「イギリス・オランダ協定」は、文脈によって複数の条約・協定を指しうる用語です。一般に世界史教科書で強調されるのは、東南アジアの勢力圏を画定した1824年の英蘭協定(Anglo–Dutch Treaty of 1824)と、その後にアフリカ西岸の領有とスマトラでの干渉権を交換した1871年の英蘭協定(いわゆるスマトラ条約、Anglo–Dutch Treaty of 1871)です。これに先立ち、1814年のロンドン条約(Convention of London 1814)では、ナポレオン戦争中にイギリスが占領していたオランダ領の返還・再配分が大枠で定められました。本項では、1814年を前史として位置づけたうえで、1824年と1871年の二つの英蘭協定の内容・背景・影響を整理し、マレー世界(マレー半島・スマトラ・ボルネオ周辺)とアフリカ西岸における国境形成や植民地統治の長期的帰結を明らかにします。
とくに1824年協定は、シンガポール(1819年創設)の法的地位を確立し、マレー半島側をイギリス、スマトラ以南をオランダという「縦割り」の勢力分担を公式化しました。1871年協定は、英領ゴールド・コースト(ガーナ沿岸)とオランダ領の整理を交換条件に、イギリスがスマトラへの不干渉条項を緩め、オランダのアチェ(アチン)介入を事実上容認した点で重要です。これらの合意は、現代のマレーシア/シンガポールとインドネシアの境界観、海峡の航行秩序、植民地経済の分業構図に深く刻まれています。
背景と問題設定:1814年ロンドン条約と海域秩序の再編
ナポレオン戦争期、オランダ本国はフランスの支配下に置かれ、海外領は軍事上の理由からイギリス海軍により相次いで占領されました。戦後処理としての1814年ロンドン条約は、蘭領の多くをオランダ王国へ返還する原則を定めましたが、戦時中に形成された通商・軍事の既成事実、そしてイギリスのインド洋戦略に照らし、幾つかの拠点は英側に保持されるか、後年の交換交渉の俎上に載せられました。東南アジアでは、マラッカ海峡の出入口と航路掌握が死活的であり、イギリスはベンガル湾—ペナン—マラッカ—シンガポール—中国沿岸という「インド—中国航路」の連結性を、オランダはバタヴィア(ジャカルタ)—ジャワ—スマトラ—モルッカ群島という香辛料圏の統合を、それぞれ最優先としていました。
1819年、トマス・スタンフォード・ラッフルズはジョホール王家の承認を取り付け、シンガポール島に英東インド会社の商館・港を開設します。これはオランダ側からみれば、マラッカ海峡南端の既存利権に対する重大な挑戦であり、以後、両国はシンガポールの正統性、マラッカの帰属、スマトラ西岸の拠点(ベンクーレン=ブンクルなど)を巡り、交渉と示威の応酬を繰り返しました。この緊張を制度的に解くために結ばれたのが1824年英蘭協定でした。
1824年英蘭協定の内容と影響:マレー半島とスマトラの「縦割り」
1824年の英蘭協定は、両国の勢力圏と拠点の交換・承認を通じて、マレー世界の政治地図を根本から組み替えました。主要点を要約します。
第一に、領有の交換です。イギリスはスマトラ西岸のベンクーレン(ベンクール/ブンクル)とその付属領をオランダに譲渡し、代わりにマラッカ(Malacca)をオランダから獲得しました。これにより、イギリスはペナン—マラッカ—シンガポールを結ぶ「海峡三拠点」を手中に収め、のちの海峡植民地(Straits Settlements, 1826設置)の骨格が整います。
第二に、シンガポールの地位です。オランダはシンガポールに対する権利主張を取り下げ、イギリスの占有を承認しました。これにより、シンガポールは国際法上の正統性を得て、自由港政策の下で急速に商業港として成長します。
第三に、勢力分担の原則です。イギリスはスマトラ島における権利主張を退き、オランダはマレー半島の諸国(特に半島西岸のマレー諸侯国)への干渉を行わない原則を確認しました。実際には細部に余地がありましたが、マレー半島=英、スマトラ=蘭という大枠がここで制度化された点は決定的でした。
第四に、通商と航行の取り決めです。マラッカ海峡の航行自由、通商上の互恵、互いの植民地における一部の特権付与が規定され、私掠・海賊対策について協力の枠組みが示されました。これは、海峡を国際航路として安定化させ、両国商人の利益を守るための現実的措置でした。
この協定の影響は多方面に及びます。マレー半島側では、英東インド会社—のち英領海峡植民地当局—が半島内陸の錫(スズ)と海峡港の華商ネットワークを連結し、華人鉱夫の移住と英国資本の進出を促進しました。シンガポールは自由港の利点を活かし、マレー語・中国語・タミル語など多言語の港町として膨張し、東南アジア海運のハブに成長します。他方、スマトラ側では、蘭領東インド当局が西岸—のち内陸—の支配を強化し、コーヒー・胡椒・樟脳などの産品をモンスーン貿易の枠組みに組み込みました。こうして「英の半島—蘭の諸島」という分業構図が固まり、現在のマレーシア/シンガポールとインドネシアの境界形成に直結しました。
