円明園の破壊 – 世界史用語集

「円明園の破壊」とは、清朝の離宮庭園であった円明園(北京西北郊)が、第二次アヘン戦争(いわゆるアロー戦争)の最終局面で英仏連合軍によって大規模な略奪と放火にさらされ、1860年に壊滅的被害を受けた出来事を中心に、その後の劣化・再破壊・文化財流出を含む長期的な破壊の過程を指す用語です。事件は、単なる「一度の焼き討ち」ではありませんでした。外交交渉の破綻と報復、軍事作戦の論理、象徴空間への見せしめ、そして近代国際関係の力学が重なって起きた暴力であり、さらに1900年前後の混乱や住民による資材再利用などが累積して、今日の「廃墟」としての姿が形作られました。本稿では、破壊の背景、略奪と放火の実際、その後の流出と記憶の政治、保存と復原をめぐる論点を、なるべく分かりやすく整理します。

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発端と背景――交渉の破綻、報復、作戦目標の選定

円明園の破壊の直接の契機は、1860年秋、清朝と英仏連合軍の講和交渉が緊迫する中で発生した拘束・虐待事件でした。北京・通州近郊での交渉に向かった英国外交官や通訳、護衛らが清側に拘束され、一部が獄死・処刑に至ったと伝えられます。これに対し、連合軍の最高責任者であるエルギン卿(第二代エルギン伯ジェームズ・ブルース)は、報復と威嚇の手段として、皇帝の私的離宮に当たる円明園の破壊を決断しました。紫禁城は国政の中心であり、破壊すれば統治秩序そのものを崩しかねないという判断から、標的は「国家の顔」ではなく「皇帝の別荘」に置き換えられたのです。

作戦上、円明園は軍の野営・物資補給・収奪の対象としても現実的でした。広い敷地に物資が集積され、建物は木造主体で延焼しやすく、周辺は軍の行動に適した平地が広がっていました。政治的には、皇帝権威の象徴空間を狙うことで清朝に強い心理的衝撃を与え、講和条約の受け入れを迫る狙いがありました。つまり、報復・軍略・象徴政治が一本に束ねられた標的選定だったのです。

背景として、第二次アヘン戦争そのものが、通商拡大・外交常駐・使節の北京駐在・キリスト教布教の自由などをめぐる条約要求の衝突であったことも重要です。1858年の天津条約は締結されたものの、批准交換や北京入城をめぐって対立が再燃し、1860年には連合軍が北上して八里橋の戦いに勝利、北京近郊に迫っていました。この緊張の中で交渉が破綻し、激しい報復措置が選ばれたのです。

略奪と放火の実際――何が、どのように失われたのか

円明園は、中心の「円明園」に加えて「長春園」「綺春園(万春園)」の三園からなる巨大な庭園群でした。侵入後、軍人・従者・案内人・一部の住民らが混在する形で、殿舎・庫房・画庫・宝蔵が次々に開け放たれ、書画・器物・茶器・時計・自動人形・織物・玉器・磁器・仏教法具・図書が接収・持ち去られました。宮廷の収蔵は、単なる美術骨董の寄せ集めではありません。詩文の典拠に基づく題跋や、儀礼・音楽・学術事業(たとえば『四庫全書』関連)の成果を背負ったコレクションであり、学術的文脈ごと剥奪されたのが実態でした。

略奪の後に放火が実行され、延焼は数日にわたって続いたとされます。木造建築は瞬く間に焼け落ち、瓦屋根は崩落、梁・柱・彩画・屏風・回廊・庭門が次々に灰燼に帰しました。焼け残ったのは石造の基壇や護岸、庭園の土木的骨格、そして一部の石造建築(西洋楼のファサード)だけでした。水路や湖沼の護岸、築山の石組み、橋台などは姿を留めたものの、庭園を生かす建築と植栽という「生命」は失われました。

