「硫黄島占領」とは、太平洋戦争末期の1945年2月19日から3月26日にかけて、アメリカ軍(主力は米海兵隊)が小笠原諸島の硫黄島(いおうじま/いおうとう)を上陸・制圧し、軍政下で航空基地として運用を開始した一連の過程を指します。米側作戦名は「ディタッチメント作戦」で、マリアナ基地から本州を爆撃するB-29の護衛・救難と、対日戦略の前進拠点の確保を主要目的としました。日本側は栗林忠道中将を司令官とする守備隊が、全島にわたる坑道網と地下陣地、洞窟連絡路を構築し、長期持久と日米の消耗戦を狙いました。短期決戦を志向せず、米軍の上陸後に一斉火力で迎え撃つという防御思想は、従来の水際反撃からの大きな転換でした。戦闘は極めて激烈で、米軍は甚大な損害を負いながらも島を制圧し、以後、数千機規模のB-29が不時着・緊急着陸に使用するなど、航空戦の後方機能として活用されました。戦後、硫黄島は長く米軍管理下に置かれ、1968年に日本へ返還され、現在は航空自衛隊の基地として運用されています。
「占領」という語は、ここでは単に戦術的勝利を意味するのではなく、島の軍政・基地化・航空運用という継続的支配を含意します。戦闘そのもの(上陸・擂鉢山の攻略・北部台地の掃討)と、飛行場の再整備・救難運用・戦後の行政処理は連続したプロセスでした。本稿では、地理と戦略背景、両軍の準備と戦闘様式、作戦の経過、占領後の運用と記憶という順に整理します。
地理・戦略背景と作戦立案:小島が持つ「空の要衝」
硫黄島は小笠原諸島の北部に位置する火山島で、南北約8キロ、東西約4キロと小規模ながら、北端の台地(本営・飛行場群)と南端の擂鉢山(すりばちやま)を結ぶ緩やかな馬蹄形の地形をもちます。海面近くまで延びる黒色の火山砂と緩斜面は、上陸正面からは遮蔽物に乏しい一方、地下は凝灰岩と溶岩層が重なり、掘削による洞窟化に適していました。降雨が少なく植生はまばらで、砂と硫黄臭を帯びた熱地盤は、塹壕の崩落や機材の侵入・補修を困難にしました。
戦略的価値は、マリアナ諸島(サイパン・テニアン・グアム)と本州の中間に位置する「空の中継点」であったことにあります。1944年夏からB-29が日本本土爆撃を開始すると、気象・機械不調・被弾による損耗が無視できない規模となり、航法の安全圏にある救難・不時着基地の必要が高まりました。さらに、長距離護衛戦闘機(P-51)を前進展開させれば、爆撃隊の護衛と制空に寄与できるという計算が働きました。米太平洋艦隊司令部(ニミッツ大将)と第5両用軍団(V Amphibious Corps、指揮はホランド・M・スミス中将、上陸部隊指揮はハリー・スミス中将)により、1945年早春の攻略が決定されます。
一方、日本側はマリアナ失陥後、硫黄島を本土直前の前衛として再重視し、飛行場を三本(南・中央・北)整備、全島要塞化に着手しました。守備軍の総指揮は第109師団長の栗林忠道で、陸海軍混成(主力は陸軍)による統一防御を採り、地上と地下の二層構造で持久戦を図りました。水際撃滅は採らず、上陸部隊を海岸から引き込んで火網に包み込む「洞窟陣地・地下戦」への転換が最大の特徴でした。
両軍の準備と戦闘様式:地下陣地と上陸火力がせめぎ合う
日本軍は擂鉢山と北部台地を中心に、地下壕・横穴・指揮所を坑道で連結し、射撃孔と擬装で外観を消した火点を多数配置しました。総延長は十数キロ規模とされ、通気・排煙・電源の工夫により、長時間の艦砲射撃にも耐える防御を目指しました。対戦車壕や対舟艇砲台、迫撃砲・重機関銃の網を組み合わせ、観測点からの集中的・交差的射撃で上陸正面を抑える構想です。栗林は夜間の反撃や無謀な斬り込みを禁じ、組織的・計画的な持久を部隊に徹底しました。
米軍は、3個海兵師団(第3・第4・第5)の大規模な両用上陸を主力とし、上陸前には航空・艦砲による大規模制圧射撃を連日実施しました。しかし、密閉型の地下陣地は表土が削れても戦闘力を温存し、上陸後に一斉反撃を浴びせる日本側の戦法に対し、前進は想定以上に遅滞します。上陸具はLVT(上陸用装軌艇)やDUKWなどが用いられましたが、火山砂は車両の走破性を著しく悪化させ、補給・撤収の動線が混乱しました。米軍は海軍工兵隊(Seabees)と戦車・火炎放射・爆薬を組み合わせた「洞窟封鎖」を繰り返し、歩兵小隊の浸透と火力支援の連携で一穴ずつ制圧する消耗戦に移行します。
空と海の優勢は米側にあり、上陸中も機動空母群と陸上航空が継続的に近接航空支援(CAS)を実施しました。ただし、視界不良や地形の複雑さから目標判定は難しく、友軍誤射の危険が常に付きまといました。医療・後送も大規模に準備され、砂浜には手術テントが並び、沖合の病院船が負傷兵を受け入れ続けました。弾薬・水・工兵資材の補給と戦闘の速度をどう同期させるかが、米軍戦術の鍵となりました。
作戦の経過:上陸、擂鉢山、北部台地、そして「組織的抵抗の終息」
