イスファハーン(Esfahan/Isfahan)は、イラン高原中部に位置する内陸都市で、しばしば「イスファハーンは半世界(ニスフ・エ・ジャハーン)」と称される文化と都市空間の豊穣さで知られます。ザーヤンデ川(ザーヤンデ・ルード)が乾燥高原を横切って形成するオアシス帯に発達し、セルジューク朝とサファヴィー朝という二つの大転回期に帝国首都として輝きました。とりわけ17世紀のアッバース1世期に完成した都市計画は、広場・大通り・庭園・橋梁・バザール・宗教教育複合体が連鎖する総合的な美の体系で、イスラーム都市史における一つの頂点を示します。交易・工芸・学芸・宗教が同じ都市のリズムに編み込まれ、異なる共同体(ムスリム、アルメニア正教徒、ユダヤ教徒など)が分節と接触を繰り返しながら共存しました。
本稿では、イスファハーンを地理と都市骨格、歴史展開、建築・文化の特質、経済・社会と近現代の変容という観点から整理し、時代を超えて継承・再解釈される都市の論理を明らかにします。なお、冒頭の概要は見出しを付さずに簡潔に記しました。
地理と都市骨格――ザーヤンデ川、オアシス都市、軸線と結節
イスファハーンの形成要件は、乾燥高原における希少な恒常河川ザーヤンデ川の存在です。ザーヤンデ川はザグロス山脈東麓から湧出し、都市の南縁を東西に流れて古来の灌漑を可能にしました。高原の昼夜寒暖差と乾燥した気候は、日射と通風の制御を重視する建築技術(イーワーン、風塔〈バードギール〉、厚い壁・中庭)を促し、都市住宅・神学校・庭園の空間構成に反映されています。井戸やカナート(地下水路)が河川水と補完関係をなし、農園と果樹園(バーク)が城壁外縁に帯状に展開しました。
都市骨格の第一の軸は、サファヴィー朝期に整備された「チャハールバーグ(四つの庭)」大通りです。北のイマーム広場(旧称ナクシェ・ジャハーン)から南のザーヤンデ川へ直進し、アーケードとプラタナス並木に縁取られた儀礼軸で、沿道には宮殿・庭園・神学校・隊商宿が配されました。第二の軸は、金曜日大モスク(ジャーメ・モスク)を核に旧来のバザール網を束ねる東西の商業動線で、前近代都城の経済心臓部として機能しました。これらの軸線が交差する結節点に、宗教儀礼・王権儀礼・商取引が重なる場(広場、キャラバンサライ、サライ、ティムチェ)が置かれ、空間の重層性が生まれます。
川は都市を分断するのではなく、橋梁によって両岸を統合しました。三十三孔橋(シーオ・セ・ポル、別名アッラーヴェルディ・ハーン橋)やハージュ橋は、渡河機能と堰の役割、さらに散策・社交・夜間照明の景観装置を兼ねる多機能インフラです。アーチ列の陰影と水面反射は季節と時刻により表情を変え、都市の時間感覚を形づくります。橋の上層/下層を用途分節する構造は、水利制御と市民生活の折衝を象徴する仕掛けでした。
都市の視覚的アイコンであるイマーム広場は、東西約500メートル級の長辺と長方形の比例、各辺中央に開くゲートによって、権力(アリー・カプー宮殿)・宗教(イマーム・モスク/旧称シャー・モスク、シェイフ・ロトフォッラー・モスク)・商業(大バザール連結)を単一の視界に収めます。広場の回廊は陰影の濃淡で熱を緩和し、ファサードの釉タイルは都市の色彩言語を統一しました。王の観覧楼から広場を見渡す視線の政治学は、儀礼と見せる統治の技法をよく伝えます。
歴史の展開――セルジュークの都からサファヴィーの帝都へ
イスファハーンの都市史は、ササン朝期の軍事・行政拠点に遡ることができますが、飛躍は11世紀後半、セルジューク朝のマリク・シャーと宰相ニザーム・アルムルクの時代に訪れました。イスファハーンは帝国の首都として選ばれ、ジャーメ・モスクの拡張(四イーワーン型の確立)、ニザーミーヤ学院に象徴される学術制度、カナート網の整備など、イスラーム都市の標準装備が高い水準で整えられました。タイル装飾の初期的展開、レンガ仕事の幾何学、木組み天井の発展は、この時期に礎が築かれます。
