統治は苛烈でしたが、修道院改革運動への支援や巡礼路の保護など、支配の正当化に宗教政策も用いました。
フルク3世の甥ジョフロワ2世マルテル(在位1040–1060)は、さらに攻勢を強め、トゥールとメーヌへの影響力を拡大しました。彼はブロワ伯家との対抗でトゥール司教座の支配権を争い、メーヌ伯領では継承問題に介入して優位を築きます。しかし、彼に直系の後継がいなかったため、継承は弟筋のフルク4世ル・レシャン(在位1068–1109)へ移りました。フルク4世は自伝的覚書を残した稀有な領主としても知られ、内紛と対外戦争の渦中で権力再建に苦しみましたが、彼の治世の後半に秩序は回復へ向かいます。
フルク5世(在位1109–1129)は、アンジュー伯家を大西洋と地中海の二つの世界へ開く人物でした。まず、ノルマン公国支配を巡る英仏の争いに際して、彼はノルマン女相続人と自家の利害を調整しつつ、息子ジョフロワを国際政略の駒に育てます。他方でフルク5世自身は東方へ転じ、1131年にはエルサレム王女メリザンドと結婚してエルサレム王フルクとなりました。彼は十字軍国家の国王として聖地の防衛に努め、アンジュー—東地中海間の人的・象徴的な連結を生み出しました。フルクがエルサレムへ去ったことで、アンジュー本国は息子ジョフロワ(のちのジョフロワ5世プランタジネット)に委ねられ、ここから称号は英仏王権を巻き込む新段階に入ります。
プランタジネットと「アンジュー帝国」—婚姻外交が生んだ複合王権
ジョフロワ5世(プランタジネット、在位1129–1151)は、ヘンリ1世の王女で皇妃の身であったマティルダと1128年に結婚しました。マティルダは兄ウィリアム(難船事故で死亡)の後、イングランド王位継承権を持つ有力な請求者であり、彼女とジョフロワの子ヘンリは、英仏両世界をまたぐ「血統上の橋」となります。ジョフロワはトゥーレーヌとメーヌの掌握を進め、1150年にはノルマンディー公位を獲得、息子ヘンリに継承させました。1154年、ヘンリは義父ヘンリ1世の没後の混乱(スティーブン王との内戦=無政府時代)を制してイングランド王ヘンリ2世として即位し、アンジュー伯位・ノルマン公位・アキテーヌ公位(エレオノール・ダキテーヌとの婚姻による)などを束ねて、ブリテン島からピレネーまでを連ねる複合的領域、いわゆる「アンジュー帝国」を形成しました。
この段階での「アンジュー伯」の意味は、単独の地方領主称号を超え、英仏複合王権の中核的継承単位を指す政治的価値を帯びます。ヘンリ2世は息子たちへ領地を分配し、三男ジョフロワ(小ジョフロワ)にアンジュー伯位を与えて統治させました。ところが、王権と諸侯団の力学、フランス王フィリップ2世(オーギュスト)の巻き返しの中で、アンジューを含むフランス側領地は圧迫を受けます。ヘンリ2世の死後、リチャード1世、ついでジョン王の時代に、フランス王権は英仏領の分離を狙い撃ちにし、1204年、フィリップ2世はノルマンディーを奪回、アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌもフランス王領へと組み込まれました。こうして、プランタジネットによる「アンジュー伯」の直接支配はフランス本土で終焉を迎え、称号の重みはイングランド王家の栄光と喪失の両面を記憶する歴史的象徴へと変わります。
とはいえ、アンジューの名は英仏双方で政治文化的なブランドとして生き続けました。イングランド側では「アンジュー朝(Angevin)」という呼称がヘンリ2世・リチャード1世・ジョンの系譜に付され、行政改革・普通法の整備・財政制度の近代化などと結びつけて語られます。フランス側では、王権が没収した旧アンジュー伯領を王子たちのアパナージュに再配分し、称号は新たな系統の栄達の足場となりました。
カペー系アンジュー伯と公国化—シャルル・ダンジュー、ヴァロワ=アンジュー、そして「ルネ」
