エジプトの保護国化(イギリス) – 世界史用語集

「エジプトの保護国化(イギリス)」とは、1882年の英軍占領を起点に、第一次世界大戦中の1914年にイギリスが正式に保護国を宣言し、1922年の名目的独立に至るまで継続した政治体制を指します。言い換えると、エジプトはオスマン帝国の名義上の一州から、イギリスの強い監督下に置かれる「事実上の保護国」を経て、戦時に「形式的な保護国」とされ、その後もしばらくイギリスの影響力が残り続けたという流れです。背景には、スエズ運河の戦略的重要性、財政破綻に伴う欧州列強の介入、そしてウラービー革命に代表される国内政治の動揺がありました。概要としては、1882年以降のイギリスの軍事・財政・外交面での支配は、王侯名門と都市エリート、農村の租税負担、民族運動の台頭など社会の広い領域に影響し、1919年の大規模な独立運動を経て、1922年に王国としての独立が宣言されるまで続いた、ということです。

この過程で重要なのは、(1)1870年代の債務危機と「二頭政治(デュアル・コントロール)」による財政監督、(2)1882年のウラービー革命鎮圧と英軍恒久駐留、(3)1906年ディンシュワーイ事件に象徴される植民地支配の緊張、(4)1914年の保護国宣言と王侯位の改編、(5)1919年革命と1922年独立・ただし「四保留事項」による主権制限、(6)1936年英埃条約と駐兵・通信・スーダン問題の継続、という一連の節目です。以下では、これらを時代順に整理し、制度・外交・社会の各面からわかりやすく説明します。

スポンサーリンク

背景と発端――スエズ運河、債務危機、そしてウラービー革命

19世紀後半のエジプトは、ムハンマド・アリー政権以来の近代化と綿花景気に支えられ、鉄道・灌漑・軍備・教育投資を広げていました。しかし、イスマーイール総督(のちの総督位からの格上げで「侯」=ヘディーヴ)期に事業が過大化し、1870年代には巨額の対外債務を抱えます。世界綿花市況の変動も逆風となり、1876年には公債委員会(カイス・ド・ラ・デット・ピュブリク)による国際的な財政管理が導入され、イギリスとフランスが財政監督を分担する「二頭政治(デュアル・コントロール)」体制が整いました。この段階で、エジプトの財政主権はすでに大きく制限されていたのです。

イギリスにとって最大の関心は、1869年に開通したスエズ運河の安全確保でした。運河はインド・極東と本国を最短で結ぶ生命線であり、ここを握ることは世界政策の中枢に直結しました。1875年にディズレーリ内閣は、財政難のエジプト政府が保有していたスエズ運河会社の株式を買収し、影響力を飛躍的に高めます。以後、イギリスは財政・外交・治安の各面でエジプトへの関与を強め、フランスとの協調と角逐を繰り返しました。

国内では、軍人・官僚・知識人・都市住民の不満が重なり、1881年にアフマド・ウラービーを中心とする将校反乱が発生します。スローガンは「エジプトはエジプト人のもの」で、宮廷・欧州資本・高官支配に対抗する民族主義・立憲主義の潮流でした。翌1882年、アレクサンドリア暴動を口実にイギリスは軍事介入を決め、テル・エル=ケビールの戦いでウラービー派を撃破してカイロを制圧します。こうして、イギリスの「一時的介入」は、事実上の恒久駐留へと変質しました。

1882〜1914年――「事実上の保護国」とロイド・クローマーの統治

英軍の占領後、エジプトは名目上オスマン帝国の一部で、エジプト侯(ヘディーヴ)による統治が続きましたが、実権はイギリス総領事(後に高等弁務官)に握られました。なかでも長期にわたり実務を指揮したのがエヴリン・ベアリング、通称ロイド・クローマーです。彼は財政規律の徹底、綿花輸出の拡大、灌漑事業の整備、司法制度の整理(混合法廷の運用)などを推進しました。表向きは「近代化と秩序の回復」でしたが、同時に徴税強化と政治的抑圧、自治の抑え込みも進みました。

イギリスは官僚機構の中枢ポストに自国人顧問を配置し、地方行政・司法・教育にも深く介入しました。治安面では警察・軍の再編を行い、通信・鉄道・郵便・電信などのインフラを運河防衛の観点から優先整備します。スーダン方面では、マフディー運動に対する作戦を契機に英埃連合の軍事関与が拡大し、1899年には「英埃スーダン(スーダン二重統治)」体制が成立します。これは、エジプトの名を冠しながら、実質的にはイギリスが主導権を握る構造でした。

支配の緊張を象徴する出来事として、1906年のディンシュワーイ事件が挙げられます。演習中の英兵と村民の衝突をめぐる厳罰は、都市の知識人と農村の民意を結びつけ、民族運動を一段と活性化させました。新聞・クラブ・結社を媒介に議会主義や国民権の議論が広まり、かつての宮廷派・大地主中心の政治空間に新しいアクターが登場します。イギリスは行政・司法を通じて反対勢力を統制しましたが、もはや「秩序」と「進歩」の名目では抑えきれない潮流が生まれていました。

この時期の統治は、財政健全化と輸出収益の拡大という点では目立った成果をあげた一方、農民の負担増と社会格差の固定化、政治参加の遅れを招きました。都市化と教育拡大は民族主義の担い手を増やし、宗教・世俗の双方から「エジプトのための政治」を求める声が高まっていきます。