モンゴル来襲とティムール朝の変動を経て、16世紀末、サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が国家の再編と対外戦略の転換を図るなかで、首都をタブリーズ/カズヴィーンから内陸のイスファハーンに遷しました。対オスマン帝国との国境戦の直接圧力を避け、中央集権の浸透、交易の再編、王権の視覚化を狙った選択です。シャーは王族や族長層の権力を抑えてグーラム(改宗コーカサス系の近衛)と宦官・宮廷官僚を重用し、都市空間の上に新しい統治連合を構築しました。チャハールバーグの開削、イマーム広場の造成、アリー・カプー宮殿・シェイフ・ロトフォッラー・モスク・イマーム・モスクの連鎖は、その政治意志の産物です。
商業・外交の再配置も重要でした。シャーはコーカサスのアルメニア商人をアルメニア高地のジュルファから招致・移住させ、川南岸に「ニュー・ジュルファ(ノール・ジュルファ)」を築きます。彼らは絹織物・染色・遠距離交易で卓越し、サファヴィー朝の対外商業を担ってオランダ・イギリス東インド会社やムガル・インド、ロシアとの中継に活躍しました。ニュー・ジュルファの教会群(ヴァンク大聖堂など)と商館・邸宅は、宗教自治と経済機能の結合を示し、都市の多宗派性に安定的な制度枠を与えました。
17世紀の隆盛の後、18世紀初頭に危機が訪れます。1722年、アフガンのホターク朝軍がイスファハーンを包囲・陥落させ、サファヴィー朝の求心力は決定的に失われました。都市は略奪と人口流出で大きな傷を負い、その後のザンド朝・カージャール朝期は地域中心都市としての役割に後退します。とはいえ、宮殿庭園の一部(チェヘル・ソトゥーン〈四十柱宮〉、ハシュト・ベヘシュト〈八楽園〉)や橋梁は用法を変えながら存続し、工芸と学芸の伝統は細い糸をつないでいきました。
建築・都市文化――広場・モスク・宮殿・庭園・橋が織る総合芸術
イスファハーンの建築文化は、技術と装飾、空間と儀礼、自然と人工の「総合芸術」として理解できます。イマーム・モスクは、四イーワーン型の礼拝空間に巨大な中庭とドームを組み合わせ、釉薬タイル(ハフトランギ=七色焼成)とカッフィヤ書体の碑文帯、蜂の巣状(ムカルナス)の転調で視覚と音響の劇場を創出しました。斜角に開いた参道は、広場軸とキブラ(礼拝方向)のズレを巧みに調停し、都市軸と宗教軸の一致/不一致を空間操作で解決する卓抜な工夫です。
シェイフ・ロトフォッラー・モスクは王家専用の小モスクで、ミナレットを持たず、外観の控えめさに反して内部のドーム装飾が精緻を極めます。淡いクリーム色の地に藤色・群青の唐草が広がり、日差しの角度でドーム天頂の孔雀文様が浮き立つ仕掛けは、時間の流れを装飾に織り込む演出でした。アリー・カプー宮殿は、広場へ突き出す高層の柱廊と音楽の間(壁面の壺形ニッチが音響拡散体)を備え、王権の可視化と娯楽空間の融合を示します。
庭園と宮殿群も都市文化の核です。チェヘル・ソトゥーンは、池に映る柱影が「四十」に見える錯視で名づけられ、鏡張りの広間と戦勝図の壁画が王朝の記憶装置となりました。ハシュト・ベヘシュトは、八角平面のパヴィリオンに水路と樹木が組み合わされ、四分庭園(チャハールバーグ)の典型を小スケールで体現します。これらの庭園は、礼儀作法・音楽・詩・香の文化を包摂し、宮廷的教養の舞台となりました。
橋梁は工学と社会生活の交差点です。シーオ・セ・ポルは長大な多連アーチが水平線を強調し、乾期には下段アーチの間が人々の憩いの場となり、増水期には堰として水位を調整します。ハージュ橋は中央にパヴィリオンを持ち、上下二層の通路が季節と身分で使い分けられました。水音と陰影、気化冷却が生む微気候は、夏の都市生活を支える環境装置でもあります。
