外国公使の北京駐在とは、清末の条約体制下で欧米・日本など列強の外交代表が北京に常駐し、公使館(のち大使館)を置いた制度と実態を指します。1858年の天津条約と1860年の北京条約を契機に常駐が制度化され、翌1861年には清政府に外交実務機関として総理各国事務衙門(総理衙門)が設けられました。これにより、従来の朝貢秩序を前提とした臨時使節の往来から、国際法上の恒常的公館・治外法権・条約交渉・通商問題の恒常協議へと枠組みが転換しました。北京の東交民巷一帯には列国の公使館区(Legation Quarter)が整備され、警備・居住・宗教・学校・銀行・郵便などの都市機能が並び、1900年の義和団事件では籠城戦の舞台にもなりました。公使の駐在は、清朝の外交様式を大きく変えただけでなく、都市空間・警備体制・情報流通・法と慣習のあり方を長く規定した出来事でした。
前史と背景—朝貢秩序・叩頭問題・臨時使節からの転換
清朝は長らく朝貢・冊封を軸とする対外関係を運用し、外国君主の常駐使節を都に置くヨーロッパ式の近代外交とは相容れない枠組みを保ってきました。北京入城の礼儀をめぐる「叩頭(コウタウ)問題」は象徴的で、1793年の英使マカートニー使節や1816年のアマースト使節は、皇帝への叩頭礼に応じず不調に終わっています。対外交易は広東の公行による「広州体制」に大きく依存し、北京での恒常的交渉窓口は存在しませんでした。
しかし19世紀半ば、アヘン戦争(1840年代)と第二次アヘン戦争(1856〜60)を経て、清は関税・領事裁判権・通商港の拡大・内地通商権などからなる条約体制の受け入れを余儀なくされます。とくに天津条約(1858)は、列国の北京駐在公使の受け入れ、外交往復の自由、宗教の保護などを規定し、1860年の北京条約でこれが最終的に確認されました。これにより、臨時使節ではなく常駐公使を相手とする日常外交が北京で始動することになります。
制度化と初期の運用—総理衙門の設置、公使館区の形成
1861年、咸豊帝没後の政変(辛酉政変)を経て実権を握った同治朝のもと、清政府は洋務派の主導で総理各国事務衙門(略称・総理衙門)を創設しました。ここは伝統的な礼部に代わって条約・外交・通商・領事案件を処理する実務官庁であり、漢・満の高官が列国公使と対等に交渉する場となりました。総理衙門は海関(税関)・同文館(語学教育機関)・電信・郵便と連携し、近代的外交・通信・統計の基盤を整えていきます。
公使の受け入れに合わせて、北京城内の東交民巷(とうこうみんこう)一帯が公使館区として整備されました。英・仏・露・米・独・日・伊・奥・ベルギー・スペインなどの公使館が相次いで建設・拡張され、礼拝堂・学校・病院・銀行・郵便・倉庫・倶楽部といった諸施設が集積します。各公使館は本国旗を掲げ、外壁・門衛・哨所・弾薬庫を備え、常勤の武装守備隊(海兵・陸戦隊)を置く例も増えました。これらは条約に基づく治外法権の下で運用され、中国官吏が公使館域内に立ち入るには外交上の手順が必要でした。
この頃の外交実務は、列国公使の連名覚書・抗議・照会と、総理衙門の答復・諭示・布達の往復で形づくられました。関税の運用、宣教師・キリスト教徒保護、度量衡や郵便、内地通商証券、浮図・教堂の建設、地方官による事件処理など、多岐にわたる案件が北京で常時協議されます。ときには列国公使が共同歩調をとって強く迫る「連合行動」も行われ、清側は個別交渉での切り崩しと均衡策を使い分けました。
公使館区の実像—治外法権・警備・都市社会
北京の公使館区は、外交・軍事・都市生活が重なり合う独特の空間でした。居留者は外交官・通訳官・書記・海兵・宣教師・商人・新聞記者など多岐にわたり、礼拝堂(英聖公会・仏カトリック・露正教など)や学校・クラブが日常生活を形づくりました。電信局・郵便局・銀行支店は、条約港と連動して資金・情報・人の流れを北京に引き込み、地方の事件が即日、外国本国と北京の間で照会される通信網が出来上がります。
治外法権の下、刑事・民事の管轄は本国領事裁判に委ねられ、公使館付警備隊が居留地内の秩序維持に当たりました。これはしばしば中国側の主権感覚と衝突し、地方官がキリスト教徒保護や宣教師事件の処理で北京の公使館と直接やり取りを強いられるなど、行政系統の二重化をもたらしました。他方で、公使館区は電灯・下水・衛生・道路整備の先進地区でもあり、都市近代化のモデルとして周辺へ波及的な効果も生みました。