この破壊は、単に物理的な消失にとどまりません。円明園は皇帝の日常政務・接見・宴会・詩画・書庫・工房・宗教儀礼といった多機能を持つ「もう一つの宮城」でしたから、そこに蓄積された制度的知識や技術の連続性も断たれました。たとえば、儀礼音楽の楽器と譜、宮廷絵画の下絵や型紙、工房の道具や配合表といった、今なら「文化財のバックエンド」と呼ぶべき資料の多くが焼失・散逸しました。

長い破壊の時間――再掠奪、資材化、文化財の流出と回帰

1860年の焼失は破壊のピークでしたが、破壊それ自体はそこで完結していません。清末から民国初年にかけて、円明園跡は資材の供給源と見なされ、瓦・木材・石材の持ち去りが続きました。1900年前後の義和団戦争(北清事変)期の混乱では、外国軍や野盗、住民らが再び遺構を荒らし、残存する装飾や金物が剥ぎ取られました。自然の風雨も合わさって、遺跡はさらに痩せていきます。

同時に、1860年に流出した文物は、欧州を中心に各地の博物館・個人コレクションに分散しました。時計、自動仕掛け、磁器、彫刻、絵画、テキスタイル、仏典や漢籍まで、多彩なカテゴリーが含まれます。なかでも長春園の西洋楼前に配された青銅の十二支像(噴水の吐水像)は、20世紀末以降、返還・寄贈・買戻しの動きが相次ぎ、文化財返還問題の象徴となりました。もっとも、個々の品について所有権・来歴(プロヴェナンス)・取引の合法性は事案ごとに異なり、単純に善悪で裁断できない複雑さを抱えています。

この「長い破壊」は、精神史的にも重い意味を持ちました。円明園の焼失は、清末から中華民国、さらには中華人民共和国の時代に至るまで、「国辱(国家的屈辱)」の象徴として何度も語られ、近代中国のナショナル・アイデンティティに深く刻まれました。同時に、近年の研究は、円明園が単なる被害の記憶にとどまらず、清代宮廷文化の創造性と異文化受容の実験性を示す場であったことを再評価し、破壊の語りと創造の語りをどう両立させるかという課題を提示しています。

保存と復原をめぐる論点――廃墟を残すか、景観を再生するか

20世紀後半から円明園は遺跡公園として段階的に整備され、発掘・測量・文献校合・古写真の解析によって、景観と建築の復原研究が進みました。地中の基壇・暗渠・護岸、瓦当・釘・金具、植栽痕などのデータは、失われた空間の輪郭を復元する手がかりを与えます。画帖(「円明園四十景」など)や宮廷档案との照合により、景区の位置関係や動線、視線の操作、命名の由来が明らかになってきました。

保存方針には、大きく二つの立場が存在します。第一は「可能な限り復原」派で、往時の殿舎や橋、回廊、植栽を再現し、教育・観光資源として活かすべきだと主張します。第二は「廃墟を保存」派で、焼失と略奪の歴史そのものが記憶すべき遺産であり、過度な再現は歴史の抹消につながると警告します。現実の運用は両者の折衷で、基壇や石造遺構は保護しつつ、園路の整備や限定的な復元、模型・CG・ARを使った解説で「不可視の空間」を補う試みが進んでいます。さらに、湖沼・湿地の生態回復や水系管理、遺構の風化対策、観光圧のコントロールなど、文化財と都市生態を両立させる課題も重要です。

記憶の継承の面では、展示や教材で「破壊の現場」を具体的に理解できるよう、当時の行軍ルート、放火の範囲、流出品の行方、回収・返還の事例、被害後の復旧努力を系統的に示す工夫が求められます。単に「焼かれた」という断片情報では、なぜ標的になり、何が失われ、どのように語り継がれてきたのかが伝わりにくいからです。円明園の破壊を学ぶことは、19世紀帝国主義の現実や戦争と文化財の関係、そして記憶と政治の関係を立体的に捉える入口になります。