石井・ランシング協定(Ishii–Lansing Agreement, 1917年11月2日)は、第一次世界大戦期に日米間で締結された対中政策に関する外交協定です。日本の特命全権大使・石井菊次郎と、米国務長官ロバート・ランシングの名を冠し、中国の独立・領土保全と門戸開放・機会均等の原則を確認すると同時に、日本が中国において「地理的近接(territorial propinquity)」に由来する特殊の利益(special interests)を有することを米国が認めた点に特色があります。21か条要求後に高まった米中世論の警戒を前に、日米が摩擦緩和を図った妥協の産物でしたが、文言の曖昧さは相反する解釈を許し、中国の反発を招くとともに、のちのワシントン体制下で失効・廃棄へと至りました。
背景と定義――第一次世界大戦と「対中秩序」をめぐる再編
協定が生まれた背景には、第一次世界大戦と東アジアの勢力図の動揺がありました。日本は1914年に連合国側として参戦し、山東半島のドイツ権益(膠州湾租借地と山東鉄道・鉱山利権)を占領しました。1915年には袁世凱政府に対して「対華二十一か条要求」を提示し、山東の承継や南満洲・内蒙古での権益強化などを迫りました。これらは中国社会の民族的反発と、米英の警戒を呼び、日中・日米関係は緊張をはらむことになります。
米国は1899—1900年以降、門戸開放と中国の領土保全を国是として掲げてきました。20世紀初頭のタフト=桂覚書(1905年、実質は意見交換)やルート=高平協約(1908年)は、日米が太平洋の現状維持や門戸開放を確認する枠組みでしたが、二十一か条以後は「日本の大陸進出が門戸開放を掘り崩すのではないか」という疑念が強まりました。1917年、米国はドイツに宣戦布告して欧州戦線に関与を深めます。その際、太平洋で日米の対立が顕在化することは得策でなく、両国は相互牽制と協調のバランスを模索しました。石井・ランシング協定は、この状況で摩擦を一時的に沈静化し、対独戦に集中するための政治的取り決めだったのです。
用語としての「特殊の利益」とは、主として満洲・華北など、日本列島に隣接する地域での安全保障・通商・鉄道などの利害を指しました。もっとも、協定は中国の独立・領土保全・機会均等の原則も同時に確認しており、二つの命題をいかに整合させるかが核心的な争点でした。日本側は「特殊の利益」の承認を国際的なお墨付きと受け取りがちで、米側は逆に「門戸開放の枠内で日本の行動を拘束する縛り」と解したため、解釈のズレが協定の宿命となりました。
交渉の経緯と協定の骨子――近接と門戸の二重言語
1917年夏、日本政府は石井菊次郎を特命全権大使として渡米させ、対独協力の確認、対中政策のすり合わせ、ハワイ・フィリピン・太平洋秩序に関する協議に臨ませました。ワシントンでの交渉は、外交電報と覚書の往復を通じて慎重に進められ、11月2日に共同宣言(協定)と交換公文の形で公表されます。形式としては条約ではなく、政府間の合意声明に近い性格です。
協定の骨子は次の通りです。第一に、米日は中国の独立と領土保全、門戸開放と機会均等の原則を相互に再確認します。第二に、米国は日本が中国において地理的近接に由来する特殊の利益を有することを承認します。第三に、両国はいずれの国家によるも、中国の独立・領土保全・機会均等を損なう特権的権利の取得や、勢力範囲化に反対する旨を表明します。付属の覚書(交換公文)では、戦時の混乱に乗じて独占的特権を拡大しないこと、互いの権益を既存の国際約束の枠内で扱うことなどが確認されました。
ここで鍵語となるのが「territorial propinquity(地理的近接)」です。日本側は、列島と満洲・朝鮮半島・華北が安全保障上不可分であるという戦略認識を背景に、この言葉で「特別の配慮」を引き出そうとしました。他方、米国務省は、特権・排他権の容認ではなく、近接ゆえの実務的利害(治安や通商の連関)を一般論として記すにとどめ、同時に門戸開放を強調することで、対中独占の芽を摘む意図がありました。結果として協定文は、双方が「自分に都合の良い読み」を可能にする、巧みで危うい二重言語となりました。
公表は米日の政治的必要性に応じて演出されました。米側は、欧州戦の最中に太平洋での安定を演出することで、国際世論と議会への安心材料を示し、日本側は、孤立化回避と対米関係の「正常化」を内外にアピールしました。しかし、最も重要なステークホルダーである中国に対しては、事前の十分な説明と合意形成が行われず、発表直後から激しい反発が噴出します。
同時代の反応と影響――中国の反発、日米の相反解釈、山東問題へ
中国における反応はきわめて否定的でした。協定は中国の主権と門戸開放をうたうものの、「日本の特殊の利益」を米国が認めたという点が強く受け止められ、対日・対米への不信が広がりました。メディアは協定を「新たな勢力範囲の承認」と批判し、学生や都市エリートの民族意識を刺激しました。この不信は、のちのパリ講和会議(1919年)での山東問題処理――ドイツの山東権益の日本への承継決定――に直結し、五四運動の導火線の一つとなります。すなわち、石井・ランシング協定は、直接の条文以上に、国際政治の「物語」を通じて中国社会に長期の影響を与えました。
