イギリス東インド会社の商業活動停止 – 世界史用語集

「イギリス東インド会社の商業活動停止」とは、1833年のチャーター法(Charter Act of 1833/Saint Helena Act)によって、東インド会社(English East India Company, EIC)が営んでいた営利的な貿易・船舶運行・仕入販売など一切の商業事業をやめ、以後はインド統治の行政機関としてのみ存続することになった出来事を指します。1813年のチャーター改正でインドとの一般貿易独占は既に廃止されていましたが、茶・中国貿易に関する独占が温存されていたため、1833年の改正をもって会社の商業機能は全面的に幕を下ろしました。以後、会社は株主配当と負債の整理を行いつつ、1858年に本国政府に統治権を引き渡して事実上の終焉を迎えます。本項では、前史と背景、1833年法の内容、影響と余波、移行措置、用語上の注意の順に整理します。

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背景と前史:独占の揺らぎ、自由貿易の台頭、二段階の緩和

東インド会社は1600年の勅許に基づく独占会社として出発し、17~18世紀にかけてインド・東南アジア・中国沿岸で香辛料・絹・綿布・茶・陶磁器などを扱う巨大な商社兼準政府へと成長しました。18世紀半ば以降はインド政局への軍事介入と領土支配が進み、ベンガル歳入(ディワーニー)を背景とする統治と通商の二重構造が定着します。ところが、会社の商業経営は1760年代の金融危機や茶取引の乱高下、船舶・軍事費の増大により慢性的な資金繰り難に陥り、1773年規制法・1784年インド法などで本国政府の監督が強まりました。

19世紀初頭になると、イギリス本国では自由貿易思想が力を増し、マンチェスター商人やロンドンのフリートレーダー、宣教師団体などが、会社の独占と検閲・渡航規制に反対する運動を展開します。インド側でも、在地の企業家・仲買・港湾都市の利害は多様化し、会社の商務局が価格・輸出入枠を通じて市場を締め付けるやり方は批判に晒されました。また、中国側では広州の一口通商(公行制度)の下、会社が「カントン工館」で茶と絹を仕入れ、ロンドンの茶オークションで売る仕組みが続いていましたが、アヘン取引を担う私貿易主体(カントリー・トレーダー)の台頭と価格競争が激化し、会社独占の合理性は薄れていきました。

こうした圧力のもと、1813年チャーター法は第一の転換点となりました。すなわち、インドとの一般貿易独占を廃し、英国商人に広く市場を開放したのです(ただし茶と中国本土との貿易独占は会社に残置)。同時に宣教師のインド渡航が認められ、会社の「統治主体」としての性格がさらに強調されました。しかし、会社はなおも茶と中国貿易の利益で巨額の配当と行政費用を賄っており、独占の核心は生き残っていました。

1833年チャーター法の内容:商業の幕引きと行政機関化

1833年のチャーター法は、東インド会社の歴史を二分する性格を持ちます。中心的条項は次の通りです。

第一に、会社の商業活動の全面停止です。会社は中国を含め世界のいかなる地域においても貿易・運送・売買といった営利事業を行うことを禁じられ、保有していた商業資産(倉庫・工場・船舶・在庫)を整理・売却することが定められました。これにより、ロンドンの〈インディア・ハウス〉商務部門と広州〈工館〉の商務機能は段階的に閉鎖され、名高い“イースト・インディアマン”大型帆船の時代も終わりを告げます。

第二に、統治機関としての再定義です。会社は「インド統治のための代理機関」と位置づけ直され、ベンガル総督は「インド総督(Governor-General of India)」と改称されて立法権限を拡充、全インドを対象とする立法評議会(Law Memberを含む)を設置しました。これにより、マカーレーを委員長とする初代法典化委員会(インド法委員会)が発足し、のちの「マカーレー刑法草案」へつながる法整備が始まります。

第三に、財務と配当の取り扱いです。会社の既存負債は国が保証し、株主配当については定率(伝統的に5~10.5%)での支払いを続けつつ、商業資産の処分と歳入余剰から漸次償還する枠組みが定められました。これにより、株主の権利を急激に侵害せず、秩序立った移行が図られます。

第四に、職員人事とサービスの原則です。会社の文官(Civil Service)採用原則に「出身によらぬ機会の拡大」が掲げられ、後の公開競争試験制(1853年)へ向かう理念的な扉が開かれました。実務的には、当面は旧来の後援・推薦制が残るものの、訓令・研修・昇進の標準化が進みます。

第五に、聖ヘレナ島などの処理です。会社が保有していた対外拠点の一部(セントヘレナなど)は王室直轄へ移され、会社は本来任務であるインド統治に資源を集中することになります。

影響Ⅰ:インド統治と財政—「商務の手」なき行政の到来

商業活動停止は、インド統治の財政構造に直接影響しました。従来、会社の「商務」利益(特に茶取引)とインド歳入が混然一体となって本社・現地双方の費用を賄っていましたが、1833年以後はインドの軍政・文民行政費は基本的にインド歳入で賄うという分離が鮮明になりました。インド政府(会社政府)の予算は、土地税・塩税・阿片収入などに依存する比重が高まり、とくにベンガルの阿片専売は「財政収入」として整理され直して継続します。すなわち、会社は中国向け阿片の直接輸出業者ではなかったものの、ベンガル・ビハールでの栽培統制とカルカッタでの阿片オークションを通じて歳入を確保し、その収入は行政費・軍費に振り向けられ続けました。

