インドネシア共産党 – 世界史用語集

インドネシア共産党(Partai Komunis Indonesia, PKI)は、20世紀前半にオランダ領東インドで生まれ、独立革命・議会政治期を経て、1965年の政治危機を境に壊滅した左翼政党です。アジアで最古級の共産党の一つとされ、独立後は数百万人規模の大衆組織を持つ世界最大級の合法共産党として成長しました。労働組合・農民組織・文化団体を抱え、「ナサコム」(民族主義・宗教・共産主義の共存)を掲げたスカルノ大統領の指導体制の一角を担いましたが、1965年9月30日の軍関係者殺害事件(通称「9月30日運動」)を機に、反共掃討と軍の台頭が進み、党は非合法化・解体され、多数の犠牲者を伴う暴力が全国的に発生しました。PKIの歴史を理解することは、植民地末期から冷戦期のインドネシア政治、農村社会、軍と国家の関係、暴力と記憶の問題を読み解く上で不可欠です。

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成立と初期の展開:植民地末期の社会運動と1926–27年蜂起

PKIの起源は、1914年にオランダ人社会主義者らが設立したインドネシア社会民主連盟(ISDV)にさかのぼります。第一次世界大戦とロシア革命の衝撃、東インド会社以来の差別的秩序、労働と農村の貧困が重なり、都市の港湾・鉄道・製糖産業を中心に労働運動が高揚しました。ISDVは現地の民族主義者と連携しつつ、次第にボリシェヴィズムの影響を強め、1920年にインドネシア共産党へ改称してコミンテルンに加盟します。

1920年代前半、PKIはシンドィカリズム的な労働争議と、ジャワ・スマトラの農村での地租・小作条件改善運動を組織化し、地下ネットワークを広げました。民族主義団体(Budi Utomo、サレカット・イスラムの急進派など)とも接点があり、都市中間層や学生と接続する新聞・小冊子がプロパガンダの要となります。オランダ植民地当局は治安条例と監視を強化し、共産主義者の国外追放や無裁判拘禁を拡大しました。

緊張は1926–27年に爆発します。党内の急進派は武装蜂起を決断し、1926年11月に西ジャワとバンテン、翌27年初頭に西スマトラで蜂起が発生しました。しかし準備不足と連携の欠如、内部の意見対立、当局の迅速な治安出動により、蜂起は短期間で鎮圧されます。多くの党員と支持者が逮捕・流刑となり、PKIは組織として壊滅的打撃を受け、以後は地下活動と亡命指導部(シンガポール・オランダ本国・ソ連圏など)に分かれて延命する局面に入ります。この挫折は、後年の「大衆組織重視・積極的合法路線」志向の一因となりました。

独立革命と議会期:合法政党への回帰、ナサコムと大衆動員

1942年、日本軍が東インドを占領すると、植民地秩序は大きく揺らぎ、民族運動は新たな動員機会を得ます。PKIの名義は占領期に公然とは使われませんでしたが、左派系の活動家は労働・青年・文化の組織や武装訓練を通じて力を蓄え、1945年8月の「独立宣言」後に再編・公然化が進みました。独立革命(対オランダ再植民地化戦争)期には、左派は地方治安や土地・工場の管理、労働動員で一定の役割を果たし、革命の正統性をめぐる政治闘争にも関与しました。

1948年、マディウン事件が発生します。東ジャワのマディウンで左派勢力(PKI系の一部と人民民主戦線)が蜂起し、政府軍(スカルノ—ハッタ政権)との武力衝突に至りました。短期間で鎮圧され、ムソら左派指導者は殺害・処刑され、党は再び打撃を受けます。以後、PKIは武装決起ではなく、議会と大衆運動の組み合わせによって勢力回復を図る路線へ収斂していきました。

1950年代、インドネシアは議会制民主主義を採用し、頻繁な内閣交代の中で政党政治が展開しました。PKIはアリドジョジョディコロやディパ・ヌサンタラ・エイドゥ(D.N. Aidit)らの指導の下、労働者・農民・女性・青年・文化人の大衆組織(SOBSIなどの労組、BTI=インドネシア農民戦線、Gerwani=女性団体、Lekra=人民文化機関)を通じて地歩を固め、1955年の総選挙では得票率約16%で第四党に躍進しました。都市では賃上げ・物価対策、農村では小作料の引下げ・未利用地の利用、土地改革の推進を掲げ、地方の紛争調停や教育・文化活動でも存在感を示します。

1957年以降、スカルノは議会政治の機能不全と地方反乱(PRRI/Permesta)に直面して「指導された民主主義」を提唱し、民族主義(ナショナリス)、宗教(アガマ)、共産主義(コミュニス)の共存=「ナサコム」を国是化しました。PKIはこの枠組みで合法勢力として影響力を拡大し、対外的には反帝国主義・平和共存の立場でアジア・アフリカ会議(バンドン会議)後の国際連帯に積極的でした。他方で、軍(特に陸軍)や一部イスラーム勢力との緊張は高まり、農村の「一方的行動」(地主地代の拒否、空地占拠など)が政治対立の火種となりました。

