「カンボジア(真臘/しんろう)」は、中国側の史料に現れる古代〜中世初期のカンボジア地域の呼称で、扶南ののちメコン川中流域に勢力を伸ばしたクメール系政権を指す言葉として用いられます。一般には6世紀末ごろから8世紀末にかけての「前アンコール期」の国家群を総称し、のちにアンコール王朝を築く政治・宗教・言語・美術の基盤がこの時代に整えられました。中心はプレイ・クック遺跡で知られるイシャナプラ(イーシャナプラ、現サンボー・プレイ・クック周辺)に置かれ、サンスクリット語・古クメール語碑文が王権・寺院・土地制度の実像を伝えています。中国の唐代史料では「陸真臘」と「水真臘」という区分が記され、内陸のメコン上流域とトンレサップ湖・デルタに開かれた低湿地帯の二相からなる政治地理が注目されました。信仰はシヴァ神を中心とするヒンドゥー教(シヴァ派)を軸に、ヴィシュヌ信仰や仏教も受容し、山を神の座と見なす観念が後のアンコールの「神王(デーヴァラージャ)」思想へ継承されます。本稿では、呼称と成立の背景、地理・社会・経済の特徴、政治と宗教・文化の展開、周辺世界との関係とアンコール期への継承を、分かりやすく整理して解説します。
呼称と成立—扶南から真臘へ、前アンコールの舞台
「真臘」は中国史書に見える名称で、『隋書』『旧唐書』『新唐書』などが扶南の後継としてこの地域政権を記録します。クメール語の自称は「カンブジャ(Kambuja)」で、これがのちにカンボジアの国名語源となりました。6世紀後半、メコン川中流域で扶南の支配から自立した勢力が台頭し、7世紀にはイシャナプラを都とする王統が確立します。王名としてイシャナヴァルマン1世、バーヴァヴァルマン、ジャヤヴァルマン1世などが知られ、碑文は寺院創建、灌漑、土地寄進、祭祀といった王権の具体を伝えます。
この時期の政治は単一の中央集権国家というより、複数の在地勢力が宗教と血縁・婚姻を通じてゆるやかに結節した「ネットワーク型政体」でした。王は各地の寺院に神像を奉安し、土地と人びと(農民・職人)を寄進することで権威を可視化します。碑文では、寺院の維持のために労働や生産物が割り当てられ、寄進地の境界・負担が細かく記録されます。こうした宗教経済の組織は、後のアンコール期の巨大寺院経済の雛形になりました。
8世紀後半、内外の圧力や王統の断絶により政治は分化し、一部はチャム(チャンパ)・ジャワ(シャイレーンドラ)勢力との関係の中で再編されます。9世紀初頭、ジャヤヴァルマン2世がプノン・クーレンで「王の独立」を宣言し、アンコール王国の基礎を築いたと伝えられますが、その前史として真臘期の地理・制度・宗教観が重要な役割を果たしました。
地理・社会・経済—メコンとトンレサップが形づくる世界
真臘の社会を理解する鍵は、メコン川とトンレサップ湖の水文ダイナミクスです。トンレサップは雨季になるとメコンの逆流で面積を数倍に広げ、乾季には湖面が縮小します。この季節的な膨張収縮は、肥沃な堆積土を沿岸に供給し、稲作と漁撈を高度に補完する生業サイクルを生みました。洪水位に合わせて住居の高床化、舟運の発達、土塁・堤防・運河の建設が進み、地域社会は水を管理し読み解く力を育みます。
唐代史書の「陸真臘」は山地・台地の内陸部を指し、乾田稲作と林産物、象・樟脳・蜜蠟・樹脂などの交易品が出ました。「水真臘」は湖沼・氾濫原の低湿地帯で、水田・浮稲・漁労・塩づくりが栄えました。両者は政治的に対立する二国というより、水利と交通に応じて役割を分け合う地域複合体で、王権は往還路と水路を掌握することで影響力を広げました。
経済は農業を基盤に、内陸の森林資源、沿岸・湖の水産資源、そして遠隔交易で成立しました。サンスクリット碑文や中国側記録は、真珠・貝貨、香木、象牙、スズ、金、塩などの流通を示唆します。港湾は扶南時代からの海上ネットワークに接続し、チャムやシュリーヴィジャヤとの海上交易が外貨と物資をもたらしました。陸上ではメコン—ムン川—チャオプラヤ上流へ抜ける回廊や、ラオス方面の山地ルートが利用され、象の隊商や舟運が人・物・情報を運びました。
社会構造は、王族・祭司(バラモン)・官人・兵士・職人・農民などの階層が、寺院と領地を核にして結び合っていました。碑文は、寺院の維持管理に従事する専門職(踊り子、音楽家、香料製造者、書記、鍛冶)を列挙し、奉仕の義務や免税の範囲を明記します。女性の寄進者名も少なくなく、婚姻関係が政治的同盟の形成に使われた様子が読み取れます。言語はサンスクリットが威信言語として儀礼・称号・神名に用いられ、古クメール語が土地・税・労役など実務の記述に用いられました。