1914〜1922年――保護国の正式化と戦時体制、王国独立への道

1914年、第一次世界大戦が勃発し、同年11月にオスマン帝国が中央同盟側で参戦すると、イギリスはエジプトをオスマン宗主権から切り離すため、正式に保護国を宣言しました。これに伴い、在位中のアッバース・ヒルミ2世(エジプト侯)は廃位され、従弟のフアードが「スルターン(王侯)」として擁立されます。イギリスは高等弁務官府を通じて外政・軍事・通信を直接掌握し、運河地帯には強力な防衛体制が敷かれました。徴発・物資統制・検閲などの戦時統治は、社会に広範な影響を与えます。

戦時中も民族運動は沈静化せず、戦後のパリ講和会議に代表団を送って独立承認を求める動きが強まります。サアド・ザグルール率いるワフド党は、英当局の妨害と逮捕に抗議して1919年に全国規模のストライキと示威行動を組織し、農村・都市・コプトとムスリムの各共同体を横断する広い連帯を生み出しました。これがいわゆる「1919年革命」です。鉄道・通信の麻痺、行政の停滞は、イギリスにとって支配コストと国際的批判の高まりを意味しました。

英政府は情勢を受け、1922年に一方的宣言の形式でエジプトの独立を認め、国号は「エジプト王国」となり、フアードは「国王(キング)」に即位します。ただし、同宣言には「四保留事項(Four Reserved Points)」が付されました。すなわち(1)スエズ運河の防衛、(2)エジプトの対外関係・在外権益の保護、(3)帝国通信の安全、(4)スーダンの地位、の4点については、引き続きイギリスの裁量・同意を要するという制限です。これにより、形式上は独立しても、主権の中核はイギリスの影響下に置かれ続けました。

1922年以後――条約・駐兵・スーダン問題、そして撤兵へ

独立後も、エジプト政治は王権・ワフド党・英当局・宮廷官僚・大土地所有者の力学が錯綜し、頻繁な内閣交代と憲法改正に揺れました。イギリスは通信・軍事・外交に関する「保留事項」をてこに影響力を保持し、王宮政治もまたしばしば英当局と歩調を合わせて議会勢力を牽制しました。スーダンについては、1899年以来の英埃共同統治の枠組みが維持され、総司令官(スーダン総監=サーダール)を通じてイギリスが実権を確保します。

1936年、エチオピア危機や欧州情勢の緊迫を背景に、イギリスとエジプトは英埃条約を締結しました。これは、スエズ運河地帯への英軍駐留(最大1万人と補助要員の常駐)、軍事訓練・装備協力の枠組み、外交上の対等化などを定め、若干の主権回復をもたらしました。一方で、運河と通信の権益、防衛上の優先権は堅持され、実質的な軍事プレゼンスは継続します。第二次世界大戦期には、エジプトは北アフリカ戦線の戦略的拠点となり、英軍の兵站基地として機能しました。

戦後、民族主義と社会改革の要請は高まり、政軍関係も緊張します。1952年、自由将校団による革命が勃発し、ファールーク王は退位・国外退去となりました。新政権は旧来の政治・経済秩序の刷新と対英交渉の抜本的解決を掲げ、1954年の英埃協定で運河地帯からの段階的撤兵が合意され、1956年には英軍が完全撤退します。同年、ナセル政権はスエズ運河の国有化を宣言し、英仏イスラエルの武力介入(第二次中東戦争、スエズ危機)を招きますが、国際圧力の下で撤兵が実現し、エジプトの主権は大きく前進しました。ここに至って、19世紀末以来の「保護国化」の枠組みは、ようやく歴史的に閉じられました。

制度・社会の側面――財政統治、法制度、メディア、社会運動

イギリスの保護国化の核心は、軍事だけでなく財政・司法・行政の制度にまで及ぶ包括的支配でした。財政面では、債務返済と投資優先の配分が続き、国家独占や関税政策は列強との条約(治外法権・関税自主権の制限)に縛られました。司法面では、外国人利害に配慮した混合法廷が維持され、刑罰と警察行政は反体制活動の抑制に活用されました。教育では、官僚養成と技術教育は進んだものの、カリキュラムや言語政策をめぐって民族文化の位置づけが論争となりました。

メディアと世論の領域では、新聞・雑誌・サロン・クラブが政治討議の公共空間となり、詩人や弁護士、宗教指導者、ジャーナリストらが独立の理念を広めました。宗教と世俗、アラブ主義とエジプト主義、立憲と強い執政の最適な関係をめぐって多様な立場が争われ、議会・王権・英当局の三角関係のもとで政治文化が形成されます。ディンシュワーイ事件、1919年の全国蜂起、検閲とデモの反復は、都市と農村、エリートと大衆を結ぶ政治経験の蓄積を生みました。

経済・社会の基層では、綿花輸出に依存した農業構造が持続し、用水・堤防・灌漑の整備は進みつつも、小作や零細農民の脆弱性は解消されませんでした。土地所有の集中は政治的影響力の集中と結びつき、議会政治の偏りを生みました。これに対して、労働運動・学生運動・女性運動など、社会運動の多様化が進み、国民国家の担い手が少しずつ広がっていきました。

総じて、エジプトの保護国化は、対外的にはスエズ運河と帝国交通の安全保障を最優先するイギリスの世界戦略の所産であり、国内的には財政再建・官僚化・インフラ整備を伴う「管理された近代化」を推し進めたプロセスでした。その一方で、主権の制限と政治参加の抑制が長期にわたり社会的緊張を蓄積し、1919年革命から1950年代の革命に至る流れを準備したのです。保護国化は単なる外交上のラベルではなく、制度・経済・世論・文化を横断する複合的な支配と抵抗の時代を意味していました。