カニシカ王(Kanishka I, 在位2世紀前半ごろ)は、クシャーナ朝の最盛期を築いた君主として知られ、中央アジアと南アジアの結節点に広域の政治秩序と交易網を整え、仏教(とくに大乗仏教)の発展、ガンダーラ美術の成熟、貨幣と王権イデオロギーの革新に大きな影響を与えた人物です。首都プルシャプラ(現ペシャーワル)とマトゥラーを拠点に、バクトリアからインダス上流、ガンジス上流域に至る領域を掌握し、対ローマ・対パルティア・対漢(後漢)を視野に入れた「ユーラシア内陸—インド—海の道」の連結を実現しました。カニシカの年代は学界で議論が続きますが、一般に2世紀前半(おおむね130年前後に即位)とみなされ、ラバタク碑文や多言語貨幣がその実像の手がかりを与えます。以下では、出自と登場、領域と都城、貨幣と王権の理念、宗教・文化政策と仏教、交易と外交、年代論と史料、そして後継と歴史的評価について、要点を整理して解説します。
出自と登場――大月氏連合からクシャーナ王権へ
カニシカ王は、中央アジアに移住した遊牧系の大月氏連合の一支族「貴霜(クシャーナ)」が、バクトリアのヘレニズム諸勢力やパルティア系勢力を押しのけて建てたクシャーナ朝の第三代(あるいは系譜によって第四代)と位置づけられます。先行するクジュラ・カドフィセス、ヴィマ・タクト、ヴィマ・カドフィセスらの拡張によって、アム川以南とガンダーラが統合され、インド北西部への進出が本格化しました。こうして形成された複合世界を背景に、カニシカは即位後、北西インドの諸都市とインド洋交易の上流部を押さえ、王国の財政と軍事の基盤を強化しました。
中国の『後漢書』には、大月氏(クシャーナ)の使者が後漢に朝貢し、班超ら西域都護との交渉、甘英の「大秦(ローマ)」派遣計画など、クシャーナと東西交易の関与を示す記事が見えます。これらは直接にカニシカ一代の事績ではありませんが、彼の治世が東西の情報と物資の流れの中に位置していたことを物語ります。
領域と都城―プルシャプラとマトゥラー、巨大仏塔の時代
カニシカの政治中心は、カイバル峠の出口に位置するプルシャプラ(現ペシャーワル)でした。ここはインダス流域とアフガニスタン・バクトリア、カシュミール・ガンダーラを結ぶ要衝で、軍事・物流・宗教のハブとして機能しました。伝承と発掘は、カニシカの名を冠する巨大仏塔の存在(「カニシカの塔」)を示し、その規模は古代の世界でも屈指とされます。塔身は複層構造で銅板装飾を備え、遠方からの巡礼・商人を惹きつけるランドマークでした。
ガンジス上流域では、古来の聖地マトゥラーが政治・宗教・美術の拠点として整備されます。マトゥラーの赤砂岩彫刻群は、仏像・ヤクシャ像・王者像において独自の様式を示し、ギリシア系要素の強いガンダーラと並ぶ二大潮流を形成しました。王権は都市のギルドや僧団、神殿を後援し、鑄貨と徴税、関門管理のネットワークで都市経済を活性化しました。
貨幣と王権イデオロギー―バクトリア語表記と多神像のコイン
クシャーナの貨幣は、カニシカの治世において図像・言語・金属の各面で革新を見せます。彼の金貨・銀貨・銅貨には、王の立像(厚衣・ブーツ・剣・焚香台)とともに、多様な神々の像が刻まれます。ギリシア系(ヘリオス=Hlio、セレネ)、イラン系(ミスラ=Miiro、ナナ=Nana、アートゥル=Athsho)、インド系(マヘーシュヴァラ=Oesho、仏陀=Boddo)など、多神的世界の全方位外交を象徴するパネルが、貨幣という日常的メディアに載せられました。
銘文言語は、ギリシア語からバクトリア語(東イラン語)への移行が進み、文字は改変ギリシア文字(ギリシア系アルファベットでバクトリア語を表記)を用います。王号には「王の中の王(ショナノ・ショー:Shaonano shao)」「クシャーナ王」などが掲げられ、王が複合世界を統合する覇権者であることを示しました。宗教図像の並置は、一神教的排他ではなく、正当性を多元的に演出する「帝国の言語」そのもので、征服地の神々を包摂して秩序の中心に立つという王権理念が視覚化されています。
アフガニスタン北部で見つかったラバタク碑文は、カニシカの系譜や領域、神々への言及をバクトリア語で記し、彼の治世像を大きく塗り替えました。碑文は、王統の継承と都城の整備、諸地方への恩典を語り、同時代における公用語の選択や信仰の多様性を物語ります。
宗教・文化政策―大乗仏教とガンダーラ美術の成熟
カニシカ王は、その名が仏教史に頻出することで著名です。伝統的には、彼がカシミール(クンダルヴァナ等)で「第四回結集」を主宰し、大乗仏教の教義整備に寄与したと語られます。史実の細部には議論がありますが、少なくとも彼の治世に、サンスクリット経典の編纂・注釈、サルヴァースティヴァーダ(説一切有部)の教理整理、僧院経済の拡大が進んだことは確かです。仏舎利の奉安と塔の建立、遠方巡礼路の安全確保、僧団への寄進と免税は、王権が宗教を通じて交通と都市を組織したことを示します。
