エジプト・イギリス同盟条約(通称「英埃条約」)は、1936年に締結されたエジプト王国とイギリスの軍事・政治協定で、1882年以来続いてきた実質的占領と保護の枠組みを大きく組み替えた取り決めです。エジプトの主権を国際的に承認しつつ、スエズ運河地帯における英軍の駐留と有事再進駐の権利を認め、両国の軍事同盟関係を20年間にわたり規定しました。これによりエジプトは国際連盟加盟への道を開き、治外法権(カピチュレーション)撤廃の交渉が前進しましたが、スーダンの地位や駐留問題は火種として残りました。条約は1940年代に再交渉の対象となり、1951年にエジプト側が一方的破棄を宣言、1954年の最終協定で英軍撤退へつながります。つまり英埃条約は、植民地支配から独立国家関係へ移行する際の「中間段階」を制度化したもので、エジプト近現代史の要所をなす取り決めでした。
成立の背景:1882年占領からワフド運動、そして1936年へ
英埃条約の背景には、長い占領と自立要求のせめぎ合いがありました。1882年、イギリスはアラービー運動の鎮圧を名目にエジプトへ軍を進め、以後、名目的にはオスマン帝国の宗主権とエジプト総督(のちフドゥイブ朝・王国)の枠内にありながら、実務は英顧問と駐留軍が支配しました。スエズ運河の戦略価値は第一次世界大戦で一段と高まり、1914年にはオスマンと決別して英国の保護領化が宣言されます。
1919年に起きたワフド党を中心とする民族運動は、広範な民衆を巻き込み、英側の抑圧にもかかわらず抵抗を続けました。1922年、イギリスは一方的にエジプトの「独立」を承認しますが、外交・軍事・スエズ運河・スーダンの四分野は英側の留保権限とされ、主権は大きく制限されました。1920年代を通じ、王権(フアード1世)・ワフド党・英当局の三者は不安定な均衡を続け、政変が相次ぎます。
1936年、国王フアードの死とファールークの即位、イタリアのエチオピア侵攻に象徴される国際緊張の高まりが、政情に新局面をもたらしました。イギリスにとっては地中海・インド洋の連結点であるスエズの安全保障が喫緊の課題であり、エジプト側にとっては留保分野の解消と国際的地位の確立が焦点でした。こうしてナハース・パシャ率いるワフド党内閣の下で、英埃の本格交渉が始まります。
条約の骨子:主権承認と同盟、スエズ運河地帯の駐留
英埃条約は20年の期限付き軍事同盟を定め、相互援助と軍事協力の枠組みを整えました。要点は大きく三つに整理できます。第一に、エジプトの主権と独立を国際的に再確認し、英側の「留保分野」を段階的に縮小する方向性が明文化されたことです。これにより、エジプトは国際社会で独立国家として扱われる道が拓かれ、翌年の国際連盟加盟へ直結しました。
第二に、スエズ運河の防衛を理由とする英軍の駐留が制度化されました。英軍は運河地帯(おもにイスマイリア、スエズ、ポートサイド周辺)の基地と、航空基地の使用を継続し、平時は上限人員が規定されました。有事(ヨーロッパまたは中東での戦争、国際的危機)には英軍がエジプト全土で軍事行動や再進駐を行う権利が認められ、軍需物資の輸送と港湾・鉄道・通信の軍事使用が担保されます。これはエジプトにとって主権の制限である一方、英側にとっては帝国防衛の生命線でした。
第三に、エジプト軍の近代化支援が取り決められました。英国軍事顧問団が派遣され、士官教育、装備供与、軍事訓練、作戦計画の連携が規定されます。エジプト軍は国内治安と国境防衛を主体的に担い、戦時には英軍と協同することが期待されました。英側は軍施設の建設・運用で雇用・契約を生み出し、経済的利害も絡みました。
このほか、外交上の重要論点であったスーダンについては決着が先送りされ、英埃共同統治(コンドミニアム)の現状が維持されました。これは将来の対立の種を残したままの合意であり、のちの1950年代まで尾を引くことになります。
関連する並行プロセス:治外法権撤廃と国際的承認