危機の頂点—義和団事件と「北京議定書」
1900年、義和団運動が華北で拡大し、清朝の一部強硬派と結びついて対外強硬へ傾くと、北京の公使館区は直接の攻囲目標となりました。列国公使・家族・守備兵・宣教師・中国人キリスト教徒らは公使館区内に籠城し、約二か月に及ぶ包囲戦を耐えます。やがて連合軍が天津から北上して北京を占領し、1901年の辛丑条約(北京議定書)は、巨額の賠償・外国軍の北京—山海関間駐兵・公使館区の拡張と永久占有・清朝の軍備制限など、極めて厳しい条件を課しました。
この結果、公使館区は半ば独立した治外法権空間として再編され、高い壁と検問、列国の衛兵・兵営、弾薬庫・鉄条網・見張台が増設されました。正陽門・東交民巷周辺の警備は常態化し、清側は首都の中心部に主権の行使が及ばない地帯を抱え込むことになります。外交の窓口としての北京駐在は、同時に軍事的既成事実の装置でもあり、国内政治の緊張を長く引きずりました。
清末から中華民国へ—外交制度の内在化と継続
義和団の衝撃を受けて、清は官制・教育・司法・軍政の「新政」を進め、外交面では総理衙門を外務部へ改組(1901)し、列国と同形式の「外務省」体制を整えました。駐外公使・領事の整備、国際会議への参加、国際法の受容も進み、北京駐在の列国公使との協議は、より制度的な形を帯びます。1912年に中華民国が成立すると、各国公使は新政府に認証書を呈し、北京(のち南京—北京—南京)に引き続き常駐しました。呼称はしだいに「公使」から「大使」へ改まり、国際的慣例に沿った外交階級が採用されます。
条約改正の努力も続き、治外法権・関税自主権の回復が長期目標となりました。1920年代以降、個別条約の見直しや関税の再交渉が進み、満州事変以後の国際秩序の動揺と相まって、北京(北平)と南京の政権をめぐる承認問題・公使館の扱いは複雑化します。とはいえ、「外国公使(大使)が北京に常駐する」という枠組み自体は、政体の変遷を越えて継続し、中国の首都外交の基本形として固定化していきました。
都市空間と記憶—東交民巷の景観、宗教・教育・言論、そして社会
公使館区の存在は、北京の都市景観と記憶にも深い痕跡を残しました。東交民巷の街路には西洋式のレンガ造・石造建築、時計塔、アーケード、教会の尖塔、外壁と鉄門、番兵詰所が並び、電灯と街路樹が配されました。敷地内には公使官邸だけでなく、領事裁判所、郵便・電信局、銀行、クラブ、病院、学校が併設され、外交官子弟や在留者の教育が行われました。新聞社・特派員の常駐は、北京発の国際ニュースの流通を変え、政治事件の国際化を加速しました。
宗教面では、カトリック・プロテスタント・東方正教の礼拝堂や修道会が公使館区周辺に並び、医療・教育・慈善活動を通じた地域社会との接点が広がりました。他方で、住民との摩擦、犯罪と警備、差別や身分秩序に関わる緊張も生じ、公使館区が「都市の中の別世界」であったことは否めません。1901年以降の拡張・永久占有は、空間的分断をさらに強め、北京の近代記憶の中で両義的な評価を生みます。
総括的整理—枠組み・機能・長期的帰結
外国公使の北京駐在は、①条約による制度化(天津・北京条約)、②国内の行政装置の整備(総理衙門→外務部、同文館・海関・郵便・電信)、③都市空間の形成(東交民巷の公使館区と治外法権)、④危機時の軍事化(義和団事件と北京議定書)、⑤清末・民国における外交の常態化、という五層で理解できます。朝貢外交から常駐公館外交への転換は、儀礼と法、都市と軍事、宗教と教育を巻き込む全方位的な変化でした。北京という政治中枢に恒常的な外国の窓口が置かれたことで、地方の事件・通商の不均衡・宗教摩擦・軍事衝突の多くが首都で即時に政治化され、国内統治の課題と国際政治が直結する構造が生まれました。
この枠組みは、清朝の統治理念や都市の運営、さらには国際社会における中国像を長く規定しました。外交の専門化・職業化は確実に進み、通信と出版は速さと密度を増し、都市の衛生・インフラは段階的に更新されましたが、同時に、主権の限定・法域の分裂・警備の二重化は、政治の緊張を慢性化させました。外国公使の北京駐在は、このような相反する力を一身に集めた制度であり、その後の中国の外交・都市・法制度の展開を理解するうえで、避けて通れない起点になりました。

