カガン(可汗) – 世界史用語集

「カガン(可汗/Khagan, Qaghan)」は、テュルク系・モンゴル系の遊牧帝国で用いられた最高支配者の称号を指します。しばしば「カーン(Khan)」よりも上位の「帝王」格として理解され、諸部族のカーンや王を束ねる〈王の中の王〉というニュアンスを持ちます。東アジアの文献では「可汗(かがん)」と記され、突厥(とっけつ)碑文やモンゴル帝国の史料では qaɣan/qa’an と表記されます。匈奴・柔然・突厥・回鶻からモンゴル帝国、さらには清朝にいたるまで、草原世界の覇者が名乗り、正統性・軍事指揮・外交儀礼の頂点を示す称でした。本稿では、語の成り立ちと使用の広がり、遊牧帝国における政治秩序の中での位置づけ、周辺諸文明との外交関係、宗教的・文化的正統性の側面を、やさしい言葉で整理します。

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定義・語源・表記:カガンとカーンのちがい

カガンは、広域の連合体を統御する至上権者の称号です。英語史料では Khagan/Qaghan、突厥文(オルホン碑文)では 𐰴𐰍𐰣(qaγan)などと転写されます。中国史書では「可汗」と表記され、音写であると同時に官爵名のように扱われます。日本語では慣習的に「カガン」と読みますが、学術文献では「カハン」「ハガン」などの転写も見られます。

しばしば取り上げられるのが「カーン(qan/khan)」との関係です。カーンは部族連合や一地域の支配者を指す一般名で、複数のカーンの上に立って全体を束ねる地位が「カガン」と説明されます。モンゴル帝国では、チンギス・カンの後継に関して「qa’an(カアン)」という表記が用いられ、英語で Great Khan(大カーン)と訳されることがあります。突厥や回鶻では、東西に分かれた連合体の最高位にカガン、配下に「ヤブグ(yabghu)」「シャード(shad)」などが置かれ、称号の階梯が明確でした。

語源については諸説ありますが、テュルク語系における「qan/han」に強意の接頭・接尾的要素(q- ~ -γan)が付加された拡大型とみなす見解が有力です。重要なのは、言語学的形態の違い以上に、政治的序列における用法が歴史の中で確立していったことです。つまり、カガンは音の違いだけではなく、制度上の重みを帯びた称呼でした。

歴史的展開:匈奴・柔然・突厥・回鶻からモンゴル、清へ

最も早い段階では、前近代の北方草原に広がった匈奴(きょうど)の最高統治者「単于(ぜんう)」が、後世のカガン位に対応する役割を果たしました。漢字表記は異なりますが、超部族的な連合を率いる「一人者」という点で、のちの可汗位のモデルになりました。

5世紀ごろ、モンゴル系とされる柔然(じゅうぜん)が東アジアの草原を支配し、ここで「可汗」の称が定着したと考えられます。柔然連合の可汗は、婚姻・臣従・朝貢のネットワークを駆使して広域の秩序を築きましたが、やがて台頭した突厥に取って代わられます。

6~8世紀、テュルク系の突厥(古突厥)は中央ユーラシアの覇権を握り、東西二分の遊牧帝国を形成しました。突厥の政治秩序では、東方の「頡利発可汗」などカガン号を戴く最高権者の下に、配下のヤブグ、シャード、テギン(皇子)、タルカン(将軍・貴族)などの称号が並びました。オルホン碑文は、カガンの正統性を「天(テングリ)が与えた命」に求め、草原と山河の守護者としての役割を語っています。カガンは軍事遠征の総司令であると同時に、季節移動や牧地配分、交易と賦役の割り当てを調停する最高裁定者でもありました。

8~9世紀には、回鶻(ういぐる)可汗国が興ります。彼らは仏教・マニ教・景教など多様な宗教を受け入れ、都市商業とキャラバン交易に長けました。可汗号はここでも最高権を示す称であり、唐王朝との関係では婚姻外交と軍事援助を通じて「互市の保証者」として振る舞いました。

13世紀、モンゴル帝国はカガン号を世界帝国スケールに拡張しました。チンギス・カンの死後、帝国全体の最高位を継承する者が「qa’an(カアン)」と称され、グユク、モンケ、フビライらがこれに当たります。カガンはクリルタイ(部族会議)で選出・承認され、〈蒼き天(モンケ・テングリ)の威命〉を掲げました。広大なウルス(分領)を分配しつつ、全体の軍事と外交の最終決定権を握る存在で、駅伝制度(ヤム)や戸口調査、度量衡・紙幣(交鈔)の統一など、帝国運営の要所を掌握しました。フビライは中原支配に踏み込み、元朝の皇帝(皇帝位)とモンゴルのカガン位を兼ねることで、草原と農耕世界の二重の正統性を体現しました。

のちに、明清交替を経て、満洲の清朝皇帝はモンゴル世界に対して「大ハーン/カガン(qaγan)」の称で呼ばれました。とくにモンゴル諸部は清皇帝を「至聖なるハーン(ボグド・ハーン)」と敬称し、皇帝は遊牧世界におけるカガン的権威をも保持しました。これは、同一の君主が地域ごとに異なる称号を使い分ける「称号の多重化」の典型例です。