政治・宗教・文化—山と神と王、サンスクリット碑文と煉瓦寺院
真臘期の王権は、宗教と不可分でした。王はシヴァ神のリンガ(円柱状の象徴)を奉安し、山(プノン)を神の座と見なす観念に基づいて、聖域を整備します。イシャナプラ周辺のサンボー・プレイ・クックでは、煉瓦造の祠堂群(プラーサート)が格子状に配置され、砂岩の装飾、花綱文(ガーランド)、擬木構造の柱頭など、前アンコール様式の特徴が見られます。これは後のアンコール・ワットやバイヨンへ連なる美術語法の出発点でした。
宗教はシヴァ派が優勢ながら、ヴィシュヌ神の崇拝や大乗・上座の仏教も併存し、王や王妃・大臣の嗜好と政治的必要に応じて寺院が建立されました。リンガ奉安と寺院の寄進地設定は、王権の可視化と徴発の制度化を同時に担い、土地・水利・労働を宗教経済に組み込む仕組みが整えられます。祭司層(バラモン)は天文暦法・儀礼・法(ダルマ)の知識を提供し、行政の正当化に寄与しました。
碑文学はこの時期の第一級史料です。碑文には王の称号、系譜、戦勝、寄進、税免除、境界標識などが記され、サンスクリットの韻文と古クメール散文が併記されることが多いです。これにより、王権の理念(ダルマにかなう統治)と、現実の統治(村単位の徴発・労役・水利権)が一本の線で結ばれます。法律の条文化こそ限定的でしたが、境界標や罰則規定の記載は、領域と権利意識の形成をうかがわせます。
技術面では、焼成煉瓦と石材の複合、木造架構の石化表現、漆喰・スタッコ装飾などが発展しました。水利では土堤・貯水池(小規模なバライ)や運河の萌芽が見られ、雨季・乾季の水配分を平準化する工夫が始まります。これらはアンコール期に巨大なバライ(東バライ・西バライ)として飛躍的に拡張され、都市と寺院の持続性を支える生命線となりました。
周辺世界との関係と継承—チャム・ジャワ・唐とアンコールへの接続
真臘は外に開かれた政権でした。東方のチャンパ(チャム)とは、沿岸交易と内陸資源をめぐる競合・通婚・戦闘を繰り返し、ときに寺院を焼き、捕虜を連行した記録が残ります。南海のシュリーヴィジャヤ(スマトラ)やジャワ(シャイレーンドラ)とは、仏教遺物・銘文・様式の共通性が指摘され、8世紀にはジャワ側の影響がカンボジア沿岸に及んだ可能性も論じられます。これらの往来は、海上技術とモンスーンの読みを共有する知のネットワークの一部でした。
中国との関係では、隋唐期に朝貢・冊封の形式がとられ、使節の往来や地理・風俗の報告が史書に収録されました。中国側の「陸真臘・水真臘」認識は、現地の水文・交通・生業差を鮮やかに捉え、後世の研究の出発点となりました。唐代の外交儀礼は真臘の王権に権威の外装を与える一方、実際の政治は在地の寺院ネットワークに根ざして運営されました。
8〜9世紀の移行期、内陸の権力は分裂と再統合を繰り返し、ジャヤヴァルマン2世がプノン・クーレンで「諸国からの解放」と王統の独立を祭祀的に宣言したと伝えられます。この儀礼は「神王(デーヴァラージャ)」の観念を制度化し、王・山・神・土地を結ぶ統治理念を確立しました。真臘期に培われた山岳聖域の観念、リンガ奉安、寺院—領地—労役の有機的結合、水利の組織化は、そのままアンコール期の巨大都市・寺院群の基盤へと継承されます。
後代のアンコール・ワットやバイヨンを生み出す美術語法—砂岩の精密なレリーフ、山(須弥山)を象る伽藍構成、外周回廊と壕、ヴィシュヌやシヴァの神話浮彫、王の事績叙述—は、前史としての真臘期に胚胎していました。歴史を連続体として見るなら、真臘は「無から有」が生まれた瞬間ではなく、多様な在地社会と海上ネットワークが結節し、宗教と水と石がゆっくりと政治に形を与え始めた時代だったと言えます。
総じて、真臘(前アンコール期のカンボジア)は、メコン—トンレサップの水文学に支えられた生業、サンスクリットと古クメールの二言語文化、シヴァ神を軸にした宗教と寺院経済、そして周辺世界との動的な交流が織りなす複合社会でした。のちの「アンコールの奇跡」を理解するうえで、真臘という呼称の背後にある地域社会の厚みと、ゆるやかな国家形成のプロセスに目を向けることが欠かせません。碑文の一行、煉瓦の一枚、水際の土塁の一本が、王と神と民が作り出した世界の断面を今日に伝えているのです。

