「ガン(ヘント)」は、現在のベルギー・フランドル地方に位置する歴史都市で、フランス語名をガン(Gand)、オランダ語名をヘント(Gent)といいます。中世には毛織物産業と交易で北西ヨーロッパ有数の都市へと発展し、都市自治やギルドの力がたいへん強い町として知られました。14世紀のアルテフェルデ親子の指導のもとでの対外政策や、15世紀のブルゴーニュ公国支配下での反乱、16世紀の宗教改革とネーデルラント反乱における「ガン和約(1576)」など、都市政治のドラマが数多く生まれた舞台でもあります。フランドル絵画を代表するファン・アイク兄弟の「ヘントの祭壇画(神秘の子羊の礼拝)」が安置される聖バーフ大聖堂、鐘楼(ベフロワ)と織物会館が並ぶ市の中心景観は、中世の富と自治の象徴として今日まで伝わっています。1814年には米英戦争を終結させる「ガン条約」がここで締結され、近代以降は運河と港湾の整備、大学の創設とともに学術都市・産業都市として歩んできました。以下では、成立から中世の繁栄、ブルゴーニュとハプスブルク支配下の都市政治、宗教改革と反乱、近代の転機と文化遺産について、順を追って説明します。
湿地の十字路から毛織物の都へ―成立と中世の繁栄
ガンの起源は、スヘルデ川とレイエ川の合流点に形成された湿地帯の集落にさかのぼります。水運の結節点であったことから人や物が集まり、小規模な市が次第に定期市へと発展しました。9世紀には巡礼と修道院文化の広がりの中で、聖バーフ修道院など宗教施設が拠点となり、経済活動が活性化します。中世都市の発展条件である水、交通、保護(領主の庇護)を兼ね備えていたことが、ガンの成長を後押ししたのです。
12〜13世紀、フランドル伯領は北海交易と手工業の中心地として飛躍し、ガンはブリュージュ、イープルとともに毛織物の三大都市に数えられるようになります。イングランドから輸入した良質の原毛を用い、染色・仕上げに優れた毛織物を生産し、ハンザ商人やイタリア商人を通じて広域市場へ送り出しました。都市の中核はギルドで、なかでも織工ギルドの発言力は極めて強大でした。市参事会はギルドと富裕市民(パトリシアート)の力の均衡で運営され、封建領主に対しても都市特権(自治・課税・市場権など)を交渉・獲得していきます。
経済の繁栄は都市景観に刻まれます。鐘楼(ベフロワ)は都市の自由と警戒の象徴として建てられ、鐘の音は市場の開始、門の開閉、危急の合図を担いました。織物会館はギルドの経済的実力と自治の拠点を示し、聖ミヒャエル橋から眺める鐘楼・聖ニコラス教会・聖バーフ大聖堂の並びは、宗教・経済・自治の三位一体の姿を今に伝えます。富が集中すると同時に、食料や賃金、関税をめぐる都市内の緊張も高まり、やがて政治的対立を生む土壌となりました。
この時期のガンは、単なる工業都市にとどまらず、英仏の王権とフランドル伯家の関係の板挟みの中で、独自の外交的選択を迫られました。イングランドの羊毛供給に依存する一方、形式上はフランス王の宗主権のもとにあったため、百年戦争の前哨期には都市の立場がしばしば揺れ動きます。こうした環境が、後述するアルテフェルデの登場と市民政治の活発化につながりました。
アルテフェルデの時代とブルゴーニュ支配―自治と反乱の都市政治
14世紀、ガンの市政は織工と商人の緊張の下で不安定化し、外部の王権・伯権との関係も複雑さを増しました。1330年代、商人層を基盤としたヤコブ・ファン・アルテフェルデが頭角を現し、対英友好を軸にした実務的な外交で市政を主導します。アルテフェルデはイングランドからの羊毛供給を確保するため、エドワード3世と協調し、フランス王権との対立を巧みにしのぎました。彼の政策は都市経済を守る現実主義として支持を集めましたが、ギルド内の対立や戦況の変化もあって、最終的には暗殺されます。その後、子のフィリップ・ファン・アルテフェルデが1380年代に再び市政を掌握し、反フランドル伯・反フランスの色を強めましたが、1382年のロゼベーケの戦いで敗北し、市政は再編を迫られました。
15世紀に入ると、フランドルはブルゴーニュ公国の支配下に入り、フィリップ善良公やシャルル突進公のもとで政治的統合が進みます。ブルゴーニュ公国は宮廷文化と交易政策で輝きを放ちましたが、強化される中央集権はガンの自治としばしば衝突しました。1453年、ガンは増税と統治をめぐる対立から武装蜂起し、ガヴェレ(ガフェル)の戦いでシャルル突進公に大敗します。敗北後、ガンは自治特権の一部を失い、中央権力の監督が強まりましたが、それでも都市の生産力と商業基盤は生き残り、経済都市としての地位は維持されました。
