李承晩(イスンマン) – 世界史用語集

李承晩(イスンマン、1875–1965)は、大韓民国の初代大統領であり、冷戦初期の東アジアにおいて強烈な反共主義と大統領中心制を掲げて国家建設を主導した政治家です。日本統治期には海外で独立運動に従事し、1919年の大韓民国臨時政府で要職を務めた後、1945年の解放後に帰国して南側単独の制憲・建国を主導しました。朝鮮戦争(1950–53)の最中および戦後も強権的統治を続け、1950年代後半には選挙不正と政治弾圧によって支持を失い、1960年の四月革命により辞任・亡命しました。国家形成と治安の確保に果たした役割を評価する立場と、民主主義の破壊と人権侵害を批判する立場が鋭く対立し、現代韓国史における最も論争的な指導者の一人として記憶されています。

本稿では、人物と時代の概観、建国と統治の構造、朝鮮戦争と対外関係、長期政権の硬直化と崩壊、研究上の論点という順で、世界史用語として必要な基礎を丁寧に整理します。過度に単線化せず、独立運動家・国家建設者・権威主義的統治者という三つの顔が交錯する点に留意します。

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人物と時代背景の概観—独立運動から帰国まで

李承晩は李朝末期の1875年に朝鮮王朝の士族層の家に生まれ、開化派・啓蒙運動の影響を受けました。大韓帝国期には独立協会などの近代化運動に関与し、弾圧下で投獄を経験します。その後、キリスト教的教育を通じて英語と近代思想に触れ、米国へ留学して学位を取得しました。ワシントン、ハーバード、プリンストンで学び、近代政治思想と国際政治に関する知的基盤を築いたことは、のちの外交的活動に大きな影響を与えます。

1910年の併合後、李は主に米国とハワイを拠点として独立運動を展開し、1919年、三・一運動を契機に樹立された上海の大韓民国臨時政府で大統領(または臨時政府内の要職)に就きました。ただし臨時政府内部では指導様式や対外戦略をめぐる対立が激しく、1920年代半ばには失脚・罷免を経験します。その後も在米韓人社会や宗教・教育ネットワークを活用して独立運動の支持を集め、第二次世界大戦期には米政府・議会へのロビー活動、出版や講演を通じて朝鮮の独立を訴えました。

1945年、日本の降伏とともに朝鮮半島は北緯38度線を境に米ソの軍政下に置かれ、統一政府の樹立は冷戦化の過程で難航しました。李は1945年秋に帰国し、反共・単独建国・強力な中央集権を主張します。左派との連立や暫定統一政府の構想には後ろ向きで、米軍政と摩擦しつつも、国際連合監視下の単独選挙を通じて南側の国家建設に進みました。1948年、南側で制憲国会選挙が実施され、大韓民国が成立すると、李は国会間接選挙により初代大統領に選出されました。

建国と統治の構造—反共国家の形成と憲法改正、国内統制

建国直後の政権課題は、国家機構の整備、反共体制の構築、土地と経済秩序の再編、そして内乱・暴動の鎮圧でした。1948年に制定された国家保安法は、共産主義組織・宣伝の取り締まりを広範に可能にし、治安警察・情報機関は左派勢力に対して厳しい弾圧を行いました。1948年の済州島四・三事件、同年の麗水・順天事件に対する鎮圧は大きな犠牲を伴い、戦争期には保導連盟事件など、反共を名目とした大量拘束・虐殺が発生しました。これらは国家の存亡を理由にした非常手段であったとする擁護と、法の支配と人権の重大な侵害であったとする批判が今日まで対立しています。

制度設計の面では、当初の憲法は議院内閣制的要素を含み、大統領は国会による間接選出でした。1952年、戦時下の釜山政治危機のさなか、李は非常措置と強圧的手段で憲法を改正し、总统の直接選挙と権限強化を実現します。1954年には「四捨五入改憲」(俗に「四捨五入改憲=ササオイプ」)と呼ばれる強引な手法で任期制限の適用除外を成立させ、長期政権の制度的基盤を固めました。1956年大統領選では進歩党の趙鳳鑑が健闘しましたが、のちに国家保安法違反で処刑され、政権の弾圧体質を象徴する事件となります。

経済・社会政策では、戦前の地主制を改める土地改革(1949年法、1950年施行)が重要です。自作農の拡大と農村秩序の安定に一定の効果をもたらし、戦後の農民支持の一因となりました。他方、都市経済と産業化は戦争と混乱、援助依存によって停滞し、政権は米国からの経済・軍事援助に強く依存しました。官僚機構と警察は反共統制の中心であり、言論・結社の自由は国家保安法と非常措置の下で大きく制限されました。

