「円明園(えんめいえん、Yuanmingyuan)」は、清朝の皇帝が北京西北郊に営んだ離宮庭園群で、政治・文化・美術の中心機能を兼ね備えた巨大な宮苑です。康熙・雍正・乾隆の三代で拡張され、湖沼と築山を生かした中国庭園群に、ローマ風の石造建築(俗称「西洋楼」)を点在させた独特の景観で知られます。1860年のアロー戦争(第二次アヘン戦争)末期に英仏連合軍の略奪・放火で壊滅的打撃を受け、1900年前後の混乱でも破壊が重なりました。今日残る石柱や噴水の残骸は、帝国主義時代の屈辱と文化財流出の象徴として記憶される一方、造園史・建築史の貴重な遺跡でもあります。円明園は、一般的な「離宮」像を超えて、皇帝の日常政務・書画収蔵・学術活動・祭礼・接待を担った「もうひとつの宮城」でした。以下では、成立と機能、造園と建築の特徴、破壊と略奪の経緯、記憶と保存の問題、名称の混同を避けるための注意点を、なるべく平易に整理して解説します。
成立と機能――「もうひとつの宮城」としての離宮
円明園は北京城の西北、現在の海淀区に位置し、紫禁城からは西へ十数キロの距離にあります。17世紀末の康熙帝期に基盤が整い、雍正帝が本格的に離宮として整備、乾隆帝が完成度を高めて壮大な園林ネットワークを築きました。円明園は実は単一の庭ではなく、中心の「円明園」に、北側の「長春園(ちょうしゅんえん)」、西側の「綺春園(きしゅんえん、または万春園)」を加えた三つの庭園の総称です。各園は水路と堤、回廊で結ばれ、舟での移動も考慮されていました。
機能面では、単なる遊興地ではありませんでした。皇帝は夏の酷暑期や政務の節目に円明園に移り、上奏の閲覧や臣下の謁見、宴会・祭礼・詩会・画論などを行いました。乾隆帝はここを文化政治の舞台として重視し、書画・古器物の収蔵と鑑定、詩文の撰述、図書の編集事業(『四庫全書』編纂は紫禁城・円明園・承徳避暑山荘など複数拠点で進行)にも深く関わりました。すなわち円明園は、清朝の帝国理念(満漢文化の統合、天下の諸文化の蒐集と再編)を象った「モデル空間」だったのです。
園内は、政治儀礼を行う宮殿区、湖沼や島嶼をめぐる遊覧区、詩画の題材に合わせて景観を再現した「借景」・「模景」区などに分かれ、実景と仮想景が重ね合わされていました。江南水郷の風景、名山大川の縮景、さらには伝説・典故に由来する名勝が、庭園デザインの言語として配置され、「観る・歩く・詠む・学ぶ」が一体化した空間構成になっていました。
造園と建築――中国園林の総合芸術と「西洋楼」の挿入
円明園の造園は、湖沼の開鑿と水利の統合から始まります。自然の地形に人工の水路を通し、堤と橋で視線と動線を制御しながら、島・汀・湾入を組み合わせて、遠近と陰影を演出しました。築山(人工の丘)は、岩の積み方(叠石)の妙と樹木の配植で、四時の変化を感じさせる多層の風景を作ります。回廊は屋根付きで雨や日差しを避けつつ、枠取りされた風景(框景)を連続させ、歩く速度と視点の高さで景色が次々と変わるよう工夫されました。これらは中国園林の王道的技法ですが、円明園では規模と密度が桁違いでした。
建築は、木造・瓦葺の殿舎や亭台楼閣が中心で、彩画や彫刻、匾額・対聯の書が空間の意味を規定します。さらに乾隆期には、ヨーロッパ伝来の透視図法や遠近表現が取り入れられ、壁画・屏風・庭の配置に新奇の効果を生んでいます。これに関わったのが、宣教師系の西洋人画家・技術者たちで、代表的には郎世寧(ジュゼッペ・カスティリオーネ)らが知られます。彼らは写実的な人物画・動物画、機械仕掛けの噴泉や水時計の設計などで宮廷に貢献しました。
園内北東部の一画に造営された石造建築群が、俗に「西洋楼(西洋式楼閣)」と呼ばれる区域です。ローマ風の円柱・ペディメント・彫像を備えたファサード、幾何学的な噴水庭園、十二支像の吐水で時を告げる仕掛け(いわゆる「水力時計」)などが配置され、木造主体の中国庭園の中に強い対照を成しました。ただし「西洋風」といっても、純粋な模倣ではなく、中国的な軸線と囲いの概念に合わせて再編集された折衷デザインでした。西洋楼は、乾隆帝の「万国の美を取り合わせる」審美と、帝国が世界を包摂するという象徴政治の演出でもありました。
景観の命名と記録も重要です。円明園には多数の景区があり、「円明園四十景」などの画帖・詩文が残され、皇帝自らが題詠・題記を与えています。これは単なるカタログではなく、空間の意味づけ(文脈化)の作業でした。絵と詩と建築が相互に参照しあうことで、庭園は「読む」場所でもあったのです。
破壊と略奪――1860年の焼失とその後
円明園の名を世界史に刻んだのが、1860年の英仏連合軍による破壊です。第二次アヘン戦争の終局段階、交渉団の拘束・虐待事件への報復として、英仏軍は円明園に侵入し、貴重な文物・書画・器物・時計・磁器・金銀器を大量に接収・持ち去ったのち、広範囲に放火しました。木造建築はほぼ焼失し、石造部分や基壇・地盤だけが残りました。これにより、円明園は物理的だけでなく、皇帝権威の象徴空間としても致命的な損傷を被りました。
