永楽大典(えいらくたいてん)は、明の永楽帝(在位1402–1424)の命で編纂された、当時世界最大規模の百科全書的類書です。1403年に着手され、1408年に一応の完成をみたと伝えられ、全体は約2万2千余巻(約1万1千冊)におよぶ巨大な写本群として作成されました。総文字数はおよそ数億字に達し、古来の経・史・子・集はもちろん、天文・地理・医薬・法制・技術・宗教儀礼・民俗・方言・戯曲・小説に至るまで、先行文献の全文・長大な抄録を体系的に収めた点に最大の特色があります。刊行(印刷)はされず、すべて宮中保存の写本として管理されたため、今日に伝わるのは写本の一部に限られますが、それでも中世以前の中国文献の原貌を伝える第一級の史料として、東アジア知識史を研究する上で欠かせない存在です。永楽大典は、帝国の威信を体現する記念碑であると同時に、散佚(さんいつ)しやすい文献を「引用という形で丸ごと救い上げる」保存装置でもありました。
編纂の背景と目的
永楽大典の編纂は、永楽帝による政権基盤の再整備と密接に結びついています。永楽帝は靖難の変を経て即位し、都の北京遷都事業や海外遠征(鄭和航海)など積極的政策を進めました。その一環として、文武の統合を示す文化事業が重視され、国家が保有すべき知の集成を通じて王朝の正統と実務能力を誇示することが目標とされました。編纂の直接の動機には、既存の類書・叢書では行政・祭祀・軍政・教育に必要な典籍を横断的に参照しづらいという実務上の不便もあり、また洪武・永楽期における書籍収集と図書館整備の成果を、抜本的に整理・統合する必要がありました。
総裁・総編集の中心には、解縉(かいしん)や姚広孝(ようこうこう)などが名を連ね、翰林・国子監・礼部などから総計数千人規模の学者・書吏・誊写生が動員されました。編纂は短期間に集中して実施され、既存文献を主題別に切り出して編纂し、必要に応じて注記・典拠を付すという方法が採られました。永楽帝は宮廷に蔵する古今書籍・地方からの献上文献・道教・仏教文献を幅広く収集させ、ときに民間所蔵の珍籍も一時的に取り寄せて抜き書きを許可させたと伝えられます。こうした動員力とスピードが、世界的にも例のない分量の知識集約を可能にしました。
目的は単なる権威づけに留まりませんでした。第一に、行政の便覧としての役割です。律令・条例・先例・礼儀作法・吉凶祭祀の規範は、部署横断で参照できる索引が必要でした。第二に、教育と典籍保存です。科挙・学校教育で必要とされる古典の異本比較、注釈の系譜、詩文の用例、歴史叙述の典拠を、見やすい形でまとめることで学習の共通基盤を提供しました。第三に、文化的な包摂です。儒・仏・道の文献を横断し、医術・方術・星占・風水・郷談・俚謡なども包み込むことにより、「天下の書を尽くす」という帝国的抱負を具体化しました。
構成と編纂方法:類書としての設計と配列の工夫
永楽大典は、索引中心の百科「辞典」というより、引用を主とする「類書(るいしょ)」の系譜に属します。類書とは、主題(部・類・門)ごとに古来の典籍から関連箇所を抜き出し、必要なら小見出しや注記を添えて並べる書物で、百科的な参照を迅速にするためのツールです。永楽大典の編者たちは、前代の『太平御覧』などを参照しつつ、より細かな主題分類と見出し語を設定し、同一テーマに関わる複数文献の記述を隣接させました。これにより、異本比較や表現の差、語義の変遷を一覧できる構造になっています。
配列の基準には、韻書(音韻体系)に基づく索引的工夫が取り入れられ、見出しや語の配列を音韻・部首・意味領域の交差点で整理する実験も行われました。具体的な分類語彙は巻々で揺れがあり、必ずしも一貫した辞書学的体系とは言いがたい面もありますが、当時の実務に適した「探しやすさ」を優先した運用的設計でした。巻頭・巻末には引用典籍の出所や異称が記され、本文中には「某書曰」「某志云」といった引用標識が多数現れます。これらは原資料同定の手がかりとなり、散逸文献の復元に今日まで大きく寄与しています。
内容面では、経書・史書・諸子百家・文学作品に加え、医方(本草・脈訣・処方)、天文暦法、算術・度量衡、工芸・建築法、刑政・訴訟実務、礼法・冠婚葬祭、祈祷・占筮、地誌・方志、河川・水利、農業・園芸、馬政・兵器、音楽・舞楽、戯曲・俳優、民間譚や笑話に至るまで、驚くほどの広がりを見せます。引用に際しては本文の改竄を避ける原則が尊重され、明確な改編を行う場合は注記するよう努められました。これにより、原資料の字句がそのまま保存されることが多く、後代の版本より古い形態を保持する例が少なくありません。
写本と散逸:原本焼失・嘉靖期の重写と近代の流出
永楽大典は、その巨大さゆえに一度も木版や銅活字での「刊行」を実現できませんでした。完成後、宮中の書庫に写本として保管され、閲覧や再写は厳しく管理されました。16世紀半ば、宮城火災により原本(最初の写本)がおおむね失われたとされ、これを受けて嘉靖年間に重写(あらためて全文を書き写す作業)が命じられました。この重写本が、後世に伝わる永楽大典の母体となります。