1204年以降、アンジューはフランス王領に編入され、のちに王弟・王子の領地として再割当されます。1246年、ルイ9世(聖王)の実弟シャルル・ダンジューがアンジュー伯に叙され、彼はさらにプロヴァンス女相続人と結婚して地中海への足場を得ました。シャルルは教皇の後押しでシチリア王マンフレーディを破り(1266年)、シチリア王(のちナポリ王)となって地中海政治の主役に躍り出ます。ここに、同じ「アンジュー」の名を冠しながら、英仏北西ヨーロッパに根差したプランタジネット系のアンジューと、カペー家分家が地中海で王権を展開する「アンジュー=シチリア(=ナポリ)」の二系列が並立する局面が生まれました。1282年の「シチリアの晩祷」でシチリア島は失いますが、ナポリ王国は14世紀にかけてアンジュー家の王国として存続します。
アンジューそのものの称号は、14世紀に再編されます。百年戦争と内乱のただなか、1360年の条約(ブレティニー)に前後して、アンジューは伯位から「公位(アンジュー公)」へと昇格し、フランス王太子の弟ルイ(のちのヴァロワ=アンジュー家祖)が叙されました。ヴァロワ=アンジュー家は、プロヴァンスやナポリ王位請求などを絡めてヨーロッパの継承争いに深く関与し、その末には「善良王ルネ(ルネ・ダンジュー)」が登場します。ルネは15世紀にナポリ王位・エルサレム王位など多くの称号を名乗りつつ、実効支配は限定的でしたが、芸術・文学の保護者として名を残しました。ここでの「アンジュー」は、軍事・財政の大国ではなく、文化と象徴の拠点としての位相を強め、宮廷文化・都市自治・商業ルートの結節点としてプロヴァンスとともにヨーロッパ文化史に刻まれます。
総じて、カペー系のアンジュー伯(のち公)は、フランス王権のアパナージュ政策の具体例であり、王家の余剰王子に領地・称号・外交舞台を与える制度的装置でした。これは王権の統合と分権の絶妙なバランスを取り、王国内の有力者を王家の「内なる競争」に包摂する効果を持ちました。ただし、地中海での王位請求や百年戦争の渦中で、アンジュー=ヴァロワ系はしばしば過大な野望を抱え、フランス王権の財政・軍事に重荷を負わせる場面もありました。
最後に、用語上の注意を添えます。日本語の「アンジュー伯」は狭義にはアンジェを中心とする伯領(〜14世紀半ば)を統治した称号を指しますが、英語・仏語文献では「Angevin(アンジュー系)」がプランタジネット朝全体を指す用語として広く使われ、しばしば「アンジュー帝国(Angevin Empire)」という表現で英仏複合王権をまとめて呼びます。他方、イタリア史で言う「アンジュー家(Angevins)」は多くの場合シャルル・ダンジューに始まるカペー系=ナポリ王国の家系を指し、同じ「アンジュー」の名でも系統が異なります。学習や叙述では、(a) インジェルジェ家〜プランタジネット(英仏北西)、(b) カペー=アンジュー(フランス王家分家・地中海)の二系列を峻別し、伯/公の位階や年代の転換点(1204年の王領編入、1360年前後の公国化)を明示すると混乱を避けられます。
アンジュー伯の歴史は、地方領主が城と修道院を軸に自立し、婚姻と封臣関係で領域を縫い合わせ、やがて大王権と衝突・融合して広域ネットワークを形成するという中世ヨーロッパ社会の典型的軌跡を示しています。黒伯フルクの築城と行軍、ジョフロワ・プランタジネットの婚姻外交、ヘンリ2世の行政改革、シャルル・ダンジューの地中海政策、ヴァロワ=アンジューの文化保護など、各段階は「アンジュー伯」という称号が持つ意味の多層性—軍事・制度・象徴—を映し出します。アンジューという一地方名に付された称号は、時に英仏両王国を結び、時に地中海世界に広がり、ヨーロッパの政治地図を書き換える触媒となりました。称号の移動と系譜の交錯をたどることは、国家や民族の固定観念を越え、封建社会の柔らかな秩序—契約と名誉、家産と官位、教会と軍事—の実像を捉える上で有効です。

