イェルマーク(イェルマーク・チモフェーエヴィチ、?–1585頃)は、16世紀末にウラルを越えて西シベリアへ侵入し、シビル・ハン国(クチュム・ハン政権)に打撃を与えたカザック(コサック)の指導者です。商人ストロガノフ家の支援を受けて私的遠征を開始し、1582年にシビルの都カシリク(イスケル)を占領しました。ほどなく反撃に遭って撤退・戦死したものの、彼の行動がモスクワ国家によるシベリア展開の実践的導火線となり、のちのトユメニ(チュメニ、1586)・トボリスク(1587)などのオストログ(木柵砦)建設とヤサク(毛皮地租)体制の整備へ連なる道筋を開きました。英雄叙事詩や伝説の中で、イェルマークは「シベリアの征服者」として記憶されますが、その背後には先住民社会への圧力・交易秩序の転換・病と暴力の拡散という影も存在します。本稿では、出自と背景、遠征の展開、退勢と最期、後続の国家的進出、そして記憶と評価を整理します。
イェルマークの素性は必ずしも明確ではありませんが、ヴォルガ~カマ流域の水運・略奪・護衛に従事するカザック集団の頭目として名が現れます。カザックは正規の軍人でも単なる盗賊でもなく、河川と草原の縁で傭役・交易・略取を横断する境界人でした。ストロガノフ家は、ウラル前縁に領地と製塩・鉄業の拠点を持つ巨大商人で、東方の脅威(タタール諸勢力)からの防衛と毛皮・交易路開拓を同時に望んでいました。国家(イヴァン4世のモスクワ)が全軍を割けない状況で、彼らは私的資金と勅許状の中間にある形式でカザックを雇い、ウラルの峠を越えてシベリア側へ出る計画を具体化します。
出自と遠征の背景:ストロガノフ家とカザックの動員
16世紀のモスクワ国家は、カザン(1552)・アストラハン(1556)を征服してヴォルガ下流まで勢力を伸ばしていましたが、西方のリヴォニア戦争の長期化、南のクリム=タタールへの備えなどで兵力と財政は圧迫されていました。東方のシビル・ハン国は、もとはキプチャク・ハン国の分派から出た政権で、オビ・イルチシュ・トボル河谷のトルコ系遊牧・半農耕諸集団を糾合し、毛皮ルートと朝貢関係を押さえていました。商業的利害と安全保障の動機が重なり、ウラルのこちら側に拠点を置くストロガノフ家は、国境の襲撃に対する自衛と先制の名目で、カザック集団を越境行に投入します。
イェルマークは、同じく名を知られるアタマン(頭目)—イワン・コリツィン、アレクサンドル(サシカ)ら—とともに、十数~数百の兵を核にした遊撃的な遠征隊をまとめ上げました。装備は火縄銃・槍・弓・斧、軽舟と筏、携帯砲を含み、河川の分水界を越えるための運搬(ポルタージュ)を前提とします。彼らはウラルの支脈に沿ってチュソヴァヤ川・タギル川系から分水嶺を越え、トゥラ・トボル・イルチシュの水系へ乗り入れる作戦を立てました。航路は季節と水位に大きく依存し、氷解・増水のタイミングを見極める経験が不可欠でした。
遠征は私的企業の色が濃いものでしたが、ストロガノフ家は勅許状で境界防衛と砦建設を担う半公的主体でもありました。彼らは武器・食糧・工匠・測量の資源を提供し、イェルマーク隊は現地での戦闘と調略、通行税の徴収、捕虜・人質の交換交渉を担いました。のちにイェルマークが獲得地をイヴァン4世に「献上」したという伝承は、この公私混合の性格を象徴的に語るものです。
ウラル越えと西シベリア侵入:チュワシ岬の戦いからカシリク占領へ
イェルマーク隊は、支流・支谷を遡行し、分水界で舟材を担ぎ上げながらウラルを越えました。山越えの先には、湿地と蛇行河川が広がる西シベリア低地が待ち受けます。彼らはマーンシ(ヴォグル)やハンティなど先住の諸集団と遭遇し、戦闘と贈与・同盟を織り交ぜて進みました。行軍の最初の難関は、支谷の急流と浅瀬、そして対岸の待ち伏せでした。カザックは軽快さを武器に、舟を盾にした臨時の胸壁と火縄銃の斉射で突破口を開きます。
決定的だったのが、1582年の「チュワシ岬の戦い」と総称される戦闘です。イルチシュ川の屈曲部に築かれたクチュム方の陣地に対し、イェルマーク隊は河岸の遮蔽物と携帯砲を活用して突撃し、守勢側を崩しました。指揮官の一部が戦死・逃散すると、連鎖的に周辺の支配層が服属や逃避を選択し、反対にイェルマークへ協力する勢力も現れます。秋にはシビルの都カシリク(イスケル)に迫り、同地はほぼ無血に近い形で占拠されました。イェルマークは越冬の準備に入り、周辺からのヤサク(毛皮)徴収と人質の確保を進めます。
この段階の彼の統治は、恒久的行政というより、軍事的威光と人質・贈与に基づく一時的な秩序でした。彼はモスクワへ使節を送り、戦利品と土地の献上を申し出て、正式の赦免と援兵・物資の供給を求めます。イヴァン4世は歓待と軍旗・鎧の下賜でこれに応じ、象徴的に「国家の事業」へ引き寄せました。伝説的な「重い鎧」は、この時に与えられた贈り物として語り継がれます。
