「漢(かん)」は、中国を長期にわたって統一した王朝で、前漢(ぜんかん・西漢)と後漢(ごかん・東漢)に大別されます。農耕と官僚制を基盤に、法と儒(じゅ)を組み合わせた統治を進め、広大な領域を安定させました。前漢は劉邦(りゅうほう)が秦の後を継いで建国し、都を長安に置きました。中央集権化を進めつつも一部で諸侯王を認め、武帝(ぶてい)の時代に最盛期を迎えます。武帝は財政・軍事・思想の三面で大改革を行い、匈奴(きょうど)に対抗しつつ西方との交易路を開きました。王莽(おうもう)が一時「新(しん)」を立てて中断しますが、光武帝(こうぶてい)が洛陽で後漢を再興します。後漢では豪族の発言力が増し、外戚と宦官(かんがん)の権力争いが深刻化し、黄巾の乱を経て三国時代へと移行しました。紙の普及、歴史書の編纂、儒教の国家学化、均輸・平準や塩鉄専売などの経済政策、郡県制の整備、シルクロードの形成など、後世の東アジア世界に大きな影響を与えたのが漢です。日常語の「漢字」「漢民族」「漢方」といった語に王朝名が残るのは、その持続的な文化的影響の大きさを物語ります。ただし、同音の「韓(戦国の一国)」とは別物です。本稿では、漢の成立から制度、対外関係、動揺と崩壊、名称の広がりまでを分かりやすく解説します。
成立と基盤―前漢の誕生と国家の骨格
秦の急進的な中央集権化と苛法は、統一を実現した一方で反発も招きました。陳勝・呉広の乱を皮切りに各地で反乱が相次ぎ、楚漢戦争ののち、農民出身の劉邦が項羽を破って前漢を建てます(紀元前202年頃)。都は関中の長安に置かれ、黄河・関中平原の地の利を背に国家再建が進みました。劉邦は秦の郡県制を基本的に引き継ぎつつ、功臣や旧勢力に「諸侯王」として一定の自律を認め、中央と地方の二重構造を暫定的に容認しました。
しかし、諸侯王の独自性はやがて中央集権にとっての障害となります。景帝・武帝の時期にかけて「推恩令」が実施され、諸侯王の領地を世代ごとに分割相続させることで勢力を弱め、郡県による直接支配を拡大しました。これにより、秦の郡県制と封建的要素の折衷から、より中央集権的な体制へと移行します。法令・度量衡・貨幣の統一が進み、交通路や防塁、都城の整備によって、国家運用の標準化が進展しました。
思想面では、当初は諸子百家が並立しましたが、武帝の時に董仲舒(とうちゅうじょ)が提言した「罷黜百家・独尊儒術」に象徴されるように、儒教が国家の基本理念とされます。もっとも、理念が儒教であっても、実務では法家由来の文書主義・官僚制・賞罰の明確化が併用され、いわば「儒表法裏(じゅひょうほうり)」の運用が現実でした。太学の設置、経学の重視、郷挙里選などの人材登用制度は、儒学的素養を持つ士人層の形成を促し、地方から中央へ優秀な人材が流入する道を整えました。
財政・経済面では、人口増と軍事需要に対応するため、官営の経済政策が展開されました。均輸・平準は、地域間の価格差を利用し、官が物資を移送・保管して市場価格を安定させる施策です。また塩鉄専売は、国家が基幹産業を直営もしくは統制することで財源の確保と民間独占の抑制を狙ったものです。五銖銭(ごしゅせん)という統一通貨の鋳造は、市場の統合と課税の円滑化に寄与しました。徴税は戸籍・田畝の把握と連動し、徴発・輸送は道路網と倉儲(そうちょ)システムによって支えられました。
武帝の拡張と社会の変化―儒・法・軍の三位一体
前漢のハイライトは、武帝(在位前141–前87年)の統治です。彼は対外的には匈奴の強勢に対抗するため、衛青・霍去病らを用いて北方戦線を推し進めました。西域方面では張騫(ちょうけん)を大月氏などへの使節として派遣し、西方とのルートを開拓しました。これにより、東西交易の幹線が段階的に整備され、のちに「シルクロード」と総称される網の目の交易路が形づくられます。南方では南越(なんえつ)を併合し、北方では河西回廊の諸郡を設置、朝鮮半島西北部には楽浪郡などを置いて影響力を拡大しました。
