ソ連の第2次五カ年計画(1933〜1937年)は、第1次計画で急拡大した重工業基盤を「持続運転」へ移し替え、運輸・機械製造・化学・軍需の質を高めつつ、消費財と都市生活の改善を限定的に図ることを狙った段階でした。1932〜33年の飢饉と集団化の激震をなお引きずる情勢で出発しながら、鉄鋼・石炭・電力・機械の量的伸びを維持し、標準化(GOST)や品質管理、熟練の育成、鉄道・内陸水運のボトルネック解消、都市インフラの整備に軸足を移しました。モスクワ地下鉄の開通(1935年)、モスクワ—ヴォルガ運河の完成(1937年)、新設・拡張された機械・航空・戦車工場の稼働など、国家の「見えるショーケース」が多く、スタハノフ運動(1935年)に象徴される労働の英雄化もこの期の文化的風景です。他方で、管理の強権化と査定の圧力は一層強まり、1936年憲法の「民主化」言説の裏側で、1936〜38年の大粛清が技術者・管理者・党官僚を直撃しました。全体として第2次計画は、「量から質へ/ショーケースと日常の落差/統制の強化」という三つの特徴で整理できます。
背景と基本目標──量産から安定運転へ、運輸・標準化・国防を重視
第1次五カ年計画の末期、粗鋼・石炭・電力など基礎指標は急伸しましたが、品質低下・故障の頻発・運輸の滞り・部材不足が深刻でした。第2次計画はこの「歪み」を是正し、①運輸力(鉄道・河川・港湾)の拡充、②機械製造の精密化と国産化、③化学肥料・合成素材などの化学部門強化、④消費財の限定的増産、⑤国防関連(航空・装甲・砲・弾薬)の能力拡大、を柱に据えました。計画目標は依然として強気に掲げられましたが、宣伝は「質・コスト・規格・歩留まり」へと語彙が移り、GOST(国家標準)や技術規程の整備、検査制度の拡張が進みます。
財政・価格体制の面では、配給中心の体系に商業販売(いわゆる公定商店・商業価格)の比重を徐々に戻し、賃金制度も一律平準から職種・技能差を反映する格差体系へと改定されました。これは生産性向上のインセンティブを狙ったもので、後述するスタハノフ運動や出来高賃金の拡大とつながります。
産業政策と巨大プロジェクト──機械化・化学・運輸・都市インフラ
機械製造では、工作機械・工具・精密計測の国産化が進み、トラクター・コンバイン、トラック・自動車、航空機・エンジン、戦車・装備の生産ラインが拡張されました。ウラル・シベリア・ウクライナの既存コンビナート(マグニトゴルスク、クズネツク、チェリャビンスク等)は高炉増設・圧延ラインの改善で能力を底上げし、新造の航空・重機工場が各地に配備されます。化学部門では、窒素肥料・硫安・合成ゴム・ソーダ・染料の生産が増え、農業と軍需を背後から支える「見えない基盤」が厚みを増しました。
運輸では、積み残しの解消が最優先課題でした。鉄道の複線化・橋梁更新・新型機関車の投入、貨車の標準化・修繕工場の拡充、運転整理の厳格化が進み、河川運輸でもドニエプル・ヴォルガ水系の連絡と港湾荷役の改善が実施されました。象徴的な公共事業として、1937年にモスクワ—ヴォルガ運河が通水し、首都の水運・水資源・発電に資するネットワークが完成します。都市インフラでは、1935年にモスクワ地下鉄が開通し、地下空間が「社会主義リアリズムの宮殿」として設計されました。上下水道・発電・送配電の拡張は、工場稼働だけでなく都市の生活水準の底上げにも寄与します。
電力部門は、ドニエプル水力(第1期は第1次期に稼働)に続き、火力の高効率化・送電網の増強で「系統運用」の段階へ進みました。地方拠点の中小水力・火力も増設され、地域電化が工業と農村の双方に波及します。標準化・規格化の徹底で、部品互換性の向上・保守容易性の改善が図られたことも、この期の特徴です。
労働と生産性──スタハノフ運動、出来高賃金、技能の政治化
1935年、ドンバスの炭鉱夫スタハノフが超過能率を挙げたと報じられた事件を契機に、全国でスタハノフ運動が展開しました。現場の工程分析・分業の再編・新工具の投入で「生産記録」を更新し、英雄の称号・表彰・物資優遇を与えることで勤労意欲を鼓舞するしくみです。これは単なる精神論ではなく、作業組織と報酬体系の見直し(出来高制・職務等級制)と連結され、生産性向上の装置として制度化されました。ただし、しばしば工場間・部門間の数字競争に堕し、品質低下や安全無視、工程の他部門へのしわ寄せを招く弊も生みました。
労働現場では、時間厳守・欠勤罰則・移動の制限など規律が一段と強化され、内部パスポート・労働手帳の管理が日常化しました。技術学校・工場内教育・徒弟制度による技能育成は拡大しましたが、短期育成の限界や現場の人員流動の高さは解消しきれず、不良率・事故率の抑制は永続課題でした。熟練工や技術者の地位は相対的に上昇し、エンジニア層の再評価が進む一方、政治的忠誠や出自の監視はなお厳しく、人事は常に政治と隣り合わせでした。
農業と地方社会──集団化の定着、緩慢な回復と構造的制約