美術面では、ガンダーラとマトゥラーの二大様式が、仏像表現の成熟期を迎えました。ガンダーラでは、トガ(外衣)・波打つ髪・ヘラス的肉体表現を伴う仏像が造られ、物語浮彫(ジャータカや仏伝)が寺院建築を飾ります。マトゥラーでは、より力動的な肉体と薄衣、円満相の表現が発展しました。これらは単なる地域差ではなく、交易・巡礼・職人移動のネットワークが生んだ相互参照の成果であり、仏像という形体がインド的宗教の図像言語として確立していく画期でした。
言語文化の面では、ガンダーリー語(中期インド語)・サンスクリット・バクトリア語・プラークリットが交錯し、経典・寄進碑・ギルド文書が複数言語で作成されました。写本(樹皮写本)や短い献辞が、僧団の財産と都市の富裕層の連携を示し、王権—僧団—商人の三者関係が文化生産のエンジンとなりました。
交易と外交―ユーラシアの十字路を握る
クシャーナ朝の強みは、内陸のシルクロードとインド洋ルートを同時に掌握した点にありました。バクトリア—ガンダーラ—パンジャーブ—マトゥラーの軸は、ヤシの実繊維・宝石・香料・象牙・綿織物・漆器・仏教遺物に至るまで、多様な商品と人の移動を可能にしました。インダス河口部やグジャラート、デカン西岸の港と結びつくことで、ローマ帝国東方属州や紅海—ナイル経由の市場へもアクセスしました。ローマ金貨(アウレウス)の流入は、インドの金貨鋳造を刺激し、貨幣経済を深化させます。
外交では、北西のパルティア、北のサカ・トハラ系諸勢力、東の漢(後漢)とのバランスが要でした。西域では、後漢の班超体制との補給・使節路交渉が続き、シルクロードの安全保障をめぐって協調と緊張が交錯しました。クシャーナは中継貿易の課税・護衛・宿駅整備で利益を上げ、都市ギルドに自治を認める代わりに公課を求める「緩やかな帝国運営」を採りました。こうした統治スタイルは、多民族・多宗教の社会を暴力的同化ではなく、物流と儀礼の共有でまとめる手法と言えます。
年代論と史料―「カニシカ紀年」をめぐる議論
カニシカの即位年は、長らく「78年説」と「2世紀前半(127年頃)説」が並立してきました。ギリシア・インド・中国・イラン系の断片史料、碑文の紀年、貨幣の様式変化の比較から、現在では概ね2世紀前半即位(約127年開始)とみなす研究が有力ですが、地域ごとの紀年系(サカ紀元など)との重なりが複雑で、全面的確定には慎重が求められます。ラバタク碑文、マトゥラーやアフガニスタン各地の奉献銘、漢籍の記事、貨幣の連続系列といった資料群を突き合わせる作業が、今なお進行中です。
史料学的には、多言語・多文字の並存が利点でもあり障害でもあります。バクトリア語のアルファベット、カローシュティー文字のガンダーリー語、ブラーフミー文字のプラークリット/サンスクリット、ギリシア語の残存用例を縦断的に読むことで、王権の公式言語政策と地域社会の文字生活が見えてきます。貨幣の図像変化—例えば仏陀像(BODDO)の出現と消長—は、宗教政策の変化だけでなく、受容地域の需要や造幣所の事情をも反映します。
後継と評価―フヴィシュカ、ヴァスデーヴァと衰退の地平
カニシカの後、フヴィシュカ(Huvishka)、ヴァスデーヴァI(Vasudeva I)らが王位を継ぎ、クシャーナの広域秩序はしばらく維持されます。貨幣図像は次第にインド在来神(シヴァ=Oesho等)への比重を高め、都城はインド内陸へ重心を移していきました。3世紀に入ると、西方でサーサーン朝が勃興し、バクトリア—ガンダーラに圧力がかかります。北方草原の再編、シルクロードの変動、地域勢力の自立化が重なり、クシャーナの北西部は「クシャーノ・サーサーン朝」へ切り取られ、インド側では在地王朝とグプタ朝の伸長が続きました。
それでも、カニシカ王の時代に整えられた都市・交易・宗教・図像の基盤は、後世に深く浸透しました。仏教はクシャーナの交通路を通じて中央アジア—タリム盆地—中国へ広がり、碑文・仏像・経典のネットワークが東アジアの宗教文化を支えます。ガンダーラ的図像は長く仏教美術の母胎となり、マトゥラーの身体表現はインド美術の古典語彙として残りました。貨幣図像の多神的包摂は、複合世界の帝国イデオロギーの典型として、比較史の好例です。
総じて、カニシカ王は「征服王」というより、「連結王」として評価されます。軍事と建設、貨幣と儀礼、宗教と交易—これらを束ねて広域の移動と交渉を可能にした運営能力こそ、彼の最大の遺産です。年代論の不確定さや宗教政策の解釈をめぐる学問的論争は残りますが、ラバタク碑文と貨幣群、都市遺構が語る具体性は、彼の治世を歴史の中核に押し上げ続けています。カニシカの名は、砂漠と山脈の中に張り巡らされた道と塔、そして言語と像の交響が織りなす世界の記憶と共に、今日もなお響いているのです。