国内では、軍事拡張に伴う巨額の出費を賄うため、前述の均輸・平準、塩鉄専売、算賦・告緡といった財政手段が強化されました。これらは商工業者への負担を増やしつつも、市場統制と軍需調達を可能にし、国家の存続と拡張を下支えしました。同時に、儒教は国家の統治理念として確立され、礼楽秩序・家族倫理・官吏の徳目が強調されます。だが、現場の行政・軍事は、法家的な規則と責任の体系に頼る現実主義で運用され、理念と実務の二層構造が漢の特徴を形づくりました。
社会構造では、郡県・県邑の行政組織を通じて戸籍管理が徹底され、徭役・兵役が制度化されました。鉄製農具の普及と牛耕の一般化、灌漑や運河の整備は、農業生産を押し上げ、都市の市場は遠隔地の産品で賑わいました。物流の発達は、絹・麻・塩・鉄・酒などの専売品や課税対象を中心に、国家の監視の下で進みます。こうした国家主導の市場管理は、民の負担と引き換えに、広域の安全保障と価格安定を実現するメカニズムでした。
文化・学術面では、史書の編纂が顕著です。司馬遷(しばせん)は『史記』を著し、黄帝から武帝に至るまでの通史を編み上げました。これは、後世の歴史叙述に範を示すだけでなく、諸制度の起源や人物像を立体的に描く試みでした。また、暦法や天文、数学、医学、地理などの知の体系化が進み、神仙思想や方術も盛んでした。紙の改良(蔡倫の製紙法が伝統的に知られます)や書体の整備は、行政文書の大量処理と文化の普及に寄与し、漢文化圏の基礎を広く固めました。
中断と再興―新(王莽)から後漢へ、そして外戚・宦官の時代
前漢末になると、宮廷では外戚の影響力が増し、政治の私物化や財政の逼迫、地方豪族の台頭などが進行します。そうした中で、王莽が外戚として権力を握り、ついに新王朝を樹立します(8年)。王莽は理想主義的な制度改変を矢継ぎ早に断行し、土地制度の再編や貨幣の改鋳、官制の刷新を試みましたが、急激な改革は混乱と反発を招き、農民蜂起や地方離反を抑えきれませんでした。飢饉や洪水などの自然災害も重なり、新は短命に終わります。
新の崩壊後、劉秀(のちの光武帝)が内乱を収拾し、25年に洛陽で後漢を建て直します。後漢前期は、武力拡張よりも秩序の回復と行政の安定が優先され、緊縮と現実主義が基調でした。光武帝は、軍制の再編と屯田制の運用、冗官の整理、税制の立て直しなどを進め、比較的長い安定期を実現します。外征は限定的で、西域都護府を通じた関与や南方の経営など、緩やかな影響力の維持に傾きます。仏教がこの時期に中国へ本格的に流入し、洛陽周辺を中心に受容が進むのも特徴です。
しかし、後漢中期以降、政治はふたたび不安定化します。幼帝が続いたこともあり、皇后の実家である外戚と、宮廷の実務を握る宦官が激しく権力を争いました。官僚・学者層は儒学の名分論を掲げて政治の正道を求め、宦官の専横に抗議した「党錮の禁」などの事件が起こります。地方では豪族・大土地所有者が勢力を拡大し、国家の直接統治が薄まっていきます。課税基盤の浸食と兵役回避の常態化は、財政と軍事の持続性を損ないました。
184年、太平道の張角らが掲げた黄巾の乱が勃発し、帝国の統治は大きく揺らぎます。反乱鎮圧の過程で地方軍閥が力を持ち、中央は統制力を喪失しました。以後、董卓の入洛と暴政、群雄割拠を経て、後漢は形式的には存続しながらも実権を失い、最終的に曹丕が禅譲を受けて魏を建てることで幕を閉じます。こうして、中国は三国時代へと移行しました。
対外関係と広域交流―シルクロード、北方世界、南海交易