農業は、1932〜33年の飢饉で壊滅的打撃を受けた後、ようやく緩慢な回復軌道に乗ります。コルホーズ・ソフホーズ体制の下、トラクター駅(MTS)が耕起・播種・収穫の機械サービスを提供し、国家の統制調達は継続しました。化学肥料の供給拡大や種子改良、灌漑・干拓の局地的整備が収量改善を後押ししますが、価格インセンティブの弱さ、管理の非効率、家畜頭数の回復遅れが足かせとなり、都市の需要に十分応える水準には届きませんでした。個人区画(自留地)は農民家計の重要な補完であり続け、公式経済と生活の間に「二重構造」を生みました。
地方社会では、学校・保健所・文化施設の整備が進み、識字・基礎医療は改善しますが、消費財・衣料・住宅・燃料の不足は慢性化しました。道路整備と地方電化が局地的に進んだとはいえ、地理的格差は大きく、都市と農村の生活水準の差は固定化します。
都市生活と消費──配給の修正、商業販売の拡大、住宅難の持続
第2次計画期には、一部の基礎物資で配給の緩和・廃止が進み、公定価格による商業販売が拡大しました。工場・役所を単位とする福利(社宅・診療所・食堂・託児)が広がり、都市の衣食住は相対的に安定します。しかし住宅供給は依然として極端に不足し、共同アパート(コムナルカ)やバラックが一般的でした。娯楽・文化では映画館・クラブ・公園の整備が目立ち、都市空間の「見栄え」は着実に向上しますが、日用品・衣料・靴の品質・サイズ多様性は乏しく、日常の不便は長く残りました。
政治環境の変化──1936年憲法と大粛清の影
1936年に公布された憲法(いわゆるスターリン憲法)は、選挙・権利の文言を拡充し、「最も民主的な憲法」と宣伝されました。名目上はソヴィエトの再編と権利章典の整備が図られましたが、実際の政治は党国家の統制が強まり、司法・治安機関の権限は拡大しました。1936〜38年にかけての大粛清は、旧来のボリシェヴィキ、軍高級将校、地方党官僚、技術者・管理者にも及び、工場・設計院・運輸の現場に深刻な人材空洞を残しました。生産統計上の成長が続く一方、意思決定はリスク回避的になり、現場の自律性は縮減します。計画の「質」志向と政治的恐怖の共存は、この時期の大きなパラドックスでした。
成果と限界──国防産業の骨格、標準化と系統運用の定着、そして「隠れたコスト」
第2次五カ年計画の成果として、第一に国防産業の骨格が挙げられます。航空・装甲・砲兵・弾薬の主要ラインが全国に配置され、設計・試験・量産のループが国内で完結する体制が形づくられました。第二に、標準化と系統運用が進み、部品互換・規格の徹底、電力・鉄道の運行管理の高度化が実現します。第三に、都市インフラと公共空間の整備が進展し、首都・主要都市の生産性と象徴性が高まりました。
同時に限界も明瞭でした。消費の抑制はなお続き、住宅・衣料・食品多様性の不足は解消しませんでした。農業は構造的制約から抜け出せず、コルホーズの非効率や価格制度の硬直性は慢性化します。政治的恐怖は技術革新と現場の自律的改善を阻害し、数字至上主義は品質の軽視や統計の粉飾を誘発しました。これらの「隠れたコスト」は、短期の達成率には表れにくいものの、制度の柔軟性を削り取りました。
国際比較と位置づけ──後発工業化の第二ラウンド
国際的に見ると、第2次計画は「後発工業化の第二ラウンド」に相当します。第1次が設備の量的導入・建設ラッシュであったのに対し、第2次は運用・保全・標準化・熟練の育成へ比重を移す段階でした。世界恐慌の余波が残る1930年代半ば、欧米でもニューディール型の公共投資や再軍備が進む中、ソ連は国家計画を梃子に軍需へシフトできる産業構成を整え、結果として独ソ戦の初期打撃から回復し得る「地力」を蓄えます。他方で、開放経済での競争圧力や価格シグナルの不足は、長期の技術進歩速度を鈍化させるリスクを内在化しました。
用語ガイド(要点整理)
GOST(国家標準):部品・材料・工程の規格化体系。互換性・品質・安全の基盤を提供しました。
スタハノフ運動:工程改善と出来高賃金を合わせ、超過能率を称揚する大衆運動。表彰・物資優遇と結びつきました。
モスクワ地下鉄(1935):交通インフラであると同時に体制の「美術館」。石材・照明・モザイクが象徴性を帯びます。
モスクワ—ヴォルガ運河(1937):首都の水運・発電・給水に資する連絡路。強制収容所労働の動員と結びついた面もあります。
出来高賃金・等級制:職種・技能に応じた賃金差を拡大し、生産性の刺激を狙った制度改革です。
小括──「質への転換」と「統制の硬直化」が同時に進んだ五年
第2次五カ年計画は、ソ連経済を「建てる」段階から「動かす」段階へ押し上げ、国防産業・標準化・運輸網・都市インフラという持続運転のための装置を整えました。同時に、統制の硬直化と政治的恐怖が現場の創意と批判的議論を圧迫し、消費と農業の遅れが社会の基礎的満足を削りました。この二面性を併せて捉えることで、第2次計画は、成功と代償が同じ構造から生まれることを教える歴史的事例として位置づけられます。次段の第3次計画(事実上は再軍備計画)へと連なる「分岐点」として理解すると、1930年代後半のソ連がなぜあのように振る舞ったのか、より立体的に見えてきます。

