甘英(かんえい)は、後漢時代の97年ごろ、西域都護の班超(はんちょう)に派遣されて「大秦(ローマ帝国)」との直接交渉を目指した使者です。結果としてローマ本土には到達しませんでしたが、パルティア領内を横断してペルシア湾岸部まで到り、航海情報や各地の産物・制度に関する報告を収集しました。彼の行は、漢帝国が中央アジアの秩序をおおむね掌握し、西方世界との結節を現実に構想した最初期の試みとして位置づけられます。後漢書などに残る記述は断片的ながら、当時の地理認識、海上交通(季節風航海)、東西交易の実態をうかがわせる重要な手がかりを提供しています。本稿では、派遣の背景、旅程と到達点、目的と収集情報、史料上の比定と評価を、分かりやすく説明します。
甘英の事跡は、しばしば「もし海を越えていたら東西直通の外交が成立していたかもしれない」というロマンとともに語られます。しかし、彼の行動を現実の歴史として見ると、中央アジアの政治勢力図、パルティアの仲介権、インド洋の季節風航海という三つの壁が立ちはだかっていたことが見えてきます。つまり、到達できなかったこと自体が、当時の東西交流の限界と条件を雄弁に物語っているのです。
派遣の背景―後漢の西域経営と「大秦」への視線
甘英の派遣は、後漢の西域統治が再建されつつあった時期の産物です。前漢末から新(王莽)の動乱を経て、西域のオアシス諸国は一時漢の影響圏を離れましたが、光武帝ののち、班超がカシュガル(疏勒)やホータン(于闐)、亀茲などの諸国と外交・軍事を組み合わせて関係を再構築し、西域都護として交通の安全と徴発体制を整備しました。楼蘭や車師前後国に対する介入、クチャ・カシュガル間の路線維持など、いわゆる「西域経営」の主軸は、隊商路の保全と情報の掌握にありました。
この再編過程で、漢はそれまでの「匈奴対策」という安全保障の視点に加え、利益の大きい遠隔交易を視野に入れます。中央アジアからは良馬・宝石・香料・ガラス器・織物などが流入し、中国からは絹や漆器、鉄製品が出ていきます。これらの交易はパルティア(安息)やクシャーン(貴霜)などの強国が中継利権を握っており、漢から見れば「西の果て」にいると想像された巨大な文明圏――「大秦」――と直接結ぶことは、象徴的にも実利的にも大きな意味を持ちました。大秦は後漢書などで「屋宇宏麗」「律令整う」「海西の大国」と描かれ、しばしばローマ帝国と同定されます。甘英の派遣は、このイメージの確かめと実際の連絡線の開拓をめざしたものです。
人選としての甘英は、長途の行路に耐え、交渉と記録に通じた人物であったと推測されます。班超配下の要員は、武断一辺倒ではなく、各オアシスの権力者や商人と対話し、贈与・婚姻・人質などの多様な手段を用いる実務家でした。甘英もまた、武威に頼るよりは路線の目付け役として、宿駅・水場・関所の状況、賦課や関税の実際、現地支配者の機嫌や対外関係を観察して歩いたと見られます。
旅程と到達点―パルティア横断からペルシア湾岸へ
甘英の旅程について、後世の研究ではヘラート方面(阿蠟国や条支の比定)からメソポタミア低地へ至り、最終的に「濡海」と呼ばれる大海の岸、すなわちペルシア湾岸まで達したと解釈されることが多いです。彼が通過したとされる地名は史料上に漢字音写で現れ、安息(パルティア)統治下の諸都市、あるいはその従属勢力を指していると考えられます。オアシスごとに関税と警備が敷かれ、キャラバンの安全は支配者と契約した護送によって担保されました。
ペルシア湾岸に至った時点で、甘英は「西へ海を渡れば大秦に到る」という情報に直面します。インド洋・アラビア海の航海は、当時すでに季節風(モンスーン)を利用した長距離航行が一般化していましたが、漢側から見れば未知の海域であり、加えて船乗りや仲介商人は彼に対し、航海の危険や日数の長さを強調したとされています。これは純粋な安全上の理由だけでなく、パルティアや沿岸都市にとって中継貿易の独占が死活的利益であったため、東西の直通を妨げる意図が働いた可能性が指摘されています。
結果として甘英は海を渡らず、陸路を引き返して報告をまとめました。この判断は、遠征隊の補給や命令系統、帰還までの安全を考えれば合理的でした。仮に出帆しても、当時の中国側には紅海・地中海との接続港湾や補給拠点、通訳・交渉の人的ネットワークが欠けており、たとえ大秦領の港(おそらくエジプト方面)に到達しても、その後の交渉を成功させる見込みは低かったでしょう。甘英は「到達できなかった使者」ではなく、「到達の条件と障害を可視化した偵察者」と捉えると、行動の意味が明瞭になります。
目的と収集情報―制度・産物・航路・距離の知
甘英の派遣目的は、第一に大秦への朝貢・通交の可能性調査、第二に西方諸国の制度・物産・軍事力・交通路の情報収集でした。報告の内容には、各地の王権の在り方、城郭や官吏の制度、徴税の方法、使用貨幣や度量衡、特産品、家畜と作物、隊商路の宿駅間距離など、実務に資する具体的事項が含まれていたと考えられます。これらはのちの『後漢書・西域伝』などに整理された「大秦国志」の素材ともなり、ローマ帝国の都市の壮麗さ、道路や橋の整備、法の秩序、産出品としてのガラス器、象牙、真珠、珊瑚、葡萄酒などの記述と響き合います。
