五カ年計画(第1次中国) – 世界史用語集

中華人民共和国の第1次五カ年計画(1953〜1957年)は、内戦後の破壊と物資不足から出発した新国家が、短期間で重工業中心の経済基盤を築くために実施した国家総合計画です。目的は、①鉄鋼・石炭・機械・電力といった基礎部門の優先的整備、②農業と都市の結び目を国家調達と計画投資で組み替えること、③私的工業・商業を社会主義的所有へ段階的に移行させること、の三点に要約できます。ソ連の援助と技術移転(いわゆる「一五六項目」)を梃子に、長春第一汽車製造、鞍山製鉄、武漢鋼鉄、コロ電化、水利・電源建設などが進み、都市部では計画配給と「単位(ダンウェイ)」を核にした就業・住宅・福利の枠組みが整いました。一方、農村では食糧の統購統配(国家による計画買い上げと配給)、相次ぐ合作化(農業生産合作社への段階的組織化)が進み、自由取引や私的小売は縮小しました。全体として、国家計画とソ連型の重工業優先を車の両輪とし、社会主義改造(所有の公的化)を同時進行させることで、分散した市場と私営の空間を短期に「計画的秩序」へ編み替えた取り組みだったと言えます。

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背景と目標──戦後復興から重工業優先へ

1949年の建国当初、中国経済はインフラ破損、輸送網の寸断、インフレ再燃のリスクに直面していました。政権はまず通貨と物価を安定させ、国営部門の骨格を整えた後、1953年に第1次五カ年計画を正式始動します。理念面では「重工業優先・農業基礎・軽工業の相互支え」が掲げられ、国家が投資配分・価格・信用・輸入を統御して、基礎産業へ資源を集中させる方針が採られました。対外的には朝鮮戦争の余波と冷戦構図の固定化があり、早期の軍工基盤整備と技術自立が強く意識されます。

目標は、(1)鉄鋼・石炭・電力・機械・化学の能力拡大、(2)幹線鉄道・港湾・送電の整備、(3)農業の組織化と生産安定、(4)私営工業・手工業・商業の社会主義化、(5)科学技術・技術者教育の拡充、に整理できます。これらは単独で動くのではなく、国家計画委員会(国家発展計画の司令塔)による物量バランス方式で連結され、資材・労働・設備・外貨・運輸力の制約が相互に整合するよう配分が試みられました。

計画の運用とソ連援助──「一五六項目」、重工業・電化・都市の変貌

第1次計画の推進力のひとつが、ソ連の設計・機械・専門家派遣を伴う援助でした。一般に「一五六項目」と総称される大型建設群は、製鉄(鞍山・武漢)、機械(長春第一汽車、瀋陽・大連の工作機械)、化学肥料・合成ゴム、発電(瀾滄・コロ周辺の火力、水利発電所群)、有色金属、兵器関連など広範に及びます。案件ごとに設計図書、設備パッケージ、実地指導が提供され、中国側は建設・据付・運転を通じて技術吸収を進めました。外国企業との請負・技術供与契約も併用され、国際的技術移転が計画の現実性を支えたのです。

都市では、「単位(ダンウェイ)」が職場・福祉・配給の結節点として機能しました。国営工場や行政機関は、賃金だけでなく住宅・医療・教育・食堂・幼稚園を束ね、労働組織と生活が重ね合わされます。配給券制度は、食糧・布・石鹸など基本消費財の配分を安定させる一方、自由市場の比重を低め、価格メカニズムより行政配分が優位の構造をつくりました。鉄道・港湾・送電網も優先的に整備され、工業都市の人口は急増、旧租界や兵営の跡地に工場・社宅・文化施設が整えられていきます。

この時期の建設現場は、青年志願者・復員軍人・農民出稼ぎの力で回り、夜間学校・技術訓練が系統化されました。技術者・管理者の育成は最優先課題とされ、ソ連式の専門教育や設計院制度が急ぎ整えられます。他方、資材・設備・電力が慢性的に不足する中、現場は工期と品質の板挟みになりやすく、応急運転・試運転長期化・規格の不統一といった過渡期特有の問題も併存しました。

農業・手工業・商業の社会主義改造──統購統配と合作化、三大改造の完了

工業投資を支えるためには、農村からの安定的な食糧・原料供給と、都市への財源移転が不可欠でした。1953年以降、食糧の統購統配(国家による計画買い上げ・配給)が全面化し、農家の販売余地は狭まります。同時に、農村の生産組織は、互助組→初級農業生産合作社→高級合作社へと段階的に再編されました。初級社は土地の所有を個々に残しつつ耕作を共同化する形、高級社は土地・家畜・農具を原則として共同所有化する形で、国家は税負担・信用・資材配分の優遇を通じて加入を促しました。1956年末には高い加入率が報告され、農村の組織化は短期間で達成されます。

都市では、私営工業・手工業・商業を対象に公私合営が段階的に進められました。まずは統制・価格・配給の枠内での管理強化、続いて生産や流通の系統組織への編入、最終的には株式・配当の形で旧経営者の利益を限定しつつ、所有・経営権を国・公的組織へ移す手順が採られます。これにより、国営・合作・公私合営が主要な所有形態となり、分散していた都市の商流・物流は計画の下に束ねられていきました。いわゆる「三大改造」(農業・手工業・資本主義工商業の社会主義的改造)は、1956年末までに基本完了と宣言されます。

この過程には、短所と長所が混在しました。調達制度の安定は都市の供給と工業投資を支えましたが、農家の裁量と価格インセンティブは弱まり、豊凶のリスクや地域間の差に柔軟に対応しにくい体制になりました。合作化の急進は、互助の蓄積や灌漑・農機の共同利用といった利点を生みつつも、移行期の混乱・技能管理の難しさ・幹部の経験不足による誤配分を伴いました。

成果と歪み──重工業の土台、生活の抑制、その後への連鎖

五年間の帰結として、鉄鋼・石炭・発電・機械などの基礎指標は大幅に伸び、長年の懸案だった大型設備の国産化と維持・補修能力の向上に道筋がつきました。幹線鉄道の輸送力増強、主要工業地帯の形成、技術者層の拡大も顕著です。国家財政は投資偏重で、教育・衛生・住宅も拡大する一方、消費財の供給は抑えられ、配給と節約が生活の常態となりました。都市と農村の格差は構造化し、戸籍・移動管理の強化によって労働力の都市流入が抑制され、農村の資源動員が長期化する土台が形づくられます。

計画は、行政配分による一体運営という強みを示すと同時に、現場の創意・市場シグナルを吸収する力の弱さも露呈させました。重工業優先の配分は、軽工業・農業投入材の不足、設備稼働率のばらつき、部門間の「ボトルネック」を生み、調整コストを増大させます。統計の精度・品質管理・安全規格といった「見えない基礎」の整備は追いつかず、工期優先の文化が根付く弊もありました。

それでも、第1次五カ年計画が敷いた送配電網・拠点工場・技術教育・計画行政の枠は、その後の経済の進路を規定します。1958年以降の第二次計画期に入ると、意欲的な増産目標と分権的動員(人民公社や大衆運動)へ振れ、過大な期待と現実のギャップが深刻な歪みを招きますが、その前提となる工業の骨格と国家運営の器は、第1次計画の五年間に形づくられたものでした。第1次計画を理解する鍵は、〈重工業の土台作り〉と〈所有・流通の社会主義化〉が同時進行であったこと、そしてそれが〈生活の抑制と地域格差の固定化〉を伴ったという事実にあります。