1945年2月19日朝、米海兵隊は島南東の砂浜に波状上陸を開始しました。初動では表面的抵抗が薄く前進が進んだかに見えましたが、これは栗林の意図した「引き付け」で、一定の密度に達した頃合いに日本軍火点が一斉に射撃を開始し、浜からの突破口はたちまち血河に変わりました。上陸正面は混雑し、工兵は火線下で障害物除去と道路開設に取りかかります。午後以降、米軍は砂浜に帯状の橋頭堡を確保し、夜間の日本軍局地反撃を撃退しつつ、翌日以降の楔入れと拡張に移りました。
南端の擂鉢山は、島全体を見渡す観測点であり、砲迫の弾着修正に決定的役割を果たしていました。2月23日、米海兵隊は擂鉢山の頂に到達し、掲揚した星条旗の写真が前線から後方へ伝えられ、戦争報道の象徴となりました。ただし、山の攻略は戦闘全体の終盤を意味せず、主戦場はこの後しばらく北部の台地と飛行場周辺に移ります。日本軍は地下通路から反撃と後退を繰り返し、米軍は戦車・火炎放射・工兵爆薬で洞窟を一つずつ封じていきました。
中央部と北部の飛行場群(南・中央・北)は米軍が早期に使用可能化を進め、損傷したB-29や護衛戦闘機の受け入れが段階的に始まりました。北部の断崖と谷が入り組む地形では、互いに見えない短距離戦闘が常態化し、夜間の浸透・狙撃・対戦車近接戦闘が続きました。日本軍の組織的反撃は次第に縮小し、3月中旬には残存部隊の多くが孤立・分断されます。
3月下旬、米軍は島北端の突端部まで制圧帯を押し上げ、3月26日、米軍は「組織的抵抗の終息」を宣言しました。もっとも、地下壕に潜伏した小集団の抵抗はその後もしばしば発生し、掃討は長く続きました。日本側の戦死者は多数にのぼり、投降者はごく少数でした。米側の死傷者も非常に大きく、太平洋戦争の単一作戦としては最も苛烈な損耗の一つに数えられます。
占領後の運用・戦後・記憶と評価(用語上の注意を含む)
占領後、米軍はただちに飛行場の拡張と施設整備を進め、硫黄島は救難・緊急着陸・護衛戦闘機の前進基地として運用されました。爆撃帰路で損傷したB-29のうち数千機が硫黄島に降り、搭乗員の生命が救われたと報告されています。また、P-51などの長距離戦闘機がここから発進して本土上空での護衛・邀撃戦に参加し、制空の向上に一定の寄与をしました。一方で、沖縄戦や本土決戦の準備が進む中、硫黄島の戦術的価値と戦略的コスト(投入規模に比した直接効果)をめぐる評価は、当時から今日に至るまで議論が続きます。救難・護衛の効果を重視する立場と、沖縄以降の作戦連鎖の中で相対化する立場が併存しているのです。
島民に関しては、戦闘前に日本人住民の多くが本土へ疎開しており、民間人の被害は他戦域に比べ限定的でしたが、戦後長く帰島は認められず、記憶の継承は困難を伴いました。終戦後、硫黄島は米軍の管理下で航空・通信の拠点として使用され、1968年に小笠原諸島とともに日本へ返還されました。現在は航空自衛隊硫黄島分屯基地が置かれ、周辺域は在日米軍の訓練や運用と連携する特殊な体制にあります。島全体が戦没者の墓標でもあり、慰霊行事や遺骨収集が継続的に行われています。
記憶と表象の面では、米側の従軍写真が撮影した擂鉢山の旗掲揚が戦争の象徴として定着し、戦後の記念碑・映画・報道に繰り返し登場しました。日本側でも、栗林忠道の統率や地下戦の実相、家族に宛てた書簡が紹介され、近年では双方の視点から同一の戦場を描く作品が知られています。史料の読み方としては、戦闘報告・地形図・航空写真・従軍記録・兵士の手紙・口述の性格差を意識し、数値や事績の比較に慎重であることが重要です。地下壕の延長や死傷者数、救難着陸機数など、数字は推計幅を伴い、語りの文脈で強調の度合いが変わりうるためです。
用語上の注意も補います。まず、島名の読みは歴史的には「いおうとう」が原形とされる一方、戦後長く「いおうじま」が一般化し、現在は公的表記で「いおうとう」が用いられる場面が増えています。本文では混用事情を踏まえて併記しました。また、「占領」は戦闘の勝敗にとどまらず、軍政・基地化・運用を含む持続的支配を指します。さらに、硫黄島の「戦い」と「占領」を分けて叙述する場合、前者は上陸から組織的抵抗終息まで、後者はその後の軍政・航空運用期を含む広義の時期を意味しうることを覚えておくと、史料の読み違いを避けられます。
総じて硫黄島占領は、地理と技術が戦争の形を決める典型例でした。小島の地勢が地下戦を可能にし、航空戦略の要請が上陸を不可避とし、工兵・火炎放射・戦車・近接航空支援が歩兵の一歩を支えました。占領後の不時着基地運用は、人命の救助という観点で無視できない成果をもたらした一方、上陸当日の砂浜に堆積した犠牲と、地下壕に消えた無数の命の重さは、単純な勝敗を超えて重く残ります。硫黄島占領の歴史像は、戦術・戦略・人間の経験を三層で重ねて読むことで、はじめて立体的に見えてくるのです。