対日政策においては、1952年の「李承晩ライン」の宣言が象徴的です。これは朝鮮半島沿岸に広い海洋主権線を設定し、漁業と安全保障を名目に日本漁船の操業を制限したもので、対日交渉を有利に運ぶ梃子として機能しました。日韓国交正常化交渉は李政権下では妥結に至らず、戦後賠償・在日韓国人の地位・竹島(独島)などの争点は未解決のまま持ち越されました。

朝鮮戦争と対外関係—停戦拒否と捕虜釈放、米韓同盟の締結

1950年6月、北朝鮮軍の南侵により朝鮮戦争が勃発しました。李政権は国家総動員体制で抵抗しましたが、開戦直後にソウルが陥落し、洛東江防衛線まで後退する苦境を迎えます。国連軍の仁川上陸作戦成功後、韓国軍は北進し、38度線を越えて鴨緑江に迫りましたが、中国人民志願軍の参戦により戦線は南に押し戻され、戦争は膠着化します。

1953年の休戦交渉に際して、李承晩は統一なくして停戦なしを主張し、反共捕虜の一方的釈放(数万名規模)という強硬手段に踏み切りました。これは休戦協議を混乱させ、米韓関係にも緊張を生みましたが、最終的に休戦後の安全保障を確保するため、米韓相互防衛条約(1953年)を締結する道を選びます。条約は在韓米軍の駐留と韓国の安全保障を制度化し、以後の韓国の対外戦略の柱となりました。

李は対共防衛を最優先とし、南北分断を固定化させる停戦を最終解ではなく不本意な暫定と位置づけました。北進統一を説く政治宣伝は国内の結束を促す一方、現実的な軍事・外交条件から乖離した側面も指摘されます。戦争は膨大な人的・物的被害をもたらし、都市と産業基盤は荒廃しましたが、戦後の国際援助は基礎インフラと教育の再建に振り向けられ、後の高度成長の前提の一部が整備されていきます。

長期政権の硬直化と崩壊—選挙不正、四月革命、亡命と遺産

1950年代後半、与党自由党は長期支配のための動員と統制を強め、地方ボスと警察・官僚のネットワークが政権基盤を支えました。1958年の保安法強化、報道統制、野党指導者への圧力は社会の不満を蓄積させ、経済停滞と物価高、若年層の失業も政権支持の低下に拍車をかけました。1960年3月、李の再選がかかった大統領選・副大統領選で大規模な不正が横行し、野党支持の元山市長候補の殺害事件などが怒りに火をつけます。

同年4月、釜山・馬山の抗議がソウルの学生・市民に拡大し、いわゆる四月革命が発生しました。学生・市民は民主化と責任追及を求めて大規模デモを展開し、治安部隊の発砲は社会の憤激をさらに高めました。政権の支持基盤であった保守層・宗教界・経済界からも離反が進み、米国も安定のため政権交代を容認する姿勢に傾きます。4月26日、李承晩は辞任を表明し、ハワイへ亡命しました(1965年に同地で死去)。その後、韓国は議院内閣制の第二共和国を経たのち、1961年の軍事クーデタで再び大統領中心の体制へ転換していきます。

李承晩の評価は、今日まで二極化しています。肯定的評価は、①建国初期の無政府状態を回避し、強力な中央政府を確立したこと、②土地改革と初等教育の拡充によって農村安定と人材育成の基盤を整えたこと、③対共防衛を軸に米韓同盟を締結し、生存保障を制度化したことを挙げます。他方、批判的評価は、①国家保安法を用いた政治弾圧・言論統制・司法手続の軽視、②済州四・三や保導連盟事件など国家暴力の責任、③憲法改正と選挙不正による民主主義の形骸化、④対日関係の硬直化と外交の選択肢の狭さなどを指摘します。研究史では、冷戦・内戦下の非常国家論、権威主義体制論、独立運動から国家建設への移行における指導者像の連続と断絶など、多角的分析が進んでいます。

李の個人的側面としては、プロテスタント的倫理観、英語による国際発信能力、強い反共信念が統治スタイルに直結しました。オーストリア出身の夫人フランチェスカ・ドナーの存在は国際社会へのアピールにも影響し、象徴政治の一部を担いました。とはいえ、晩年の政権運営は高齢化と側近依存、地方ボス政治の腐敗が目立ち、国家運営の柔軟性を失っていきます。

総じて、李承晩は「独立運動家」「国家建設者」「権威主義的統治者」という三像が重なり合う、20世紀東アジア政治の典型的な矛盾を体現した指導者です。安全保障のジレンマと民主主義の制度化、反共体制と人権、対外同盟と自主外交という難題の交差点で、短期的安定を優先した判断は国家生存に寄与した面と、長期の民主的発展を阻害した面を併せ持ちます。冷戦と分断の文脈を外さずに、制度・暴力・外交・社会の四つの回路を横断して読むことが、この人物を歴史的に理解する最良の手がかりになります。