漢の対外関係は、軍事と交易、冊封・朝貢の複合体でした。北方の匈奴に対しては、和親政策(婚姻・贈与)と軍事遠征を状況に応じて使い分け、国境の城塞・烽火台・駐屯の網で長期的に対処しました。河西回廊の郡県設置は、西域との連絡線を確保し、オアシス都市との交易・外交の拠点となりました。西域都護の設置は、軍政を統括し、諸国との連絡を担う制度的枠組みでした。
シルクロードという呼称自体は近代の概念ですが、実態として、前漢末から後漢にかけて東西の交易網は確立度を高めます。中国の絹・漆器・鉄器・紙などが西へ運ばれ、代わりに汗血馬・ガラス器・葡萄・香料・宝石・金属器などが流入しました。文化的にも、音楽・舞踊・衣装・宗教観が往来し、胡人と呼ばれた西方・北方系の人々が都や国境で活動しました。南では、南海(南シナ海)を通じて東南アジア・インド洋世界とつながり、日南郡を経由した海上ルートが拓かれます。
朝鮮半島や東夷世界に対しては、前漢武帝の遠征後に設置された楽浪・玄菟などの郡が拠点となり、交易と政治的影響力の発信基地となりました。日本列島にも、後漢書に記載される倭国との交渉記事(朝貢記事)が知られ、金印の伝承などを通じて、東アジアのネットワークに列島が緩やかに組み込まれていったことがうかがえます。もっとも、これらは均質な支配ではなく、地理・勢力図・季節風に左右されるゆるやかな交流圏でした。
制度と文化の遺産―「漢」の名が残したもの
漢の遺産は、制度と文化の両面に広がります。郡県制は、後代に反復して採用される中国的中央集権の基本形であり、官僚による文書行政、標準化された度量衡、貨幣制度、道路・倉儲・驛伝の整備は、統一国家の運営技術として定着しました。人材登用における郷挙里選は、後漢以降の九品中正や隋唐の科挙へと接続する流れの前段階として位置づけられます。儒教は国家の理念としての地位を確保し、礼・孝・忠といった倫理は、家族と政治の両領域に染み込みました。
文化面では、文字文化の発展と紙の普及が決定的でした。篆書から隷書へ、そして楷書への移行は、行政文書の効率化と識字の拡大を促し、漢字は中国内外に広がっていきます。医学・暦法・地理・志怪といったジャンルが整い、百科全書的な知の蓄積が進みました。史書では、『史記』に続き、班固(はんこ)の『漢書』が前漢の紀伝体正史として編まれ、以後の正史編纂の規範となります。音楽や舞踊、服飾も、多様な外来要素を取り込みつつ花開きました。
「漢」という語は、王朝名を超えた一般名詞にもなりました。「漢字」はこの王朝期に整った文字体系に由来し、「漢民族」はこの王朝の時代に中原の住民を中心にアイデンティティが形成・意識化されたことにちなみます。もっとも、近代民族概念と古代の「漢」の自称・他称は一致しません。歴史学的には、政治的王朝名が後世の文化・言語・民族の標識に転化した一例と理解されます。また、しばしば混同される「韓(かん)」は戦国時代の一国で、漢とは直接の系譜を持ちません。文脈と表記を確認することが大切です。
総じて、漢は「理念としての儒・技術としての法・装置としての官僚制」を組み合わせ、広域統治を長期にわたって成立させた王朝でした。前漢の創業と武帝の拡張、王莽による中断、光武帝の再興、後漢の漸進と動揺、黄巾の乱と分裂という大きな流れを辿ることで、東アジアの国家・社会がどのように形成されていったかが見えてきます。交易路の形成、文化の往来、制度の標準化は、今日に至るまで広く影響を及ぼし続けています。以上を踏まえ、漢という語を目にするとき、その背後にある広域統治の技術と文化の持続、そして外来世界との連結という三つの相を思い起こしていただければ、理解が一段と深まるはずです。

