汴州 – 世界史用語集

「汴州(べんしゅう/ビエンジョウ)」は、中国中部・河南の古都・開封を中心とする州級の行政単位の名称で、主として隋・唐から五代、北宋前期にかけて用いられた地名・官名です。のちに同地が王朝の首都「汴京(べんけい)」=開封府として知られるようになるため、汴州はしばしば「首都の前身・外郭」を指す歴史用語として登場します。汴州は黄河と運河(汴河)に支えられた交通の要衝であり、軍事・財政・物流の拠点として発展し、唐末の節度使の本拠、五代の諸王朝と北宋創業の舞台となりました。すなわち汴州とは、単なる地方行政単位にとどまらず、「中世中国の首都形成」を考えるうえで不可欠の基層概念なのです。

汴州を理解する近道は、①地理と水利、②行政区画としての変遷(州—府—路—京師)、③唐末—五代—北宋の政治史における役割、④都市社会・経済文化の実像、⑤黄河治水と都市の盛衰、の五点を押さえることです。以下では、まず定義と範囲を明確にし、続いて時代順に位置づけを整理し、最後に都市の内部構造と文化的側面を補います。

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定義と範囲:州名としての「汴」と都城名としての「汴京」

「汴」は本来、黄河南岸地域の古地名で、戦国・漢代の大梁(魏の都)周辺の平野と水系に重なります。隋唐の州県制では、開封一帯を「汴州」と称し、州治(州都)は開封城に置かれました。唐代、汴州は河南道に属し、周辺の県(開封県・浚儀県・封丘県など)を管轄して、黄河—汴河—通済渠の水運結節を担いました。唐末には節度使の駐鎮が置かれ、軍政・財政を一体で司る地方政権の中核となります。

一方、「汴京」は王朝がここを首都に定めたときの称で、とくに五代—北宋で広く用いられました。五代諸王朝(後梁・後唐・後晋・後漢・後周)はいずれも汴州=開封に都を置き、北宋も成立後にここを京師としました。京号としては「汴京」「大梁」「東京(北宋期に西京=洛陽と対置する場合)」などが併用され、行政上は「開封府」が首都管区を表す名称として整備されます。つまり、汴州(広域の州名)と汴京(首都名)、開封府(府としての官称)は、重なりながらも文脈により使い分けられる語です。

地理・水利と交通:黄河と汴河が形づくる都市基盤

汴州の強みは、黄河南岸の微高地に築かれた城郭と、運河網との密着にありました。唐代に大運河の一部として通済渠・汴河が整備されると、江南の租庸調物資・塩・茶・絹・木材が船団で北上し、汴州で荷揚げ・再配分されました。城内外に張り巡らされた掘割・水門・倉廩・榷塩・市易所は、官の税収と軍の兵站を直結させ、都市の膨張を後押しします。

しかし、この利便は同時に脆弱さを伴いました。黄河は度重なる決壊と河道変遷(改道)を繰り返し、汴州—開封一帯は氾濫の常襲地でもあります。堤防の維持、運河の浚渫、遊水地の確保、城壁・堀の補修は、州政・中央政の最優先課題でした。水が止まれば都は窒息し、水が溢れれば都は沈む——この二律背反が、汴州の歴史を通奏低音のように支配します。

唐末〜五代:節度使の都から王朝創業の舞台へ

唐の末期、中央の統制力が衰えると、各地に置かれた節度使が実質的な軍事・財政権を握るようになりました。汴州は「宣武軍」などの節度鎮が置かれ、泗・徐・宋・亳など華北平野の諸鎮の交通ハブを兼ね、兵糧と税を集中できる地の利を持っていました。朱全忠(後梁の太祖)は汴州を根拠に洛陽・長安を圧迫し、907年に唐を滅ぼして後梁を建て、汴州=大梁を都に定めます。以後、後唐・後晋・後漢・後周の各王朝も、軍事・物流の利便を評価して汴州に都を置きました。

五代の汴州は、軍事政権の首府として城郭の拡張・宮城の整備・官署の再編が繰り返され、同時に市場・職人・輸送業者が集住し、都市経済の厚みが増します。短命の王朝が交替するなかで、都のインフラと市井の習慣は連続性を保ち、「政権は変われど都市は回る」という現象が生まれました。この連続性が、のちの北宋の長期政権に引き継がれていきます。

北宋の成立と汴州:汴京・開封府への昇格と首都機能

960年、後周の禁軍将領・趙匡胤が陳橋で黄袍を着て即位(陳橋の変)し、宋を建てると、従来の首府汴州をそのまま首都(汴京)に据えました。制度上は、京城の行政単位として「開封府」を設置し、皇城(宮城)・内城・外城を重層的に整備、中央官庁(中書・門下・樞密・三司など)を配置します。こうして汴州は、州=地方単位の枠を超えて、京師=国家中枢の空間へと再定義されました。

北宋期の汴京(開封)は、人口百万規模の巨大都市に膨張し、運河による江南の物資吸い上げ(漕運)を基礎に、税・兵站・市場・文化が密に絡み合いました。唐の坊市制は実質的に解体され、瓦子(常設の見世物小屋)・夜市・茶楼・酒楼・医舗・書肆・質舗が街路沿いに連続し、都市の可視的な繁栄を演出します。『清明上河図』に描かれた舟運・橋梁・市井の雑踏は、この都市機能の凝縮した断面です。