しかし、重写本も完全には安泰ではありませんでした。清代後期になると、太平天国の乱や英仏連合軍の侵入(1860年)、さらに義和団事件(1900年)前後の混乱で宮中・王府の書庫が蹂躙され、多くの冊が焼失・流出・散佚しました。欧米・日本の図書館・博物館・個人コレクションに渡った冊もあり、20世紀以降、国際的な返還・寄贈・購入を通じて一部が中国本土に戻っています。今日確認されている現存数は全体のごく一部で、凡そ数百冊・八百余巻規模が世界各地に分散しているとされます。劣化・損傷の進行を抑えるため、修復とデジタル化が進められており、散佚巻の所在探索・目録化も継続的課題です。
流出の経緯には、軍事的略奪だけでなく、官僚・蔵役の私的持ち出し、古書市場での転売、追悼・餞別としての下賜など複合的事情が絡みました。各冊の題簽・蔵印・識語は、移動の履歴を物語る重要な証言であり、書誌学・文化財研究の領域で丹念に読み解かれています。紙質・装訂・墨色・行数などの物理的情報も、重写時期・写者集団の特定に資する材料となります。
学術的意義:散佚文献の保存庫として
永楽大典の最大の意義は、原典が失われた文献の本文を「引用の形」で大量に保存している点にあります。たとえば、戦国・秦漢以来の逸書や、地方志・専門技術書・宗教文献のマイナーな異本など、他に伝本がない資料が永楽大典の断片によってのみ再構成できるケースが少なくありません。研究者は、現存する冊の該当箇所から原典の文句を拾い出し、他の叢書や類書と突き合わせ、文献の原貌を復元していきます。この作業は、文字一字の異同や、句読の位置、用字の世代差など、細部の検討を要し、学問的には地味ながら替えの利かない基礎作業です。
また、永楽大典は「知識の編集史」を考える上でも重要です。編者は何を重要と見なし、どのような順序で配置し、どこに注を付けたか。これらの編集判断は、明初の知的世界観—正統化の文脈—実務的必要—社会的関心—宗教文化の位置づけ—など、諸要因の反映です。引用の仕方や省略・補足のパターンを分析すると、当時の政治文化が望んだ〈正史的〉・〈実用的〉・〈包括的〉な知識像が立ち現れます。さらに、音韻配列や語彙選択の癖は、15世紀初頭の言語状況の断面を提供します。
永楽大典はまた、東アジア域内の学術交流史にも関係します。朝鮮王朝では、成宗・中宗期などに類書・叢書の編纂が盛んになり、中国からの文献輸入と合わせて知識の整理が進みました。日本においても、江戸期の和刻漢籍・国学・本草学・兵学などの領域で、中国類書の利用は広範に及び、永楽大典からの間接引用が他の叢書を経由して伝わる事例が指摘されています。すなわち、永楽大典は直接流通しなくとも、知の交通の結節点に位置しました。
利用と研究のコツ:どのように読むか・探すか
永楽大典に基づく調査は、いくつかの段取りを踏むと効率的です。第一に、主題語と関連語のセットを用意します。類書は見出し語が命であり、同義・類義の語を辞書・索引で洗い出しておくと該当箇所に到達しやすくなります。第二に、現存冊の所在を確認します。国立図書館・大学図書館・博物館の所蔵目録や、影印本・翻刻・デジタル化資料の公開状況を調べ、該当巻の有無を確かめます。第三に、引用の原典を確認し、他の類書(『太平御覧』『冊府元亀』など)と突き合わせます。これにより、省略・改変・誤写の可能性を見極め、より信頼できる本文を組み立てます。第四に、本文の語法・用字から時代層を判定し、必要に応じて韻書・字書(『広韻』『集韻』など)を参照します。
実務的注意として、影印本・翻刻は品質の差が大きく、影の濃淡や欠損補綴の方針が異なります。必ず複数版を当たり、可能なら実物の閲覧・高精細画像での確認を行うと良いです。題簽や蔵印・識語は書誌学的情報の宝庫で、出所・流通史の手がかりになります。さらに、同一主題の別巻を横断し、編者の配置論理を把握することで、類書的編集の意図が見え、引用の連鎖を追いやすくなります。
永楽大典の位置づけと今日的意義
永楽大典は、知識を国家事業として集成し、写本という物質的媒体で巨大な記憶装置を実現した点で、古今稀有の試みでした。印刷ではなく写本を選ばざるを得なかったことは、巨大プロジェクトの持続性を損ない、散逸を招く要因ともなりましたが、逆に言えば、写本ゆえに柔軟な追補や再写が可能で、時代ごとの書写人の痕跡をとどめる文化財にもなりました。今日、現存冊の修復・影印・デジタル化は国際協力の対象となり、散在する文化遺産を仮想的に再統合する試みが進んでいます。
知識社会の観点から見ると、永楽大典は「引用と再配列による保存」という戦略の有効性を示しています。オリジナルを網羅的に複製することが困難なとき、重要部分を引用してまとめ上げる類書的手法は、情報の損失を最小化し、検索性を高めます。現代のデータベース設計やアーカイブ学にも通じる発想であり、メタデータ(典拠・出所・異名)を手厚く付与する実践は、今日の研究にも教訓を与えます。永楽大典を学ぶことは、単に明代の文化政策を知るだけでなく、知識の保存・編成・アクセス可能性をどう設計するかという普遍的課題に向き合うことでもあります。
以上の通り、永楽大典は、編纂動機・編集技法・物質的運命・学術的利用という多層の側面から読み解くべき対象です。年表上の数字(1403年着手、1408年前後の完成、嘉靖期の重写、清末・近代の散逸)を押さえつつ、類書としての具体的な使い方、現存冊の所在と書誌の読み方を身に付けることで、この巨編の価値は一段と明瞭になります。永楽大典は、失われた原典の声を今に伝える「巨大な引用の海」であり、東アジアの知の構造と帝国の文化装置を照らす、比類のない灯台なのです。