英埃条約は単独で作用したのではなく、いくつかの併行する制度改革と連動しました。その一つが、外国人に与えられていた広範な治外法権(カピチュレーション)の撤廃に向けた調整です。1937年のモントルー宣言(モントルー条約)により、外国人特権を段階的に廃止し、混合法廷の整理を経て、最終的にはエジプトの司法主権に一本化する道筋が示されました。これにより、エジプト国家の実質的主権は強化され、税や商取引、刑事司法の統一が前進します。
もう一つは、国際連盟への加盟です。英埃条約を受けて、エジプトは1937年に正式加盟を認められ、国際舞台で独立国家としての地位を得ました。これにより外交関係の多角化が進み、教育・保健・経済に関する国際協力の枠組みにアクセスできるようになりました。
国内政治と世論:王権・ワフド党・若手将校の視線
条約は、国内政治の均衡を変える契機でもありました。ワフド党は民族運動の成果として条約を擁護し、王権や反ワフド勢力は、英軍駐留の恒常化や有事再進駐条項を理由に「不徹底な独立」と批判しました。都市部では、運河地帯の基地経済が雇用を生む一方、駐留軍との摩擦や社会問題も生みました。大学や官僚、青年組織では、完全撤退を求める声が根強く、軍内部でも民族主義と職業的自尊心の高まりが観察されます。
第二次世界大戦期、エジプトは公式には中立を宣言しつつ、英軍の前線基地・補給路として機能しました。北アフリカ戦線の圧力の中で、カイロやアレクサンドリアは軍政と民政のはざまで混乱し、王宮—内閣—英大使館の三角関係は緊張を繰り返します。条約の有事条項は英軍の権限を裏づけましたが、同時に戦後の反英感情を増幅させる要因にもなりました。
再交渉、破棄、そして撤退へ:1940年代〜1954年
戦後、民族自決の潮流と地域ナショナリズムの高まりを受けて、英埃条約の再交渉が本格化しました。1946年以降、英軍撤退のタイムテーブル、基地の共同管理、スーダンの地位などが議題となりましたが、冷戦の始まりと中東戦略の見直しは英側の譲歩を鈍らせました。エジプト国内では抗議運動が頻発し、治安の緊張が高まります。
1951年、ワフド党内閣は条約の一方的破棄を宣言し、英軍基地への圧力が強まりました。1952年1月の「黒い土曜日」と呼ばれる暴動、同年7月の自由将校団によるクーデタ(王制廃止への道)を経て、政権は若手将校の手に渡ります。1954年、英埃は最終協定に達し、スエズ運河地帯からの英軍全面撤退と基地のエジプト移管が取り決められ、1956年までに撤退が完了しました。同年、エジプト政府はスエズ運河会社の国有化を実施し、スエズ危機へと発展しますが、これは英埃関係がもはや旧来の保護—従属構造に戻らないことを示す象徴的事件でした。
条約の意味合いと評価のポイント:中間的主権の制度化と残された火種
英埃条約は、完全な独立でも完全な従属でもない「中間的主権」の制度化でした。スエズ運河という世界戦略の中核をめぐり、英側は防衛の最小要件を確保し、エジプト側は国際社会での地位向上と内政の自律拡大を得ました。並行して進んだ治外法権撤廃と国際連盟加盟は、法と外交の面で主権を可視化しましたが、スーダン問題と駐留軍の存在は、国家尊厳の視点から絶えず批判の的でした。
後世の評価では、短期的には安定と近代国家化の加速に寄与した点(軍の整備、司法の統一、国際関係の多角化)が指摘される一方、長期的には反英ナショナリズムの蓄積と急進化を招いた面も否定できません。とりわけ若手将校団の台頭や、1951年以降の武力衝突、1956年の危機は、条約で繕われた「妥協の均衡」が冷戦と地域情勢のなかで維持不能になったことを物語ります。英埃条約を理解するには、条文の文言だけでなく、占領の遺制を段階的に解体する「移行のデザイン」と、その弾力性の限界を見る視点が大切です。
英埃条約は、エジプトにとって国家建設の通過儀礼でした。行政・軍事・司法の再編が進み、エリートと大衆の政治参加が拡大する土壌が整いましたが、同時に「完全な主権回復」という到達点が鮮明になり、次の段階への推進力ともなりました。占領から独立へと向かう多くの地域で見られる「暫定的合意」の典型例として、英埃条約は今も比較史の重要な参照軸となっています。