汴州(汴京)は同時に軍事的脆弱性も抱えました。平地城であるゆえに天然の要害に乏しく、北方の契丹・女真の圧力が増すと、防衛線は城郭の外、遼・金との外交と辺境軍政の運用に依存しました。12世紀初頭、金の南下に伴って靖康の変(1127)が起こり、北宋は滅び、首都汴京は陥落。ここで「汴京」は首都としての地位を失い、都市は占領と再編を経て別位相へ移ります。

行政制度の変遷:州—府—路—京師の交錯

行政史の観点では、汴州の名称と官制は時代に応じて変動しました。唐では「州」が基本単位で、道(河南道)の下に置かれる地方官署でした。五代—北宋に至ると、首都機能を担うにあたり「開封府」が京兆府(長安)に相当する首府官として整えられ、周辺県の管轄とともに、中央官庁群の所在として二重の性格を帯びます。北宋の路制(路・府・州・軍の区分)では、京畿に相当する特別区分が設定され、開封府は国家の命脈(財政=三司、軍政=樞密)に直結しました。

金・元・明清期には、名称は開封路・汴梁路・開封府などと変わり、全国的な行省制・布政使司制の中に位置づけ直されます。とはいえ、「汴」の字は地名要素として残り続け、史書・碑文・文人の詩文に、かつての首都の記憶を呼び起こす符牒として刻まれました。近現代の行政では河南省の一都市としての開封市に継承され、考古・文化財・観光の場面で「汴州/汴梁/汴京」の語は文脈に応じて使い分けられています。

都市社会・経済文化:汴州に息づく市民世界

汴州の都市生活は、水運・市場・手工業・金融の連鎖で成立していました。漕運で届く租税米・絹・塩・茶を扱う官倉・榷場の周囲には、運送・倉庫・荷役・鑿舟・船大工・綱人などの職能が集積し、その外縁に商家・旅館・飲食・娯楽が帯状に拡がります。北宋中期には、交子に代表される信用手形・為替が広がり、相互扶助・保険的機能を持つ行会(ギルド)や作坊(工房)のネットワークが形成されました。

文化面では、科挙と出版が市民文化を底上げしました。書肆・貸本屋・版木工房が密集し、受験参考書・説話類・医書・技術書が大量流通します。瓦子では雑劇・散楽・幻術・相撲が演じられ、寺社の縁日や灯会は社会のリズムを刻みました。他方、治安と取締も強化され、夜禁・消防・巡検が制度化されます。都市の自由と統制の緊張は、汴州=汴京の常態でした。

宗教・民族の多様性も汴州の特色です。仏教寺院・道観に加え、イスラームのモスク、景教の痕跡、そして著名な「開封ユダヤ人」共同体が、異文化交流の深さを物語ります。胡商(中央アジア系商人)や色目人の活動は、香料・宝石・薬材の交易と金融を活性化させ、都市の国際性を演出しました。彼らの存在は、汴州が単に内陸の物流拠点ではなく、シルクロードの東端に連なる開放的都市だったことを示します。

黄河治水と盛衰:水が都を押し上げ、水が都を沈める

汴州—開封の盛衰は、黄河治水史と切り離せません。堤防の決壊は都市を直撃し、城内の水系は一夜にして脅威へと転じます。官は堤防の補修・河道の付け替え・堰の建設・遊水地の設定など総力を挙げますが、寒暑と洪水の周期、土砂の堆積、政治的混乱が重なると、災害は繰り返されました。明清期には黄河の「懸河」化(河床の上昇)が進み、治水は財政の重荷となります。水運の停滞は市場を冷やし、首都機能の喪失後の開封に長期の陰影を落としました。

それでもなお、汴州の都市としての粘り強さは注目に値します。洪水後には人々が戻り、市場が再開し、寺社が再建され、版木が彫り直されました。考古学的には、洪水層が都市の地層を形成し、当時の陶磁・瓦当・銭貨・木簡・建材が重層的に保存されています。発掘は、北宋城の街路・排水・井戸・住宅の構造を明らかにし、文献に描かれた汴州の実像を物理的に裏づけています。

名称・記憶・史料:用語法の注意点と見どころ

最後に、用語上の注意をまとめます。史料で「汴州」とある場合、それが地方行政単位としての州を指すのか、首都空間(汴京/開封府)の雅称として用いられているのかを、時代・文脈から見分ける必要があります。詩文では「汴都」「汴梁」「汴水」などの語が、懐古・興亡の感情を込めて用いられることが多く、厳密な行政用語とは限りません。逆に、官文書では「開封府」「東京」といった制度的呼称が好まれます。研究では、この語のブレを意識し、地図と年表を併用するのが安全です。

見どころとしては、唐末の節度使文書、五代の宮城復原、北宋の開封府図、『清明上河図』の都市空間読解、黄河治水碑、運河施設跡、開封ユダヤ人の碑記などが挙げられます。これらをつないで読むと、「汴州」という語の背後に、軍事と市場、水と都市、中心と周辺が交錯するダイナミックな歴史が立ち上がってきます。

総じて、汴州とは、黄河と運河の結節に成立した都市圏の行政名であり、唐末—五代—北宋という激動期に首都空間へと膨張した「可変的な器」でした。州名はやがて府名と京号に飲み込まれ、現代には歴史語として残りましたが、その実体は、交通と治水、軍政と財政、都市文化と国際交流が幾重にも重なった厚みのある現場です。地名の一語に、帝国の運営と市民の生活が凝縮されている——それが「汴州」という用語の面白さなのです。