1965年の危機と党の壊滅:9月30日運動、反共掃討、スハルト体制

1965年9月30日夜から10月1日にかけ、ジャカルタで陸軍将官らが拉致・殺害される事件が発生しました。首謀を名乗ったグループは「革命評議会」を称し、軍内部の「評議会」構想とスカルノの権威を利用して一部の拠点を占拠しましたが、スハルト少将率いる陸軍戦略予備軍(KOSTRAD)が迅速に反撃し、事態は数日で収束します。事件の全体像—発案・組織・関与の度合い—は今日まで論争がありますが、陸軍は直ちにPKIの関与を断定し、全国的な反共掃討を開始しました。

1965年末から1966年にかけて、ジャワ・バリ・スマトラなどでPKI党員・支持者、疑われた住民に対する大量逮捕・私刑・虐殺が広がり、数十万人規模の犠牲者を出したと推定されています。多くの大衆組織が解体され、文化団体や出版社は閉鎖され、党の公文書や出版物は没収・破棄の対象となりました。スカルノは権威を保持しようと試みましたが、1966年3月の「3月11日命令(スーペルスマル)」を通じて軍に権限が委譲され、翌年にはスハルトが大統領に就任して「新秩序」体制が成立します。PKIは非合法化され、政治空間から消滅しました。

新秩序体制下では、教育・メディア・映画・教科書などで「9月30日運動」に関する単線的な公式叙述が流布され、PKIは一貫して「国家の敵」として記憶の中に位置づけられました。党関係者や家族には長期の社会的制裁(職業制限・移動制限)が課され、地域社会に深い分断が残りました。1998年のスハルト退陣(改政期)以後、研究と証言の公開、国家人権委員会の調査、映画や文学による再検討が進みましたが、加害—被害の責任と和解、補償と謝罪の枠組みは今なお課題として残っています。

組織・思想・大衆運動:合法主義と民族統一、文化の政治

PKIの思想は、コミンテルン期の階級闘争と民族解放を接合する古典的な枠から出発し、1950年代以降は「民族統一の中の左派」という位置づけで、議会・地方行政・大衆組織を結ぶ合法主義へと重心を移しました。農村では小作料引下げ・土地改革・農民組合の強化を進め、都市では労働条件改善・価格統制・公共サービスの拡充を訴えました。外交思想では反帝国主義・平和共存・第三世界の連帯が強調され、文化運動ではLekraが「人民の側に立つ文化」を唱えて文学・美術・演劇の創作と批評を推進しました。

組織面では、支部—地区—県—州—党中央という階層組織のほか、労組・農民・女性・青年・文化などの前衛的な大衆団体を結節点とし、新聞・雑誌・小冊子を通じて強力な動員力を確立しました。選挙期には戸別訪問や集会、識字教育や劇・歌を交えた宣伝が展開され、農村の相互扶助や市場のネットワークが政治組織化の基盤となりました。他方、党の規律と指導部集中、路線転換の硬直性は、危機対応の脆さや内部の議論の不全を生んだ側面も指摘されます。

宗教との関係は複雑でした。イスラームが社会の基層に強く根付くインドネシアでは、PKIは宗教否定のイメージを避け、信仰の自由と社会正義の両立を強調しましたが、地域・組織によってはイスラーム団体との対立が鋭化しました。特に1960年代前半の農村紛争では、宗教学校や青年団とPKI系農民組織の衝突が暴力化する事例があり、これが1965年の反共動員の土壌になったとする指摘もあります。

評価と歴史的意義:独立国家のもう一つの軸、暴力の記憶と再検討

PKIは、独立国家インドネシアの政治を支えた「もう一つの軸」でした。民族主義とイスラームに並ぶ大衆的潮流として、賃労働と小農の要求、文化と教育の改革、外交路線の選択に影響を与え、スカルノ体制の支柱の一つとなりました。同時に、1926–27年の蜂起、1948年のマディウン事件、1960年代前半の一方的行動など、党の戦術・統制・現実判断の課題も歴史に刻まれています。1965年の危機は、党の路線や指導部の判断の問題に加え、軍・宗教勢力・国際政治が絡み合う構造的な要因が重なった結果であり、その責任の配分はなお研究と議論の対象です。

歴史研究の面では、長らくアクセスが難しかった資料—党機関紙、地方支部の記録、警察・軍の文書、個人の手記—の公開が進み、地域ごとの差異や大衆組織の実態、ジェンダーと文化の側面、暴力の具体相が明らかになりつつあります。記憶の政治では、加害・被害双方の証言と地域社会の和解、追悼の在り方が問われています。PKIの歴史は、イデオロギー闘争の勝敗だけでなく、近代化と農村、国家と軍、宗教と世俗、文化と政治の交錯を映し出す鏡でもあります。党そのものは消滅しましたが、その軌跡を検討することは、現代インドネシアの公共性と民主主義を考えるうえで、今なお重要な意味を持つのです。