韓国の保護国化 – 世界史用語集

「韓国の保護国化」とは、20世紀初頭に大韓帝国(当時の表記で「韓国」)が日本の強い圧力のもとで外交権を奪われ、対外的主権を喪失して日本の保護国とされた過程を指す言葉です。決定的な節目は1905年の第二次日韓協約(乙巳条約)で、この条約により京城(ソウル)に日本の統監府が置かれ、以後の条約締結や外交交渉は日本が代行する体制になりました。背景には、日露戦争の勝利により朝鮮半島での日本の優越権を国際的に既成事実化したこと、列強が「保護国」や「勢力圏」という名目で弱体国家の主権を切り分けていた当時の国際環境、そして韓国側の財政・軍事・外交の脆弱さが重なっていました。保護国化は、条約文のうえでは「日本が韓国を指導・監督する」という穏当な表現で包まれましたが、実際には警察・司法・財政・軍事に及ぶ広範な介入と強制を伴い、義兵運動などの全国的抵抗と深刻な社会的動揺を引き起こしました。最終的にこの体制は1910年の韓国併合条約へとつながり、保護国はわずか数年で「完全な編入」へ移行しました。本稿では、保護国化の背景、条約の連鎖と制度、介入の実態と社会の反応、そして国際法上の評価と結末を、できるだけ分かりやすく整理して解説します。

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背景と国際環境―勢力圏の論理と日露戦争の影響

19世紀末の東アジアは、列強が港湾や関税、鉱山や鉄道の利権を競って奪い合う「勢力圏」時代でした。清朝の弱体化や朝鮮の政情不安につけ込み、列強は条約を通じて経済的・軍事的な足場を築いていきます。朝鮮は1897年に大韓帝国を称し独立国家としての体面を整えましたが、財政基盤は弱く、軍制と外交の整備も十分とはいえませんでした。

こうした中で、日本は甲午戦争(日清戦争)での勝利を梃子に朝鮮への影響力を強め、さらに1904年に始まる日露戦争では朝鮮半島の軍事利用(兵站・鉄道・港湾)を不可欠の前提としました。戦時下の1904年2月、日韓議定書が結ばれ、日本軍の行動自由と施設使用が認められます。同年8月の第一次日韓協約では、外務・財政に日本人顧問を据え、その勧告を「尊重」させる規定が置かれ、韓国の政策決定に日本が恒常的に関与する扉が開きました。

日露戦争の終結にあたり、米英露など列強は日本の韓国における優越的地位を暗に・明に認めました。1905年の桂・タフト覚書や、英日同盟の改定はその象徴的事例で、列強間の合意と黙認が、韓国の対外的孤立を決定づけたのです。いわば国際政治の「外堀」が埋められたうえで、保護国化の「内堀」が埋められていきました。

条約の連鎖と制度―乙巳条約と統監府、第三次協約への接続

保護国化を確定させたのが、1905年11月の第二次日韓協約(乙巳条約)です。これにより、韓国は外交権を日本に委ね、ソウルに統監府が設置されました。統監(初代は伊藤博文)は外国公使との交渉・条約締結を一元的に担い、各国との外交関係は日本の管理下に置かれます。韓国は国際法上の独自の対外主体性を大幅に失い、事実上の保護国となりました。

条約成立の過程は、韓国社会に深い傷を残しました。高宗皇帝は強く抵抗し、皇帝の裁可を欠いたまま閣臣の押印で条約が成立します。宮中と官庁は憲兵・軍隊に包囲され、威圧のもとで手続きが進められたと多くの記録が伝えます。国内では「乙巳五賊」という言葉が生まれ、押印した大臣たちは激しく糾弾されました。

1907年の第三次日韓協約は、保護国体制を内政へと拡張しました。統監府は韓国政府の法令に対する事前承認権をもち、中央・地方の官吏任免に同意権を行使します。警察制度は統監府の指揮下に再編され、同年、韓国軍隊の解散が強行されました。皇城守備の兵士は武装解除に抗して一部が蜂起し、以後、各地で義兵運動が広がっていきます。司法・財政・通信・鉄道など要部門への監督も強化され、形式的には「助言」「監督」と称されながら、実質は直接統治に近い運用が常態化しました。

