カシュガル(疏勒) – 世界史用語集

カシュガル(Kashgar/喀什噶爾・喀什)とは、中国新疆ウイグル自治区の西端、タリム盆地の西南縁に位置するオアシス都市で、古代中国史料では「疏勒(しょろく/Shule)」と記されました。天山・カラコルム・崑崙の大山脈に囲まれ、パミールの入口にあたる要衝であり、シルクロード西域交通の十字点として、東西南北の隊商が必ず立ち寄る「分岐の町」でした。仏教王国期の寺院と写本文化、イスラーム化後のモスクと神学校(マドラサ)、手工芸と大バザールの活気、チベット・ペルシア・トルコ・漢の諸文明が交錯する生活世界が重層的に積み重なっています。近代には英露の「グレート・ゲーム」の舞台、20世紀には中央アジアと中国の政治変動の焦点、現代にはパキスタンとを結ぶカラコルム道路の北端としての戦略的・経済的役割を担ってきました。「疏勒」は古称および現在のカシュガル市域の一部に相当する県名(疏勒県)としても残っており、地名の歴史性を今に伝えています。本稿では、名称と地理、古代〜中世の変遷、イスラーム化とモンゴル・ティムール期、清代以降の支配と近代化、社会・文化・都市の景観、用語上の注意を整理し、カシュガル/疏勒の全体像をわかりやすく解説します。

スポンサーリンク

名称・位置・環境:オアシスの「十字路」としての条件

カシュガルはタリム盆地の西南縁、カシュガル川(ケズ川)が河扇状地を形成するオアシスに発達した都市です。北東へ進めばアクス・クチャを経て天山北麓へ、東南へ進めばホータンを経て楼蘭方面へ、西へ進めばペミル高原を越えてバダフシャーンやフェルガナ・サマルカンドへ、南へはタシュクルガンを抜けカラコルム山脈を越えてフンザ・ギルギット、さらにインダス上流へ達します。氷河からの融水とオアシス灌漑が命脈で、綿・果樹・小麦・ブドウといった農業に加え、遊牧の越冬地・交易の中継拠点として栄えました。西域の諸オアシス都市の中でも、複数の峠道が一点に収斂する立地は際立っており、物流・情報・宗教文化の集積点になりやすい条件を備えています。

名称は、トルコ語系の「カシュ(皮革)+ガル(職人)」に由来するという説、サカ系・イラン系語根に遡る説などがあります。漢籍では「疏勒国」「疏勒城」が用いられ、唐代には安西四鎮の一つ「疏勒鎮」として登場します。現代中国語では「喀什(カシ)」が一般的で、古称「疏勒」は行政区画名(疏勒県)としても残存しています。地名の多義性は、歴史文献を読む際の混乱の元になるため、時代・文脈に応じた使い分けが重要です。

古代〜中世前期:疏勒国、漢・唐との関係、仏教文化の栄え

前漢以来、中国王朝は「西域都護府」を通じてタリム盆地の諸国と関係を結び、疏勒もその一環として朝貢・冊封関係に組み込まれました。班超の経略や後漢・魏晋にかけての干渉は、隊商路の安全確保と定期的な軍事駐屯を伴い、疏勒は周辺オアシス(亀茲・于闐など)との連携・競合の中で勢力を保ちました。北方の匈奴・鮮卑、さらに突厥の勢力圏が伸縮するたびに、疏勒の王権は大国間の綱引きに巻き込まれ、交易利得と独立性の確保を天秤にかける外交が繰り返されました。

唐代には、安西都護府の設置とともに西域経営が本格化します。疏勒は安西四鎮(龜茲・于闐・焉耆・疏勒)の一角として軍政的な要地となり、唐の官僚や将軍、僧侶が往来しました。仏教はこの時期に隆盛し、サンスクリット・ガンダーラ系の写本文化、説話の伝播、壁画・石窟・寺院の建立が相次ぎます。僧の往還路としても重要で、インドからタリム盆地を経て長安へ至る行路の要衝に位置しました。吐蕃(チベット)勢力の台頭と唐末の動揺に伴い、疏勒は一時吐蕃の支配下に入るなど、政治的振幅が大きくなりますが、オアシス都市のもつ自律的な商業力と宗教文化の厚みは持続しました。

この時期の文化層は多言語・多文字でした。漢字・サンスクリット・ブラーフミー系文字、ソグド語、テュルク古文字などが併存し、交易に関与する商人・僧・書記官がそれぞれの書記伝統を携えて都市に集まりました。碑文や木簡、写本は、カシュガルが知の交差点でもあったことを物語っています。

