永業田 – 世界史用語集

永業田(えいごうでん)とは、日本の律令国家のもとで個人や寺社などが恒久的に私的所有(世襲)できると認められた田地を指す用語です。班田収授により一定期間ごとに貸与・返還される口分田(こうぶんでん)とは異なり、所有者の死亡や代替わりでも原則として返納を要しませんでした。租税(田租)の賦課対象にはなりましたが、所有権の帰属は私的で、譲与・売買・質入れなどの処分が比較的自由でした。律令制の「公地公民」原則の下でも、一部の土地が恒久的私有として拡大したことを示す指標であり、奈良時代から平安時代にかけて荘園の形成と結びついて発展していきます。永業田は、賜与・功績・官位・職掌・墾田などの由来をもつ多様なサブタイプから構成され、国家が配分する田地制度と、地方社会の耕作・経営の現実の間に生じたずれを埋める役割を果たしました。

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定義と制度的位置づけ

永業田は、律令法で想定された土地区分のうち「恒常的に一家の永業(長く営む生業の基盤)として保持することを許された田地」を総称する便宜的名称です。班田収授に基づく口分田は、6年ごとの班年に戸籍(籍帳)と計帳に基づいて人民に割り当て、死没・喪失の際には返還(没官)することが前提でした。これに対し永業田は、もともと口分田の雛形から外にある「特別付与の田」または「私的取得の田」で、世襲を前提とした点に核心があります。国家はこれを完全に無税化したわけではなく、田租(一般に段別二束二把などの規定)を課し続けつつも、返還義務を免除することで所有の安定性を認めました。

名目上の「公地公民」原則は、政治理念としては強力でしたが、統一国家の経済と軍事の基盤を維持するには、官人の職務遂行のための手当や、功績への褒賞、寺社の経営資源の確保、新田開発の誘因といった多元的な要請に応える必要がありました。永業田は、こうした要請に対する現実的な制度解として機能しました。すなわち、国家は公田の体系を基本にしながらも、部分的な恒久私有を容認・拡大し、官人と有力在地層を結びつける媒介を提供したのです。

成立の背景と法制の変遷

永業田の背景には大きく三つの流れがあります。第一は、官人の給与体系整備です。大宝・養老令において、位田(いでん)や職田(しきでん)が規定され、一定の官位や職掌に応じて田地が付与されました。これらは本来は在職中の給田性格が強いですが、実務上は家産化・世襲化する傾向が強まり、永業的性格を帯びました。第二は、功田・賜田の拡大です。軍功や朝廷への貢献に対して田地を下賜する慣行は、政治的求心力を保つうえで有効で、受領者はその田地を家産として確保しようとしました。第三は、開墾の奨励政策です。723年の三世一身法は、開墾地の所有を三代に限って認めることで短期的インセンティブを与えましたが、743年の墾田永年私財法に至って、開墾した田地を永年の私財として保持できると改められ、恒久的私有の法的根拠が飛躍的に強化されました。これにより、既存の賜与田や職掌田と、私的開発に由来する新田が同じ「永業」カテゴリーに収斂していきます。

法の文言として「永業田」という語が一括して条文に現れるわけではありませんが、当時の公文書・古記録・後代の史書・律令の注釈などでは、永業・永業田・永業地といった語が「返還を要しない家の業田」を指す意味で用いられています。その内容は地域と時期によって幅があり、中央貴族の邸宅に付属する園地・田畑から、寺社の神田・寺田、受領(国司)層が確保した私的経営田まで、多彩でした。律令国家の統治が進むほどに、文言上の原則と運用上の慣行の差が拡がり、永業田は「制度の柔軟化」を代表するカテゴリーとなっていきます。

類型・所有主体・運用の実際

永業田の由来と所有主体を整理すると、次のような主要類型に分けられます。①位田・職田系:官位や職に応じて支給された田地で、中央・地方の官人が受給しました。任期や在職との関連づけが原則ですが、実務では家産化・世襲化が常態化し、譲与・売却も一定範囲で行われました。②功田・賜田系:軍功・勤労・献納への報償として下賜された田地です。朝廷からの恩給性が強く、受領家の家勢拡大と連動しました。③寺田・神田系:寺社の維持運営や祭祀・修繕・救済の財源として公認された田地で、僧尼・社家が管理し、在地の名主・田堵と協業して耕作が行われました。④墾田系:墾田永年私財法以降に私人・寺社・貴族が開墾して取得した新田で、開発の資金・労働力を動員できる主体ほど拡大が容易でした。⑤寄進・買得系:既存の田地を売買や寄進で取得し、寺社や有力家が所有権をまとめ上げたものです。