留意すべきは、1824年協定にスマトラ北端のアチェ(アチン)王国を巡る特殊条項が含まれていた点です。オランダのアチェへの干渉を制限する解釈が広く流布し、英側は自国の海峡航路と胡椒貿易を守る安全弁として、アチェの半独立的地位を温存する態度を見せました。この「不干渉の空白」は、後述する1871年の再交渉で大きく書き換えられます。
1871年英蘭協定(スマトラ条約):アフリカ西岸とスマトラの交換、アチェ戦争への連鎖
19世紀後半、アフリカ西岸では英・蘭・諸小国の砦・商館が複雑に入り組んでいました。奴隷貿易の終焉と「合法的商業」(ヤシ油・金・木材など)の拡大に伴い、沿岸の細分化を整理する必要性が高まり、イギリスはゴールド・コースト沿いの断片的領有の一体化を目指しました。オランダは西アフリカでの持分の整理と引き換えに、東インド支配の自由度拡大を望んでいました。
1871年の英蘭協定(スマトラ条約)は、この利害を交換する形で成立します。要点は、(1)オランダがゴールド・コースト沿岸の砦・居留地(エルミナなど)をイギリスへ譲渡し、西アフリカから実質撤退すること、(2)イギリスがスマトラにおけるオランダの自由な行動(とりわけアチェ問題への介入)を妨げないことを確認し、1824年協定の制約を事実上緩めること、(3)両国商人の通商上の権利(最恵国待遇に近い扱い)を相互に認めること、にありました。
この再調整の帰結として、オランダはアチェへの軍事介入を本格化させ、1873年から長期に及ぶアチェ戦争が始まります。戦争は掃討・鎮圧・抵抗の反復と、宗教的正統性を旗印とする在地社会の粘り強い抵抗、熱帯戦の衛生・補給の困難を伴い、20世紀初頭まで尾を引きました。英側は海峡航路の安定と商業利益確保を優先し、直接の干渉を避けつつ、シンガポールを媒介とした貿易の自由を堅持しました。
アフリカ側では、ゴールド・コーストの再編が進み、イギリスは沿岸の断片的な砦を統合して「英領ゴールド・コースト」を整備、のちの英領植民地化(現ガーナ)への道が開かれます。オランダにとっては撤退でしたが、経営資源の集中という合理化策でもありました。こうして、1871年協定は大西洋とインド洋という二つの海域で、列強の分業構図を一段と明確化したのです。
整理と用語上の注意:名称の揺れ、史料の窓、長期的帰結
第一に、名称の揺れに注意が必要です。日本語の「イギリス・オランダ協定」「英蘭協定」「英蘭協約」は、1824年と1871年のいずれにも用いられます。教科書では、1824年を単に「英蘭協約」と呼び、1871年を「英蘭協定(スマトラ条約)」と呼び分ける例が多い一方、1814年ロンドン条約まで含める広義用法もあります。議論の際は必ず年次と対象地域(マレー世界か、アフリカ西岸+スマトラか)を明記することが大切です。
第二に、条文の読み解きは、当時の植民地行政の言語と慣行を踏まえる必要があります。たとえば「干渉しない」「承認する」といった言葉は、宗主国—在地政体—他国の三者関係のどこを想定しているのか、沿岸か内陸か、商業権か領有権かによって射程が違います。さらに、1824年の「不干渉」規定が実務上どこまで効いたのか、1871年の「自由行動」容認がどの程度アチェ戦争の引き金を引いたのかは、在地社会の事情(港湾商人や宗教指導者、内陸の勢力圏)と海軍力・収税の実効性を合わせて検討する必要があります。
第三に、長期的帰結としての国境形成を指摘できます。1824年協定の「半島—諸島」分断は、のちのイギリス領マラヤ(→マレーシア・シンガポール)とオランダ領東インド(→インドネシア)の縁どりを決定づけ、言語・法制度・商業ネットワークの分水嶺となりました。通貨・会社法・港湾管理・移民政策の違いは、戦後独立後の経済発展のパターンにも影を落としています。
第四に、経済面の波及です。シンガポール自由港の確立と、マラッカ—ペナン—シンガポールの海峡三角が錫・ゴム・海運金融の集積を促し、スマトラ側は蘭印の統制下でコーヒー・タバコ・石油へと植民地経済の軸を広げました。海峡の両岸が別々の帝国経済に組み込まれたことは、補完関係と競争関係を同時に生み、華商ネットワークが両体系の橋渡し役を果たしました。
第五に、史料の窓口です。英蘭双方の外務・植民地省文書、東インド会社記録、港湾統計、航海者の記録、条約正文(英語/オランダ語)、在地のマレー語年代記やアラビア文字史料、華文新聞などが交差すると、条項の文言と現場の運用差が見えてきます。とくにアチェ戦争期は、軍事報告と宣教団体の報告、イスラーム法学者の書簡、交易税記録が補助線になります。
総じて、イギリス・オランダ協定は、単なる二国間の線引きにとどまらず、海峡の航行自由・自由港政策・在地政体への干渉原理・アフリカ西岸の撤退と集中といった、19世紀の帝国運営の作法を凝縮した合意でした。1824年の「半島—諸島」の縦割りと、1871年の「アフリカ—スマトラ」の交換は、ともに海の地政学と交易の合理性に根差しており、その痕跡は今日の国境・港湾・航路の配置、そして社会の記憶の中に、静かに、しかし確かに残っています。