一方、クチュム・ハンは草原・森のネットワークに潜み、反撃の機会をうかがいました。彼は騎兵と弓騎の機動力を活かし、補給線の遮断、同盟集団の離反工作、夜襲でイェルマークの包囲を狭めていきます。冬営の疲労と疫病、食糧の不足は、遠征隊の戦闘力を目に見えて削りました。
退勢と最期:反撃、撤退、そして伝承
1584年には、クチュムの奇襲でカシリク近郊の陣営が壊滅的打撃を受け、イェルマークはわずかな兵で持ち直すも、優勢を回復できませんでした。補給を携えたモスクワの小部隊が到着して一時的に態勢を立て直したものの、周辺の服属集団は風見鶏のように動き、イェルマークの威信は低下していきます。最終局面は、1585年の夜襲とされます。イルチシュやワガイ川沿いの渡河点で、眠りを襲われたイェルマークは退路を求めて川に入り、重い鎧ゆえに沈んで溺死した、と伝承は語ります。場所や年次については史料間で幅があり、彼が戦場で討ち取られたのか、退避中に事故死したのか、細部は断定できません。ただ、遠征隊の核が崩壊し、残兵がウラル側へ退いたのは確実です。
イェルマークの死後、クチュムは一帯の回復に努めますが、彼の政治基盤はすでに脆く、対立氏族や周辺集団への求心力は低下していました。さらにモスクワは、個人の冒険に依存しない正規のヴォエヴォダ(司令官)と兵・職人・農民を送り込み、砦と道路・舟運の再編を本格化します。結果として、イェルマークの喪失は「撤退」ではなく、「官の進出」への転位として作用しました。
後続の国家的進出:都市・オストログ網とヤサク体制
1586年のトユメニ(チュメニ)築城、1587年のトボリスク建設は、シベリア支配の基幹をなす拠点づくりでした。トボリスクはトボルとイルチシュの合流点を押さえ、以後、司令部・聖職・商人・職人を抱える行政都市として機能します。さらに、イシム、タラ、トムスク(1604)、エニセイスク(1619)、ヤクーツク(1632)などのオストログが河川に沿って連鎖的に築かれ、毛皮の流れと軍の移動、年貢の集積が一本の幹線に束ねられました。川こそが道路であり、砦は中継地・徴収所・裁判所・教会・倉庫を兼ねる「多機能ステーション」でした。
統治の柱となったのが、ヤサク(毛皮地租)体制です。先住の諸集団—ハンティ、マンシ、サモエード系、さらに東方のエヴェンキなど—は、氏族・ムラの単位で毛皮を年貢として納める義務を負わされ、代償として交易と保護(とされるもの)に接続されました。人質の徴立、通訳(トルクマン)、誓約儀礼、記録のための刻印など、徴収は象徴政治と暴力の両輪で進められます。教会は洗礼・学校・文書化で関与し、軍は反抗の鎮圧と要地の守備に当たりました。モスクワ国家にとって、シベリアは貴重な毛皮財政の源泉であり、対外戦争の貨幣化と宮廷財政を支える「極北の宝庫」と化していきます。
この制度化は、イェルマーク個人の事績を超えた国家の長期戦略を映します。彼の遠征が立証したのは、「ウラルの向こうは到達可能で、敵は分断可能で、皮革と人の流れは制御可能」という現実でした。以後、私的なカザックの機動力と、公的なヴォエヴォダ統治、商人・聖職のネットワークが「一体運用」され、シベリアは段階的に国家の内側へ取り込まれていきます。
記憶と評価:英雄像、叙事詩、史料の幅、先住民社会への影響
ロシアの民衆叙事詩(ビリーナ)や年代記は、イェルマークを豪胆かつ機略に富む英雄として歌い上げます。イヴァン雷帝から賜った鎧、風を切る舟隊、川霧の中からの一斉射、そして「シベリアを国家へ献上する」場面は、近代に至るまで版画・絵画・学校教科書で繰り返し描かれました。19世紀の帝国意識と結びつくと、彼は東方拡張の象徴的開拓者として神話化されます。他方、20世紀後半以降の研究は、彼の行動を私的企業と国家戦略の結節点として具体化し、遠征隊規模・戦闘の位置・死亡の状況に関する史料の差を吟味しました。伝承の華やかさに比して、一次史料は断片的で、後代の潤色を除いた核を見極める作業が重要です。
評価のもう一つの軸は、先住民社会への影響です。遠征は直接の殺戮だけでなく、疫病の持ち込み、捕虜・人質の慣行、交易条件の強制変更を通じて、ハンティ・マンシをはじめとする諸集団の生活世界を大きく揺さぶりました。毛皮の外部流出が現地の生態と生業を変え、族内・族間の不均衡を拡大させます。キリスト教化や学校の設置は、文字・記録・司法の導入という側面と、文化的同化・言語喪失の側面を併せ持ちました。イェルマークを「征服者」と呼ぶか「開拓者」と呼ぶかは、語る立場によって結論が分かれます。
総じて、イェルマークは国家と辺境の「ハイブリッド」を体現した人物でした。彼は私的資本と境界人の機動力によって扉をこじ開け、そこへ国家の砦・文書・税が雪崩れ込む通り道を作りました。伝説の輝きと史実の粗さ、英雄像と先住民の記憶、その両方を見据えることで、シベリア拡大という大きな歴史の中に、イェルマークという個人の線をはっきりと描くことができるのです。