運用の現場では、永業田は所有者(本所)と経営者(在地の耕作者)との分離が進み、名目上の所有者は年貢(田租・公事)や雑役免除の特権を得つつ、実際の耕作は名主・田堵・負名などが担いました。課税や負担をめぐっては、国衙の検田・検注や徴税吏との駆け引きが恒常的に発生し、名目面(名帳上の名義)と実態面(現地の耕作)で二重の構造が形成されました。こうした二重構造は、やがて寄進地系荘園の仕組みに取り込まれ、荘園公領制の土台となります。

特に寺社勢力は、布教・救済・技術(記録・建築)・ネットワークの総合力を背景に、寄進を受けて永業田を集積しました。寺社への寄進は、祈祷や追善供養の宗教的動機だけでなく、課税や雑役の免除、紛争時の訴訟保護といった世俗的合理性を伴い、在地層にとっても魅力的でした。結果として、国衙の統制を相対化する自律的な土地秩序が広がりました。

社会経済的影響と荘園制への連続

永業田の拡大は、律令国家の財政・軍事・社会構造に長期的な変化をもたらしました。第一に、財政基盤の変容です。口分田に依拠した戸籍・班田・租庸調の体系は、人別賦課と公田収入を前提としていましたが、永業田の増大は、名目上は租収入を生む一方で、調・庸や雑徭の動員を弱め、さらには免税・官省符荘のような特権の付与を通じて、国衙の直接支配を侵食しました。第二に、軍事・治安の再編です。公田に縛られない在地層は、武器・馬・郎党を自前で抱え、土豪化することで地方秩序の担い手となりました。彼らは国司や受領と対立・提携を繰り返しながら、やがて武士団の形成へとつながっていきます。第三に、地域経済の自立化です。永業田を核に、市場・運送・金融・手工業が在地で連関し、年貢米の滞りや相場の変動が地域の政治を左右するようになりました。

荘園制との関係では、永業田はいわば前史に位置づきます。寄進地系荘園が確立する段階では、中央からの免租・不輸不入(官人の立入・課税を拒否する権利)などの「本所的特権」を獲得することが要でしたが、その基盤には既得の永業田がしばしば存在しました。すなわち、永業田として私的に確保された田地が、寄進・買得・開発によって面積と連続性を高め、本所—下地(現地)—名主といった階層を伴う荘園へと再編されていったのです。こうして、律令の形式的枠組みのなかに芽生えた恒久私有は、やがて中世社会の土地秩序へと橋渡しされました。

一方で、永業田の拡大は必ずしも直線的ではありません。検田・墾田地券の再確認、国衙の収公(没官)、権門の領有をめぐる訴訟など、逆流もたびたび生じました。とくに朝廷の財政危機や軍事動員が強まる時期には、賜与の見直しや負担強化が行われ、在地の反発・一揆を招くこともありました。永業田は、国家と地方社会のせめぎ合いの結果として、その輪郭を変え続けた柔らかな制度だったといえます。

史料・用語上の注意と学び方

永業田という語の使い方には注意が必要です。第一に、同時代史料での用例と、後世の歴史学での便宜的総称が混在します。条文そのものでは「位田」「職田」「功田」「賜田」「寺田」「神田」「墾田」など固有の名称が立ち並び、それらを総括して「永業田」と呼ぶのは整理上の用法です。したがって、具体例をあげるときには、いつ・どの由来の田地を指すのかを明確にすることが大切です。第二に、永業田は「完全に無税の私有地」を意味しません。田租の賦課や役負担は原則として残り、免除は特許状(官省符)や不輸不入の獲得など、別の政治過程を要しました。第三に、班田収授の運行度合いは地域差が大きく、口分田と永業田の比率・境界も一定ではありません。地域史の研究では、検田帳・名籍・古文書の読み解きによって、個別の実態が丹念に復元されています。

学習上は、①口分田と永業田の性格差(貸与・返還と世襲私有)、②永業田の由来(位田・職田・功田・賜田・寺田・神田・墾田)、③墾田永年私財法による質的転換、④荘園制へのつながり、という四点を軸に整理すると理解が進みます。あわせて、国衙と本所、名主・田堵・負名といった主体間の関係を図示できると、抽象概念が土地の流れ・年貢の流れとして具体化されます。永業田は単なる用語ではなく、古代から中世への移行期における土地と権力の関係を読み解く鍵概念なのです。