イスラーム化とチンギス・ハン以後:カラ=ハン朝からチャガタイ、ティムールへ

10〜11世紀、テュルク系のカラ=ハン朝がタリム盆地とフェルガナ・トランスオクシアナを結ぶ地域に勢力を伸ばし、イスラーム化の潮流がカシュガルにも定着しました。伝承ではサトゥク・ボグラ・ハンの受洗(改宗)が語られ、以後、モスク・マドラサ・イスラーム法廷が都市の中核機関になります。仏教寺院やマニ教・景教の痕跡も残りつつ、13世紀までにはイスラームが公的規範として優越する構図が成立しました。カラ=ハン朝の宮廷文化は、テュルク語文学(ユスフ・ハース・ハージブ『クタイユ・ビリグ』など)を育み、ペルシア語行政文書と並ぶ「二言語世界」を支えました。

13世紀のモンゴル帝国拡張により、カシュガルはチャガタイ・ウルスの版図に組み込まれます。チャガタイ系の統治は遊牧の軍事力とオアシスの課税・商業の接合を図り、モンゴルのヤサ(成文規範)とイスラーム法(シャリーア)の折衷が実務レベルで模索されました。14世紀末、ティムール朝の影響圏が広がると、カシュガルはサマルカンド・ヘラートと結ぶ学芸ネットワークに連なり、建築装飾・書物文化・学者の移動で新たな刺激を受けます。

この時代、カシュガルは同時にスーフィー教団の活動拠点でもありました。ナクシュバンディー教団の一派が広がり、後世のホージャ(コージャ)と呼ばれる宗教的カリスマの家系(「白山派」「黒山派」)が地域政治に大きな影響を及ぼす基盤が形成されます。

ヤルカンド・ハン国から清朝へ:ホージャ勢力、征服、統治の再編

ティムール以後、東チャガタイ系から派生したヤルカンド・ハン国(16〜17世紀)は、カシュガル・ヤルカンド・ホータンを核とするオアシス連合王国として存立しました。この王国では、前述のスーフィー系ホージャ家系がしばしば実権を握り、王権との緊張・協調を繰り返しました。17世紀後半には、ジュンガル(オイラト)勢力がタリム盆地へ進出し、ホージャの一派が外勢の支援を受けつつ覇権を争う局面が生じます。

18世紀、清朝はジュンガル討伐の大遠征ののち、タリム盆地諸オアシスを再征服し、カシュガルにも軍政を敷きます。清はイスラーム法廷や在地エリート(ベグ)を行政に組み込みつつ、軍屯田・関税・道路・驛伝を整備し、乾燥地の治安・課税・職能を再編しました。これに対して、19世紀前半にはカシュガル出身のジャハーンギール・ホージャらが蜂起し、一時的に広域を支配するものの、最終的には鎮圧されます。清の支配は、オアシス自治を残しながらも軍政の色彩が強く、同時期に英露の中央アジア進出が強まって「外圧の影」が都市社会にも差し込むようになります。

1860年代後半、タリム盆地ではヤークーブ・ベグが台頭し、カシュガルを都の一つとして「カシュガリア(アティリク・グラ)」政権を樹立しました。彼はトランスオクシアナのテュルク系軍事人材を動員し、清の動揺とロシア・ブハラ・英印の力学を背景に数年の独立支配を実現します。英露はそれぞれ領事を派遣し、カシュガルは「グレート・ゲーム」の前線外交の舞台となりました。最終的に清が再征服すると、この地域は新疆省として組織化され、近代的な省制へ編み込まれていきます。

20世紀の転換:共和国期の動揺と「第一東トルキスタン共和国」

清末・民国期の新疆統治は、地方軍政の色彩が濃く、カシュガルでも自治と中央支配の綱引きが続きました。1933年、カシュガルを中心に「第一東トルキスタン共和国」が短期間成立し、イスラーム法の施行や教育の再編が試みられましたが、軍閥間の角逐と外部勢力の介入の中で翌年には崩壊します。以後も、回族軍(馬仲英ら)とウイグル・クルド系の武装、ソ連の影響力、盛世才政権の統治など、政治の流動が続きました。

中華人民共和国成立後、カシュガルは新疆ウイグル自治区の南疆(ナンジャン)中心都市として整備され、交通網(国道・空港)、対外連絡(パキスタンへ通じるカラコルム・ハイウェイ)の要となりました。農業・織物・果実加工・建材などの産業が育ち、都市人口は増加します。一方で、文化・宗教・言語政策、都市再開発、地域格差と雇用、治安と統治に関わる課題も大きく、中央アジアと中国本土の間に位置する地政学的条件が現代のカシュガルにも影を落としています。