また、海上航路についての情報収集も重要でした。アラビア海・インド洋では、夏は南西季節風、冬は北東季節風を利用して往復する技術が広く知られていました。出帆の月、所要日数、寄港地の水や食料、海賊や暗礁の危険など、航海術にかかわる知識は、内陸帝国の使節にとって理解が難しい領域でした。甘英は湾岸で得た情報をもとに、海の広大さと未知のリスクを強調する報告を上げたとされ、これが帰還・撤退の決断にも影響したと考えられます。
産物については、香料(乳香・没薬)、宝石(瑪瑙・紅玉)、ガラス、金銀器、良馬などが挙がります。特にガラス器は、ローマのコアガラスや吹きガラス技術が生み出す透明性と造形で東方の人々を驚かせ、中国史料でもしばしば「瑠璃」とともに言及されます。これら高付加価値品の多くは中継地で価格が跳ね上がり、中間勢力の利潤となっていました。甘英の報告は、こうした価格差と物流の実態、沿道の関税体系を明らかにした点で、経済的価値がありました。
史料と比定―どこまで行き、何を見たのか
甘英に関する一次情報は限られ、主として後漢の正史や地理志の断片、後代史家の引用によって伝わります。そこでは「条支」「濡海」「安息」などの語が現れ、相互の位置関係から、彼がペルシア湾北端、メソポタミア下流域の港市(たとえばカラクス・スペシヌ=現在のアル・ムハンマル付近)にまで到達した可能性が高いと推測されます。ここはチグリス・ユーフラテス両河の河口域に位置し、パルティア支配下で紅海・アラビア海・インド洋の海路とメソポタミア内陸の陸路が接続する要衝でした。
一方で、史料本文は地名音写の揺れが大きく、単純な比定には注意が必要です。オアシス名や小王国名は時代によって変化し、同じ表音でも複数候補が存在します。さらに、当時の「大秦」像は東からの伝聞が蓄積した結果であり、ローマ帝国の実像と完全に一致するわけではありません。都市の壮麗さや法の整備といった叙述は総論として的確ですが、細部ではバビロニアやシリアの都市文化、エジプトの繁栄、パルティアの制度などが混在して伝わった可能性があります。甘英が目にしたのは「ローマ帝国そのもの」ではなく、ローマと結びつく広域経済圏の東端の表層であったと理解すると、史料の読みは安定します。
また、「船乗りが故意に脅して海を渡らせなかった」という伝承は、交易独占の維持という現実的動機からは十分に理解できますが、政治的安全保障の観点も無視できません。ローマ帝国は当時、東方でパルティアと抗争を繰り返しており、漢の使者がローマと直接関係を結べば、パルティアの外交的地位は低下します。沿岸勢力がこれを避けたいと考えても不思議はありません。甘英の帰還は、こうした国際政治の力学が前景化した結果でもありました。
評価とその後―東西直通構想の先駆と限界
甘英の試みは、実現しなかったがゆえに軽視されがちですが、戦略偵察としては大きな成果を残しました。第一に、後漢政権は西域からさらに外縁へ伸びる情報線の具体像を把握できました。第二に、海上航路の知識とリスク評価が更新され、陸海複合の連絡案の現実性が検討可能になりました。第三に、パルティアの仲介独占という構造的障壁が明確化し、以後の外交・交易政策にとっての前提条件が整いました。これらは、のちの世紀におけるシルクロード網の持続と変容、クシャーン経由の交流、ササン朝・ローマの対立などを理解するうえで欠かせない視座です。
「もし甘英が海を渡っていたら」という仮定は魅力的ですが、仮に紅海・エジプトの港に到達できたとしても、言語・法制度・外交作法の違い、補給・通訳・安全保障の欠如は致命的な障害でした。遠隔地外交は単に距離を克服するだけでなく、連絡線上に複数の友好拠点と協力者を用意することが必要です。甘英の派遣時点で、漢は中央アジア内のネットワークを再建しつつあったものの、海上にそれを持っていませんでした。したがって、彼の判断と帰還は、当時の制度・資源配分の現実に照らせば妥当だったといえます。
その後、中国とローマ世界の間では、直接の外交使節よりも物品と情報の間接的往来が続きます。中国側にはローマからの使節に関する記録(おそらく民間商人や中間勢力の派遣と混同)が散見され、ローマ側では「セリカ(シナ)」の絹が高価な嗜好品として流通しました。地中海とインド洋を結ぶ「季節風貿易」は、ローマ帝国の東方属州と南アラビア・インド西岸を結び、さらに陸路で中央アジアへつながりました。甘英の足跡は、この巨大な物流ネットワークの東端で、国家がどこまで関与できるかの限界線を描いたものでもあります。
名前の混同にも注意が必要です。甘英(かんえい)は後漢の使者であり、同時期に活動した班超・班勇(班超の子)と混同されることがありますが、役割は別です。また、同じ「甘」の字を持つ人物や、音が似る「甘延」などを誤って参照する例もあります。史料に当たる際は、派遣主が班超で、目的が大秦への接触であること、そして年代が建初末から永元初年ごろであることを確認するのが確実です。
総括すると、甘英は「到達しなかった使者」ではなく、「到達可能性を測った先遣隊長」でした。彼の報告は、地理・経済・外交の三つの座標軸の交点で東西交流の条件を描き出し、後代の想像力と研究を刺激し続けています。甘英の名が史書に見えるとき、そこには一人の旅人の物語を超えて、帝国が外部世界をどう認識し、どう関与しうるかを探る試行の歴史が刻まれているのです。