この時期、芸術の面でもガンは重要な拠点でした。聖バーフ大聖堂に安置されたヤンおよびフーベルト・ファン・アイクによる多翼祭壇画「神秘の子羊の礼拝(通称:ヘントの祭壇画)」は、油彩技法の成熟と写実的表現の頂点を示しました。ブルゴーニュ宮廷と富裕市民の庇護を受けた芸術活動は、フランドル絵画の伝統を先鋭化させ、北方ルネサンスの視覚文化を形成していきます。
ハプスブルクと宗教改革―ガン和約とネーデルラント反乱
1477年にシャルル突進公が戦死すると、ブルゴーニュ領の多くは婚姻関係を通じてハプスブルク家の支配下に入ります。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、その孫カール5世(スペイン王カルロス1世)が広大なハプスブルク帝国を統べると、フランドル諸都市は汎ヨーロッパ的な帝国秩序の一部として再編されました。実はカール5世は1500年にガンで生まれており、都市と皇帝の縁は深いものがありました。しかし、強化される中央財政要求や軍役負担は、都市社会の不満を高めます。
16世紀半ば、宗教改革が広がると、カルヴァン派の受容がフランドルにも浸透し、旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の対立が激化します。スペイン・ハプスブルクによる厳格な宗教政策と重税は諸州の反発を招き、1576年、スペイン軍の暴走(「スペインの狂暴」)に対抗するため、北部と南部の州が一致して「ガン和約(Pacification of Ghent)」を結び、スペイン軍の撤退と諸特権の回復、信仰問題の暫定的棚上げに合意しました。これはネーデルラント反乱の画期として記憶されます。
もっとも、宗教と政治の利害は州ごとに異なり、和約後も分裂は進みます。1579年には北部諸州がユトレヒト同盟を結成して独立の方向を強め、南部はアラース同盟としてカトリック的秩序の維持に傾きました。ガンは一時、急進的なカルヴァン派政権の支配下に入り、修道院の解散や聖像破壊(ベールデンストルム)の流れに連動しましたが、最終的にスペイン側のアレッサンドロ・ファルネーゼ(パルマ公)の巧みな軍政・和睦策により1584年に降伏します。こうして、南部ネーデルラントはスペイン・ハプスブルクの統制下に残り、北部のオランダ共和国とは異なる道を歩みました。
近代の転機と文化遺産―条約都市・運河都市・学術都市
近世を通じて、国際交易の重心は大西洋世界へ移り、アントウェルペンやアムステルダムの台頭とともに、ガンの相対的地位は変化しました。それでも、毛織物に代わる綿工業、亜麻(リネン)産業、印刷や小工業などで堅実に産業基盤が維持・再編されます。19世紀初頭、ナポレオン時代を経た欧州再編とともに、運河・港湾の整備が進み、テルヌーゼンへ通じる運河の開削は内陸都市ガンを海に直接結びつけました。こうして、工業化と物流インフラの拡充が、都市の新たな成長エンジンになります。
1814年、米英戦争(いわゆる1812年戦争)を終わらせる講和がガンで行われ、「ガン条約(Treaty of Ghent)」が調印されました。条約は戦前回復を原則とし、北米国境問題などの処理は後続の委員会に委ねられましたが、戦争終結の政治的舞台が中世都市ガンであったことは、同市の国際的な中立性と位置の良さを象徴しています。ナポレオン後、オランダ=ベルギー連合王国期を経て1830年にベルギーが独立すると、ガンは国内産業と教育の拠点として重要性を増し、1817年創設のヘント大学(Ghent University)は研究と技術教育で国際的評価を高めました。
文化遺産の面では、ガンの旧市街が見せる中世的都市景観が特筆されます。ベフロワ(鐘楼)と織物会館は都市自治の記憶を刻み、聖バーフ大聖堂は宗教美術の至宝を所蔵します。「ヘントの祭壇画」は宗教改革・戦争・略奪・返還をめぐる数奇な運命をたどり、そのたびに絵画と都市の歴史が交錯してきました。近代には保存修復の思想が定着し、戦禍や盗難から文化財を守る体制が整えられます。運河沿いの倉庫群や商館、橋梁のデザインは、今日も観光と日常の生活空間を結ぶランドスケープを形成しています。
総じて、ガン(ヘント)は「水の交差点に生まれ、毛織物で栄え、自治と反乱を繰り返し、帝国と宗教のはざまで選択を迫られ、近代に運河と学術で再起した都市」といえます。都市の歩みは、ヨーロッパの政治・経済・文化の広域的な変化を映す鏡であり、個々の事件―アルテフェルデの市政、ガン和約、ガン条約、ファン・アイクの祭壇画―がその節目を鮮やかに物語っています。名称については、フランス語の「ガン(Gand)」、オランダ語の「ヘント(Gent)」、英語の「Ghent」が併存し、時代や文脈で使い分けられてきました。いずれの名で呼ばれても、指し示すのは同じ水都の歴史的実体であることを押さえておくと理解がスムーズです。