日本国内では、協定は「米国が日本の特殊の地位を承認した」と歓迎する声が優勢でした。軍部・対満洲利権に関わる財界・官僚は、対米協調を維持しつつ大陸政策の余地を確保できたと解釈しました。同時に、協定が門戸開放を再確認したことで、無制限の独占や排他は難しくなるという現実的制約も意識されました。この二面性は、以後の日本外交に典型的な「協調と拡張の同居」というリズムを与えます。
米国では、協定は「日本の動きを枠内に留めるための文言上の枠」と受け止められがちでした。とりわけ国務省の実務家は、門戸開放の原理を反復することで、対中独占の法的根拠を与えないバランスに腐心しました。しかし、議会や世論には複雑な反応があり、日本に譲歩し過ぎだという批判も見られました。いずれにせよ、欧州戦に集中する米国にとって、太平洋での沈静化を演出する実利は小さくありませんでした。
短期的影響としては、太平洋の緊張緩和と、パリ講和会議に向けた日米の表面的協調が挙げられます。しかし、協定が曖昧であるほど、現地での具体的争点――山東の処理、南満洲での鉄道・鉱山権益の運用、借款・治安出動の可否――が都度、再燃しました。つまり、石井・ランシング協定は火種の火勢を一時下げはしたものの、可燃性の高い薪を残したまま、次の強風(国際会議や地域危機)を待つ構図だったのです。
ワシントン体制と協定の失効・廃棄、歴史的評価
第一次世界大戦後、海軍軍縮と東アジア秩序の再設計を議題とするワシントン会議(1921—1922年)が開かれました。ここで成立した四カ国条約(太平洋の現状維持)、五カ国海軍軍縮条約(主力艦比率の取り決め)、九カ国条約(中国に関する原則)は、門戸開放と中国の主権尊重を改めて多国間で確認し、勢力範囲化の否認を規範化しました。九カ国条約は、個別の二国間合意より上位の枠組みとして機能し、石井・ランシング協定の意義を大幅に吸収・置換しました。
この結果、協定は1923年に双方の合意にもとづき廃棄され、事実上の失効状態が確認されます。日本側にとっては、ワシントン体制下で国際的協調の一員としての地位を得る代わりに、中国に関する「特殊の利益」の法的根拠を強調しづらくなり、以後は借款・企業活動・軍事顧問団など、より実務的かつ断片的な手法で影響力を維持・拡大する方向に傾きました。米側にとっては、多国間主義の枠で門戸開放を再制度化したことが成果であり、石井・ランシングは過渡的な「橋渡し」に退きました。
歴史的評価は二分されます。一つの見方は、協定を「危機管理の成功例」と捉えます。すなわち、大戦の最中に太平洋の緊張を抑え、日米の正面衝突を回避した点を評価する立場です。もう一つの見方は、「曖昧さが対立の火種を温存した」と批判します。日本に過度な期待を生み、中国の不信を加熱させ、山東問題・五四運動を通じて反日・反帝国主義感情を深めたという評価です。両論に共通するのは、協定が言葉のレベルで折り合いをつけたにすぎず、現地の利権・安全保障・民族感情という現実の摩擦に対しては、持続的な解決の設計図を提供し得なかったという点です。
比較の視点から見ると、石井・ランシング協定は、日米が太平洋秩序をめぐって交わした一連の「言語的合意」の一環(桂=タフト覚書、ルート=高平協約、のちのワシントン条約群)に位置づきます。これらは、軍事力や経済利権の現実を即座に変えるものではなく、互いの「最小限の安心」を確保し、危機の管理コストを引き下げるための外交技法でした。石井・ランシングは、その中でもとりわけ、近接という地理概念を国際法的配慮として文言化した点でユニークでしたが、逆にいえば、それは地理を根拠とする特権化を正当化する危険な前例にもなり得ました。
中国側の歴史叙述では、協定はしばしば「列強の秘密外交」が中国主権を踏みにじった証拠として記憶されます。協定の公表自体は秘密ではなかったとはいえ、当事者なきところで「特殊の利益」を談合したという構図は、民族主義的覚醒の物語に強くはまります。他方、米日双方の外交史では、協定はワシントン体制に先立つ過渡期の工夫として扱われ、長期的には多国間主義に吸収された「短命の枠組み」として相対化されがちです。この評価の差は、誰の物語から世界を見るかによって、同じ文書がまったく異なる意味を帯びることを示しています。
総じて、石井・ランシング協定は、帝国主義時代の大国外交が、理念(門戸開放)と地理(近接利害)という相克する原理を、一枚の文書にどう同居させるかに腐心した実例でした。曖昧さによって時間を買い、同盟関係と戦時協力を維持するという短期目標は達成しましたが、列島と大陸、資本と民族、権利と感情の摩擦が重なる東アジアの現実には、より厚みのある制度設計が必要だったことを、協定の短命とその後の紛争史が物語っています。