工芸では、ミニアチュール絵画、象嵌(金銀象嵌のハターム)、金属器や七宝、織物(サファヴィー絨毯の名声)、陶工芸が成熟しました。イスファハーン画派の細密画は、宮廷と商人階層の趣味を反映し、都市の市場に供給されました。宗教・学芸では、神学校(マドラサ)とスーフィー教団の集会所(ハーンガーフ)が学問と霊性の核となり、学者・書記・工匠・商人が混成する「文雅の公共圏」を形づくりました。
交易・多宗派社会と近現代の変容――絹の都から遺産都市へ
イスファハーンの経済は、内陸交易と手工業の高度な分業に支えられていました。キャラバンサライは倉庫・宿泊・決済の装置であり、ティムチェ(半屋内商場)やサライ(商館)は商品別に分節されて、品質管理と情報交換を容易にしました。絹と綿、染料(インディゴ、茜)、金属、香料が、中央アジア・インド洋・地中海の市場と結びつき、対外交易ではアルメニア商人のネットワークが保険・信用・為替の機能を担いました。王権は関税・独占・恩典で商人を統制・保護し、外交は交易の持続可能性を測る指標でもありました。
宗教・共同体の側面では、ニュー・ジュルファのアルメニア人がキリスト教の教会・学校・印刷所を備え、ペルシア語・アルメニア語・欧州言語を行き来する通訳・仲介者として活躍しました。ユダヤ人共同体も古くから住み、染色・金融・小売に従事しました。ムスリム多数派の法と習俗のもとで、各共同体は自治と相互依存のバランスを探り、宗教祝祭のカレンダーが都市時間を重ね合わせました。異宗間の摩擦はときに生じましたが、経済合理と王権の裁定がそれを緩和する安全弁となりました。
18世紀の衰退後、19世紀に入ると、イラン全体の開港と列強の経済圧力が都市の商圏を変えます。南の港湾(ブーシェフルなど)や首都テヘランに重心が移るなかで、イスファハーンは工芸と地域商業の中心にとどまりました。20世紀前半のパフラヴィー期には道路・学校・行政施設の整備が進む一方、旧市街地の維持管理は十分でなく、戦後の人口増加とモータリゼーションは歴史地区に新たな圧力をかけました。1970年代以降、文化遺産保全の意識が高まり、イマーム広場とその周辺建築群は世界的な評価を受け、観光経済が重要な柱となっていきます。
現代の課題として、第一に水資源の逼迫があります。ザーヤンデ川流域の用水需要の増大、上流での取水・ダム運用、近年の渇水は、河川の通水断絶や湿地(ガーヴホーニ)への影響を生み、橋梁・河畔景観の価値と生活用水・農業用水の配分をめぐる葛藤を顕在化させました。都市の快適性を支えてきた水と緑の回路を維持・再設計することは、歴史都市の存続に直結する課題です。
第二に、観光と生活のバランスです。広場・バザール・橋梁・庭園は世界からの来訪者を惹きつけますが、短期滞在型経済が地元の住居・小売・工房に与える影響は複雑です。用途変更・地価上昇・夜景演出と静穏の両立など、日常と演出の最適点を探る協議が続きます。第三に、産業構造の更新です。工芸の継承とデザインの革新、大学・研究機関との連携、創造産業の育成は、若い世代の就業機会を広げ、都市の文化資本を次代へ橋渡しする鍵となります。
保存・再生の現場では、タイル・レンガ・木部の本格修復、地震対策、伝統工法の継承、住民参加の街区再生が進み、歴史的素材と現代基準の整合を図る試みが続けられています。周辺の衛星都市・工業団地との役割分担、公共交通の強化、歩行者中心の歴史軸整備など、都市計画のアプローチも変化しつつあります。イスファハーンは、過去の遺産を単に保存するだけでなく、それを資源として新しい都市生活の文法を編み直す段階に入っています。
総じて、イスファハーンは、川とオアシスに支えられた内陸都市が、帝国政治・世界交易・多宗派社会・総合芸術の舞台としてどのように熟し、危機と再生を経て現代に接続するかを示す稀有な事例です。イマーム広場の遠近、チャハールバーグの並木陰、橋のアーチの下を流れる水の音、バザールの灯りと匂い—それらは、歴史の層が現在の生活に触れ続ける都市の鼓動を、今も確かに伝えているのです。