統治面では、インド総督への立法権集中と評議会の整備によって、諸州間の法・手続の統一が進み、民法・刑法・商法・訴訟法の標準化が着手されます。英語教育の導入・教育支出の枠組みも再編され、官僚制の肥大と近代的行政の骨格が次第に整っていきました。地方レベルでは、会社商務の縮小にともなう雇用の再配置が発生し、港湾都市や商館に依存していた中間層の生活は変動に晒されます。

影響Ⅱ:対中関係とグローバル貿易—カントン工館の幕、私貿易の主役化

中国方面では、1833年を境に構図が一変します。会社の広州工館閉鎖により、英国の対中窓口は「会社」から「政府(通商監督官)」と「私貿易商」へと二分されました。1834年に外務省所管の「中国通商監督官(Superintendent of Trade)」がマカオ・広州に派遣され(初代ナピア卿)、公行商人や広東当局との交渉に当たりますが、序列・礼遇をめぐって衝突し、清朝の「朝貢関係」観と英側の「対等外交」観のギャップが露わになります。会社時代は独占のもとで比較的規律的に運ばれていた茶貿易は、多数の私船・仲買が参入する競争市場となり、取引の現場では価格・信用・品質管理を巡る混乱も生じました。

アヘン流通は、会社が商業停止以前から「カルカッタ売立→私船輸送→外洋艀(リンティン島周辺)での積替→密輸上陸」という私貿易の形をとっていましたが、1833年以後は私商の比重がさらに高まり、清側の取締と英側の保護主義的世論の対立が激化します。結果的に、1839年のアヘン没収事件と第一次アヘン戦争(1840–42年)に至る緊張の一因として、会社独占の消滅がもたらした市場構造の変化を挙げることができます。南京条約後の条約港体制は、会社ではなく無数の英米商社が担う自由港貿易の網を広げ、香港の成立へと連なりました。

影響Ⅲ:海運・金融・ロンドン市場—“イースト・インディアマン”の黄昏

会社の大型武装商船(East Indiaman)は、航海法の枠と会社勅許の下で長く大洋航路を担ってきましたが、商業停止でこの制度的支えを失います。船隊は売却・転用され、保険・船員・造船の多くが民間市場に吸収されました。ロンドンの茶オークションは、会社の在庫処分期を経て、民間輸入商が出品主体となる方式へと移行します。これに伴い、価格の変動は大きくなったものの、競争のなかで品質差別化と金融決済(為替・保険・担保)が洗練され、ロンドン商品市場の多層化が進みました。

財務的には、会社株の配当保証は投資家心理の安定要因となり、国債市場との代替関係を持ちながら19世紀半ばまで徐々に清算が進行します。会社の商務資産売却は一時的な資金流入をもたらし、対外拠点・倉庫の譲渡は港湾都市の不動産市場にも影響を与えました。保険面では、会社直営のリスクが薄れたことで、ロイズ・海上保険業者の引受がより重要な役割を担うことになります。

移行と終幕:1853年の文官制度改革、1858年インド統治法へ

1833年法ののちも、東インド会社は「統治会社」として存続し、評議会とロンドン本社(評議会=Court of Directors)は行政監督に当たりました。1853年には文官採用が公開競争試験へ移行し(実務の全面移行は段階的)、官僚制の「国家化」がさらに進みます。しかし、1857年のインド反乱は会社統治の正当性に致命的な打撃を与え、1858年のインド統治法(Government of India Act, 1858)により、会社の統治権は王室・本国政府に移されました。会社自体は清算事務のために名目上存続しますが、政治的実体は消滅します。したがって、「商業活動停止」(1833年)は、会社の終幕(1858年)に先行する制度転換であり、二段階の変容の前段に位置づけられます。

用語上の注意:1813年との違い、「停止」と「解散」、阿片と茶の位置

第一に、1813年の改正は「インドとの一般貿易独占の廃止」であり、中国貿易・茶の独占は残りました。教科書で「1833年、東インド会社の商業活動停止」と言う場合、残っていた中国・茶の独占まで含めた商業全般を終了したことを意味します。

第二に、「停止(cessation)」は会社の消滅を意味しません。1833年以降も会社は行政機関として存在し、立法・財政・軍事の多くを担いました。解散・廃止に当たるのは1858年の統治移管・のちの清算法の段階です。両者を混同しないことが重要です。

第三に、阿片・茶の扱いは性格が異なります。阿片はインドにおける専売・歳入として会社(のち政府)が管理し、対中輸送は私商が担いました。茶は清国からの輸入商品で、会社独占が1833年で終わり、以後は民間輸入へ移行します。二つの財は制度上の位置づけが違うため、収支・政策への影響も異なります。

第四に、用語「カントリー・トレード」「工館」「公行」「通商監督官」などは1830年代の対中関係を正確に理解する鍵です。会社の商務が消えたあと、国家と私商の役割分担が変わり、のちの条約体制の受皿が整えられたことを押さえておくと、1833年の意味がより立体的に見えてきます。