イタリア王国 – 世界史用語集

「イタリア王国」とは、文脈により二つの歴史実体を指します。第一はナポレオンのもとでミラノを首都に成立した1805〜1814年の王国で、チザルピーナ共和国を母体とする仏衛星国家です。第二は、リソルジメント(統一運動)を経て1861年にサヴォイア家を元首として成立し、1946年の王制廃止まで存続した近代イタリア国家です。高校・大学初年級の世界史においては、通常「イタリア王国」と言えば後者(1861–1946)を意味しますが、前者も制度史上の先駆として重要です。本稿では両者の関係を押さえつつ、主として1861年の王国を中心に、その成立・制度・内外政策・戦争・崩壊と遺産を整理します。

イタリア王国(1861–1946)は、ばらばらだった半島の諸国家を一つの憲法と行政に束ねる試みでした。統一の主導権を握ったのはサルデーニャ=ピエモンテ王国で、外交と戦争、そして都市の社会資本を梃子に北から南へ編入を進めました。成立後は中央集権行政の整備、教皇領との関係調整、北南格差の縮小、産業化、移民や社会問題への対応が課題となり、20世紀に入ると帝国化と第一次世界大戦、戦後危機を経てファシズム体制へと転化します。第二次世界大戦の敗北と内戦ののち、1946年の国民投票で王制は廃止され、共和制へ移行しました。

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用語と範囲—二つの「イタリア王国」とそのつながり

ナポレオン期のイタリア王国(Regno d’Italia, 1805–1814)は、ナポレオンがロンバルディアの古儀礼にならう「鉄の冠」で戴冠し、義子ウジェーヌ・ド・ボアルネを副王に据えた国家でした。首都はミラノで、ナポレオン法典に基づく民法・刑法・行政区画、戸籍・地籍、徴兵制、メートル法などが導入され、近代的官僚・法秩序の実地訓練場となりました。1814年の崩壊で旧体制が回復した後も、この経験は都市行政・法律家層に痕跡を残し、のちの統一国家が採用する制度の雛形として作用します。

1861年に成立したイタリア王国は、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を「全イタリアの王」とする宣言に始まります。1866年の普墺戦争後にヴェネツィアが、1870年のローマ占領(ブレチア門突破)により教皇領の大半が編入され、名目上の統一が完成しました。首都はトリノからフィレンツェを経てローマに移り、憲法(アルベルト憲章)を継受して立憲君主制の枠組みが整えられます。本稿の主対象はこの王国です。

成立と制度—リソルジメントの到達点と中央集権の設計

統一過程の骨格は、ピエモンテ宰相カヴールの現実主義外交と軍事、民意動員の象徴であるガリバルディの行動、そして列強間の力学の組み合わせでした。クリミア戦争への参加で国際的発言力を獲得し、フランスとのプロンビエール密約を経て第二次イタリア独立戦争(1859)でロンバルディアを得ました。中部では住民投票を通じてトスカナやエミリア=ロマーニャが合流し、南ではガリバルディの「千人隊」が両シチリア王国を崩して国民国家への編入を開きました。統一は「上からの国家建設」と「下からの国民動員」が交差した複合過程だったのです。

制度面では、1848年にサルデーニャで制定されたアルベルト憲章(Statuto Albertino)を全国に拡張しました。これは国王大権を強く残しつつ、二院制議会(貴族院・代議院)を置く立憲制で、代議院は制限選挙に基づく間接的代表でした。首相と閣僚は国王の任免で発足しますが、実務上は議会多数派との信任関係が必要となり、政変は頻発します。中央政府は県(Provincia)・県知事(Prefetto)を通じて地方を監督し、裁判所・徴税・教育・治安の網を全国へ張りめぐらせました。フランス流の行政法・民法(1865民法)・刑法、統一度量衡、徴兵制・常備軍、鉄道と郵便の統合が、統一国家の骨組みを支えます。

政治運営の特色として、保守・自由派の間で柔軟に連立を組み替える「トランスフォルミスモ(可変主義)」が挙げられます。これは政局安定に寄与した一方、地方ボスと中央官僚の馴合い、利権政治の温床にもなりました。南部では統一直後に広域の「山賊鎮圧戦(南部反乱)」が発生し、徴税強化・徴兵・地租の増税は農民の反発を招きます。北部の工業化・都市化が進むにつれ、労働運動と社会主義、カトリック社会運動が台頭し、社会政策の必要性が認識されていきました。

教皇との関係は長期の難問でした。1870年にローマが併合されると、教皇は「バチカンの囚人」を自称して国家との断絶を宣言し、カトリック信者の選挙参加を抑制する方針(ノン・エクスペディト)を出します。政教関係の最終的調整は1929年のラテラノ条約(後述)まで待たねばなりませんでした。