破壊は一度で終わらず、1900年前後の義和団戦争(北清事変)の混乱期にもさらなる掠奪・破壊・素材の持ち去りが続きました。清末・民国期には、周辺住民や業者による瓦・材木・石材の再利用もあり、遺跡は風雨と人為によって縮減していきます。こうして、今日われわれが見る円明園の「廃墟」の風景は、単発の事件よりも長期的な劣化と解体の累積の結果だと理解すべきです。
この過程で流出した文物は、ヨーロッパを中心に各地の博物館・個人コレクションに散在し、時計・自動仕掛け・磁器・絵画・テキスタイルなどが今日も海外で所蔵・展示されています。特に西洋楼の噴水に配された十二支像(ブロンズの頭部像)は、20世紀末以降の文化財返還論争の象徴的アイテムとなり、一部は寄贈・返還・買戻しなどの経路で中国側に戻っています。ただし、個別の来歴は複雑で、所有権・国際法・市場の問題が絡むため、簡単に結論づけられるものではありません。
記憶と保存――遺跡公園、学術調査、復原をめぐる論点
20世紀後半以降、円明園は遺跡公園として整備が進み、発掘・測量・文献校合による学術調査が重ねられてきました。地中に残る基壇や暗渠、護岸、植栽痕、瓦当・金具などの出土資料は、失われた建築と庭の配置を復原(再構)する手がかりを提供します。歴代の画帖・地図、宮廷档案(档案=公文書)と照合する作業が並行して進み、景区の名称と位置、動線の推定が精密化されています。
保存方針をめぐっては、二つの立場がしばしば対立します。一つは、徹底的な復原・再建を行い、往時の景観を可能な限り再現して教育・観光資源とすべきだという立場です。もう一つは、破壊の歴史そのものが記憶遺産であり、廃墟性を保存しつつ、遺構の露出・保護・説明を充実させるべきだという立場です。現状では、限定的な復元(橋や回廊の一部、園路、植栽)と、遺構の保存を組み合わせる折衷案がとられることが多く、来園者に対しては模型・AR・解説板・デジタル再現映像などで「失われた空間の読み方」を提供する工夫が進んでいます。
円明園の記憶は、中国近現代のナショナル・アイデンティティとも強く結びついています。教科書や博物館展示では、円明園の焼失は「国辱(国家的屈辱)」の象徴として提示され、対外関係の歴史を語るうえで反復されます。同時に、学術研究は、円明園を単なる被害の記憶に閉じず、清代宮廷文化の創造性、異文化受容の実験性、庭園技術の総合性をもつ負の遺産兼正の遺産として読み直そうとしています。つまり、円明園は「破壊された宝物」であると同時に、「かつて世界の美と技術が濃縮された実験都市」でもあったのです。
現在の園地は、湖と湿地の生態の回復、植栽の復元、風致の保護といった環境課題とも接続しています。都市化が進む北京において、歴史庭園の水系を維持することは、景観資源であると同時に、都市の生態系サービスの観点からも重要になってきました。水量管理と遺構保存の両立、来園者の動線計画と脆弱な地表の保護など、保存実務は多部門協働を要する課題になっています。
名称・位置関係と混同の注意――頤和園との違い、三園の構成
しばしば混同されるのが「円明園」と「頤和園(いわえん、英名 Summer Palace)」です。両者は北京西北部に位置し、清代皇室の離宮という点で似ていますが、別個の施設です。頤和園は主として乾隆期に拡張され、19世紀末の修復を経て、今日でも大規模な宮殿・仏香閣・長廊・昆明湖の景観が良好に残っています。これに対し円明園は、1860年の焼失で主要建築を失い、現存するのは基壇と石造残欠、地形・水系・一部の構造物に限られます。観光情報や写真資料では、頤和園の壮麗な建物が円明園の再現と誤解されることがあるため、名称の区別に注意が必要です。
また、円明園という語が三園の総称であることも押さえておきたい点です。中心の「円明園」は皇帝の主要活動拠点としての宮殿区を含み、「長春園」は比較的静謐な景観構成と文雅な亭台、「綺春園(万春園)」は広い水面と大スケールの景観を特徴としていました。西洋楼は長春園の一角に位置し、石造遺構が視覚的に象徴度を高めているため、円明園全体=石柱の庭という印象が広まりがちですが、実際には木造庭園建築の比重が圧倒的でした。
地理的には、円明園の東側に清華園(現・清華大学)が近接し、南東には北京大学(旧・燕京大学)キャンパスが広がります。この配置は、清末・民国期に宮苑・王府の土地が教育機関へ転用され、北京西北郊が学術地区へと変容していった歴史の延長線上にあります。園林から学園への地層の重なりは、都市史の視点でも興味深い変化です。
まとめの位置づけ
円明園は、清朝の国家理念と美意識が結晶した巨大な文化装置でした。湖と築山、木造殿舎と回廊、詩画と儀礼、西洋技術と中国園林が互いに呼応して、政治・文化・遊興を横断する宮廷都市を形成していました。1860年の焼失とその後の劣化は、帝国主義時代の暴力と近代国家の脆弱さを刻印し、今日に至るまで文化財返還や記憶の政治の焦点であり続けます。他方で、遺跡は造園技術・建築史・文献学・都市生態など多分野の研究にとって宝庫であり、廃墟性の保存と限定的復元、来歴研究と国際協力という重層的課題を私たちに突きつけます。円明園を理解する最短の道は、悲劇の記憶だけでなく、その前に存在した豊饒な空間言語と制度の総合性にも目を向けることです。そうすることで、円明園は「焼かれた庭」から、「かつて世界の美と知が交わった場」へと立体的に立ち上がって見えてきます。