統監府は総務・警務・財務・司法・鉄道・通信などの部局を持ち、日本人官吏が要職を占め、韓国官僚を統制しました。顧問制度は決裁経路の要所を握る仕組みとして働き、韓国政府の独自判断の余地は急速に縮小しました。こうして、外交の代行から内政の包括的「指導・監督」へと、保護国化は段階的に深まりました。

介入の実態と社会の反応―外交通商・財政・警察・軍事、そして義兵

外交通商の面では、統監府が各国との条約・通商交渉を実質的に代行し、港湾と税関・関税率の運用を掌握しました。税関長や査閲官には日本人が多く配置され、関税収入や借款条件は統監府の指示に沿って配分されます。韓国の対外経済政策を自律的に設計する余地は狭まり、対日依存が構造化しました。

財政では、予算編成・出納・借款・国庫金の運用まで顧問と統監府の監督下に置かれ、地方財政も地租や雑税の整理の名目で再編されました。表向きは「財政整理」「近代化」でしたが、課税権・予算権という主権の中枢が事実上移譲され、韓国政府の裁量は著しく制限されました。

警察・司法では、警務顧問・警部長などに日本人が就任し、警察学校の教育、人事・懲戒、規則の制定を通じて組織文化が日本式に改変されます。検束・検閲・集会取締りが強化され、政治犯・言論犯に対する厳しい運用が広がりました。司法面での法典編纂や裁判所制度の形式的「近代化」は進んだものの、治安行政の裁量が司法の上に立つ構図が固定化しました。

軍事面では、1907年の軍隊解散が画期でした。これにより、半島の治安・国防は憲兵警察と日本軍が担う体制へ転換し、韓国の独自防衛能力は決定的に削がれました。鉄道・港湾・通信は日本軍の戦略運用に従属し、軍事インフラの優先順位も日本側の対外戦略に合わせて設計されました。

こうした介入に対し、社会の反応は激烈でした。1905年以降、全国で義兵運動が高まり、地方の士族・僧侶・農民・旧軍人が山間部に拠って武装抵抗を展開しました。統監府と日本軍は軍法会議・一斉検挙・討伐作戦で鎮圧にあたり、多数の犠牲者が出ました。都市部では新聞・雑誌への検閲と発禁、学校や宗教団体への監督強化が進み、言論と結社の自由は著しく制限されました。教育やインフラ整備など、近代的制度の導入が一部の利便をもたらした側面はあるものの、その運用は統制と同化の方向に傾き、人びとの間には屈辱と喪失の記憶が堆積していきました。

国際法上の評価と結末―同意の自由、無効論、併合への転化

乙巳条約と第三次協約の適法性は、当時から強い異議が唱えられました。高宗皇帝は1907年のハーグ万国平和会議に密使を派遣し、列強に保護国化の不当を訴えましたが、会議は代表権を認めず、国際世論の支持も得られませんでした。条約が軍事的威圧下で締結され、皇帝の批准を欠いた点は、今日の国際法原則(自由意思・代表権・批准手続)から見て重大な瑕疵と評価されます。

列強は、力の均衡と既成事実を優先して日本の保護国化を黙認し、法廷闘争には発展しませんでした。しかし、現代の歴史法学や倫理からすれば、「保護国」という語は支配の婉曲表現であり、主権の不可分性と自決の原則に反するものとして位置づけられます。韓国側では解放後、条約無効論が強く主張され、被害と抵抗の記憶は国家形成の核となりました。

1909年、初代統監の伊藤博文がハルビンで暗殺されると、統監府の政策は一段と強圧化し、1910年の韓国併合条約によって保護国体制は名実ともに消滅、朝鮮総督府による直接統治へ移行しました。保護国化は、外交権の代行から内政の包括監督へ、そして併合へ、という連続的プロセスとして完結したのです。

この過程を学ぶ意義は、法の言葉と現実の権力行使の乖離を理解することにあります。「助言」「監督」「保護」といった柔らかな語が、財政・警察・司法・軍事を通じてどのように実効的支配へ変わっていくのか。国際環境の黙認と内政の脆弱性が重なるとき、主権はどれほど容易に切り崩されるのか。保護国化の具体像を丁寧にたどることで、近代東アジアの権力と法の関係が立体的に見えてきます。