内政・外交・戦争—帝国化の試み、第一次大戦、戦後危機からファシズムへ

外交・軍事面では、イタリアは列強の一角を目指して同盟網と植民地獲得に動きました。1882年にドイツ・オーストリアと三国同盟を結びつつ、紅海・インド洋に面するエリトリア・ソマリアへ進出します。1896年、第一次エチオピア戦争でアドワの戦いに大敗し、帝国化は挫折しましたが、1911–12年の伊土戦争でリビア(トリポリ・キレナイカ)とドデカネス諸島を獲得して名誉回復を図りました。これらの戦争は国民動員と世論形成の新局面を開き、メディアと都市の公共圏を通じて「帝国」をめぐる語彙が拡散します。

第一次世界大戦では、イタリアは同盟から離脱して協商側に立つ密約(ロンドン条約, 1915)を受け入れ、開戦しました。イゾンツォ川戦線での消耗戦、1917年のカポレット敗走、1918年のヴィットリオ・ヴェネト反攻を経て戦勝国となりますが、講和では約束通りの領土・権益が得られなかったとの不満が広がり、「未回収の勝利」という言説が政治を覆います。戦後のインフレ、復員兵の不満、ストと工場占拠が続いた1919–20年の「二年間の赤(ビエンニオ・ロッソ)」は体制の危機感を高め、街頭の暴力が政治化しました。

この真空に入り込んだのがムッソリーニ率いるファシスト党でした。1922年のローマ進軍で政権に就くと、選挙制度改変(アチェルボ法)と政敵弾圧で一党支配を固め、議会制を形骸化させます。1929年のラテラノ条約は、教皇領喪失問題を国家賠償とバチカン市国独立、カトリックを「国家の宗教」と位置づける取り決めで決着させ、長年の政教対立を制度的に解きほぐしました。経済面では企業統制と公社(IRIなど)を通じて産業再建を試み、プロパガンダ・青年組織・文化政策で全体主義的動員を進めます。

対外では、1935–36年の第二次エチオピア戦争でアフリカ帝国を宣言し、スペイン内戦に軍事介入、1939年の独伊同盟(鋼鉄条約)を結んで枢軸陣営の一角に立ちました。第二次世界大戦では1940年に参戦しますが、ギリシア・北アフリカ・東アフリカなど各戦域で苦戦し、ドイツ軍の支援に依存します。1943年7月、連合軍のシチリア上陸と国内敗戦ムードのなかでムッソリーニは解任、イタリアは休戦(カッシビレ休戦、9月)に踏み切りました。しかしドイツ軍に占領された北中部にはムッソリーニの傀儡「イタリア社会共和国(サロ共和国)」が樹立され、南の王国政府(バドリオ内閣)は連合軍側に立って戦争を続けるという分断状態が生じます。1943–45年のイタリアは、占領・抵抗・内戦が重なる苛烈な局面を経験しました。

崩壊と共和制への移行—1946年国民投票と遺産

戦後、1946年6月の国民投票(制度選択)で王制廃止・共和制移行が決定し、ウンベルト2世は退位・出国しました。同時に制憲議会選挙が行われ、1948年憲法が施行されます。これにより、イタリア王国は法的に幕を下ろし、キリスト教民主党を軸とする共和制が「第一共和国」を形づくりました。王政時代の行政・司法・教育の多くは形を変えつつ継承され、戦後復興と「経済の奇跡」を支える基盤となります。一方で、ファシズム期の警察・司法の連続性、政教関係の調整、南北格差と移民、労働と社会政策などの課題は、その後の世代へ持ち越されました。

制度的遺産としては、統一国家の中央集権行政、法典の統一、度量衡・通貨・郵便・鉄道の統一、徴兵制による「国民化」、都市の公共インフラや文化機関の拡充が挙げられます。ナポレオン期王国の法技術(行政区画、地籍、民法の構造)、ピエモンテ由来の憲章と官僚制、十九世紀後半の鉄道・銀行・保険の整備、ジォリッティ時代の社会政策の萌芽、ラテラノ体制下の政教調整などが、のちの共和国の制度設計に長い影を落としました。社会史の視点では、北の工業化と南の停滞という「北南問題」、大量移民(米州・欧州内)の経験、都市文化と中小企業の強靭さが、今日のイタリアを理解する鍵です。

以上のように、「イタリア王国」は、ナポレオン時代の先駆的制度実験と、1861年から1946年にいたる国民国家の形成・挫折・変容の二重の歴史を含みます。統一の達成は出発点に過ぎず、地方多様性と中央集権、世俗国家と宗教、帝国と国民、自由と統制という緊張の中で国家は揺れ動きました。戦後の共和制はその経験の上に築かれ、欧州統合の中で新たな枠組みを模索していくことになります。