一方、カガンの称は草原の西方にも広がり、アヴァール可汗国(中欧)、ハザール可汗国(カスピ海北岸)など、ビザンツ・サーサーン朝・スラヴ世界と接する地域で用いられました。ここでもカガンは連合体の総帥であり、外交条約や婚姻、徴税・交易の権益を握る存在でした。イスラーム化やスルタン号の普及が進むと、称号体系は変容しますが、カガンの記憶は「ハン」「ベイ」「エミール」といった後継称号とともに制度の底に残り続けました。

政治秩序・儀礼・称号体系:カガンを頂点とする草原国家の仕組み

遊牧帝国の秩序は、血縁と同盟、戦功と分配、宗教的正統性が交差する構造でした。カガンの選出は、単純な世襲ではなく、チンギス裔や特定氏族に限定しつつも、クリルタイでの合意・承認を要しました。これにより、軍事力・財貨・盟友の動員力を備えた者が正統化されます。任命式では白いヤク尾旗や酒の注ぎ合い、天への祈りなどの儀礼が行われ、テングリ(天)に対する誓約が新君の正統性を保証しました。

称号の階梯は、連合の拡大・分割に応じて柔軟に運用されます。カガンの直下に「ヤブグ(副王)」や「シャード(王族将軍)」が置かれ、皇子には「テギン」の称が与えられます。軍事・行政に功ある者には「タルカン」「ベグ(ベイ)」などの身分名が与えられ、課税・裁判・人事に関する特権が付随しました。カガンはこれらの称号を授与・剥奪する源泉であり、分配により忠誠を組織化しました。皇后は「カトゥン(khatun)」と称され、婚姻同盟の媒介者として外交・政治に影響力を持ちました。

経済と軍事の面では、カガンは遊牧生産の季節性に合わせて移動宮廷(オルド)を運用し、冬営地・夏営地を結ぶ移動路の治安と牧地の調整を監督しました。交易面では、唐・宋・金・元・明の諸王朝との互市・朝貢の枠組みを設定し、絹・茶・金銀・工芸品と家畜・皮革・馬・鷹などの交換を管理しました。駅伝(テュメン規模の軍団運用と並行)やパスポート(パイザ)制度は、草原世界に高速の通信・輸送網をもたらし、カガンの命令が遠隔地に届く制度的基盤を形成しました。

法と規範の側面では、突厥碑文が示す「古いおきて(トルク・トリュ)」、モンゴル帝国の〈ヤサ〉に象徴される慣習法の成文化が進みます。カガンは紛争の最終裁定者として、「血の復讐」の連鎖を断ち切る調停権を行使し、贈与や罰金、追放などの手段で秩序を維持しました。宗教では、テングリ信仰が根幹にありつつ、仏教・マニ教・イスラームなどが連合内の多様性を支え、可汗位の正統性を各宗教の語彙で補強しました(例:回鶻のマニ教的正統、ジョチ・ウルスのイスラーム的正統)。

また、中国との関係では、唐太宗が突厥側から「天可汗(てんかがん)」と称された事例が知られます。これは中原皇帝が草原世界においても可汗的権威を帯びたことを示す象徴で、互いの秩序観が重なり合う接点でした。逆に言えば、カガン号は国際秩序の翻訳可能な単位でもあり、外交儀礼の場で相互承認の装置として機能しました。

言語と史料:碑文・漢籍・イスラーム史料が映すカガン像

カガンの実像を知る手がかりは多岐にわたります。突厥や回鶻のオルホン碑文・エニセイ碑文は、遊牧側の自己記述を伝え、カガンの称号・系譜・戦争・徳目(勇・節・分配の公正)を語ります。漢籍(『周書』『隋書』『旧唐書』『新唐書』など北朝・隋唐の正史)は、朝貢・封冊・婚姻・軍事衝突の記録を通して、可汗位の対外的な姿を描きます。ビザンツ史料はアヴァールやハザールの「カガノス(chaganos)」の動向を記し、イスラームの地理書・年代記は〈ハーカーン〉〈ハーガーン〉と転写してカスピ海北岸や中央アジアの諸政権を紹介します。モンゴル時代は、ペルシア語史書と『元朝秘史』、『集史』などがカガン位の儀礼やクリルタイ、分領体制の詳細を伝えます。

言語面では、カガンはテュルク語・モンゴル語の音韻変化により qaɣan/qa’an/xagan などの異綴りが併存し、中国文献の可汗はその音写に当たります。称号の翻訳は時に誤解を生みます。例えば「大カーン(Great Khan)」は、欧文ではしばしば皇帝(Emperor)と同義に扱われますが、草原世界ではクリルタイの合意・血統・分配権という実質的な統治資源の集中を意味しました。こうした文脈を押さえると、可汗という語の厚みが見えてきます。

総じて、カガン(可汗)は、草原の政治と文化の要石でした。単なる肩書きではなく、〈天から授かった権威〉〈連合を組み上げる分配の技法〉〈高速通信と移動に支えられた統治〉〈多宗教・多言語の共存を束ねる作法〉の結節点に立つ存在です。匈奴から突厥・回鶻、モンゴル、清に至る長い時間の中で、可汗は形を変えながらも「草原の帝王」という核を保ち続けました。用語として学ぶときは、語源や音の違いにとどまらず、称号が支えた具体の制度と実務、そして周辺世界との相互作用に目を向けることが大切です。そこから、ユーラシア史における〈権威の翻訳〉と〈秩序の接続〉のダイナミクスが立ち上がって見えてくるはずです。