都市景観と生活文化:旧城、モスク、バザール、手工芸

カシュガルの旧城(オールドタウン)は、日干し煉瓦の壁、梁と持送りで張り出したバルコニー、細い路地(アリー)と中庭が連なるイスラーム都市特有の景観を残してきました。中心に位置するアイティガール・モスク(艾提尕爾清真寺)は、祭礼と学びの場であり、広場は市場と儀礼の舞台です。近年は耐震・防災・衛生・観光の名目で再開発が進み、旧城の大規模改造と修復が行われました。伝統景観の維持と安全性・生活改善の両立は難題であり、保存・更新のバランスが問われています。

バザールはカシュガルの心臓部で、日用品から絨毯、ナイフ(ヤータガン)、銅器、帽子(ドッパ)に至る手工芸が軒を連ねます。日曜の大市は周辺オアシス・農村からの人々で賑わい、家畜市も健在です。食文化は、ナン、ラグメン(引き延ばし麺)、ポロ(ピラフ)、串焼き(カワップ)、果物(メロン・ブドウ・ザクロ)が豊かで、オアシスの季節感が食卓に反映されます。音楽・舞踊(ムカム)や婚礼儀礼、ラマダーンと犠牲祭の年中行事は、都市のリズムを形づくります。

手工芸の伝承は、職人ギルド的な徒弟制度と家業が支えてきました。金属工、木工、皮革、陶器、刺繍は、交易都市の需要に支えられ、近代以降は観光・土産市場とも結びついています。言語はウイグル語が広く用いられ、ペルシア語・トルコ語・漢語の語彙が混交した独特の都市言語文化が培われました。

道と峠:カラコルム・ハイウェイと古道の再編

カシュガルの南にはタシュクルガンからフンジュラーブ峠を越えるカラコルム・ハイウェイ(KKH)が延び、パキスタンのギルギット=バルチスタンを経てイスラマバードへ至ります。これは古代以来の峠道の近代的再編であり、道路は観光・交易・人的交流だけでなく、地政学と防災・環境管理の観点からも大きな意味を持ちます。北西へはイルケシュタム峠を越えてキルギスへ、さらにオシュ・フェルガナへ通じ、カシュガルは現代の国境横断物流でもハブとなっています。

古道は峠と川の流量に大きく左右され、季節・年次で通行可能性が変動しました。キャラバンサライ(隊商宿)と井戸、税関・関所の位置は、国家の意図と自然条件の折衷の産物で、考古地理学は遺構と文献の双方からこのネットワークを復元しています。現代の道路網は、古道の知恵—風雪避けの谷筋、夏季の高地放牧路—を部分的に継承しつつ、橋梁・トンネル・舗装技術で通年性と積載能力を高めました。

用語・区分と学習上の注意:「疏勒」と「喀什」、カシュガル地区と疏勒県

歴史用語としての「疏勒」は、主に漢籍に現れる古称で、カシュガル市域一帯の王国・都市を指します。現代行政では「喀什地区(カシュガル地区)」という地級行政単位の下に、喀什市と複数の県が置かれ、その一つが「疏勒県」です。したがって、「疏勒=カシュガル市そのもの」とは限らず、文脈により広狭が異なる点に注意が必要です。さらに、学術文献では「カシュガル」「カシ」「喀什」「疏勒」が混在し、同じ地名でも時代・言語により指し示す範囲が揺れます。史料を読む際には、行政区画の変遷、古代国名と現代都市名の対応、オアシス圏(周辺農村を含む)の広がりを意識しましょう。

また、「ヤルカンド」「ホータン」「アクス」との関係性を地図で把握することは、カシュガル理解の近道です。三者は南北・東西の動脈で結ばれ、政治がどこで揺れても物流はカシュガルで一度集約される傾向がありました。地理の理解は、政治・宗教・経済の動きの「必然」を読み解く鍵になります。

総括:境界が交わる場所としてのカシュガル/疏勒

カシュガル(疏勒)は、自然の峠路と河川が描いた「必然の結節点」に、人が築いた市場・寺院・モスク・城壁・道路が重なった都市です。仏教からイスラームへ、オアシス王国からモンゴル・ティムール・ヤルカンドを経て清・民国・現代へ、支配の形は何度も変わりましたが、往来と交換を媒介する都市機能は揺るぎませんでした。ここでは、宗教は境界を越え、言語は混じり合い、商品と技術が旅をし、人々は峠の向こうの世界とつながる術を磨いてきました。だからこそ、カシュガルは時に「周縁」ではなく、ユーラシアの複数の中心をつなぐ「結び目」として現れます。地名の層を丁寧に読み解き、地理と制度と生活の関係をたどるとき、疏勒—カシュガルは、シルクロードの過去と現在を架橋する最良の教材であることが見えてきます。