カンボジア和平協定(通称:パリ和平協定、1991年10月23日)は、1970年代以降の内戦と冷戦構図に翻弄されたカンボジアの武力紛争を終結へと導き、国連暫定統治(UNTAC)・停戦・武装解除・難民帰還・総選挙の実施・人権保障の枠組みを定めた包括的合意を指します。内政と外交が複雑に絡むカンボジア問題を、当事者(カンボジアの4派)と周辺・大国(ASEAN、中国、ベトナム、タイ、米国、ソ連/ロシア、フランス等)が多国間で処理した点に特色があり、冷戦終結期の国連平和活動の転換点としても位置づけられます。協定は、主権の再確認、最高国民評議会(SNC)の設置、停戦と兵力の集結・武装解除、選挙と新憲法制定、人権と基本的自由の尊重、復興・再建の国際協力を柱としており、1993年の総選挙と立憲王政の復活へとつながりました。他方、クメール・ルージュの不履行や完全な武装解除の未達、地雷汚染、政治的緊張など、課題と限界も残しました。本稿では、成立の背景、協定の構造と主要内容、実施(UNTAC)と選挙、成果と限界、そして長期的影響をわかりやすく整理して解説します。
成立の背景—内戦・介入・冷戦の三重苦から多国間合意へ
1970年のクーデタで王政が倒れ(クメール共和国)、内戦が激化しました。1975年にクメール・ルージュ(民主カンプチア)が権力を掌握すると、都市強制疎開、集団化、粛清、飢餓が広がり、国境紛争を経て1978年末にベトナムが軍事介入、1979年にプノンペンを制圧しました。ベトナムが後押しするカンボジア人民共和国(PRK)が成立する一方、タイ国境沿いには民主カンプチア残存勢力、シハヌーク派(FUNCINPEC)、ソン・サン派(KPNLF)が結集して「民主カンプチア三派連合(CGDK)」を形成し、国連では長くこちらが代表権を保持しました。
ASEAN諸国はベトナムの占領状態の早期終結と包括的政治解決を主張し、中国は主としてクメール・ルージュ側を援助、西側の一部はCGDKを支持するなど、カンボジア問題は東南アジアの地域秩序と米中ソの関係が交差する焦点でした。1986年以降、ベトナムのドイモイ、中国の改革開放、米ソ関係の緩和が進むと、外交環境は協議に向き始めます。1989年の第1次パリ国際会議は合意に至らなかったものの、ベトナム軍の段階的撤退、各派の対話、国連主導の関与への道筋が整いました。こうして1991年、第2次パリ会議で包括合意が結実します。
カンボジア側の当事者は4派—①国家カンボジア(旧PRK改称、通称SOC:与党系)②FUNCINPEC(王党派)③KPNLF(ソン・サン派)④民主カンプチア(クメール・ルージュ)—で、これに周辺・大国が署名国として加わりました。国内の正統性をめぐる対立は強かったものの、停戦・選挙・国連関与という大枠で利害が接点を見いだしたのです。
協定の構造—主権の再確認、SNC、停戦・武装解除、選挙、人権、復興
パリ和平協定は複数文書から成り、相互に補完し合います。要点は次のとおりです。
第一に、カンボジアの独立・主権・領土保全・中立・不干渉の原則の再確認です。外国軍の撤退と基地の不設置、周辺国の相互尊重がうたわれました。これにより、紛争の「外枠」を国際的に固定化します。
第二に、カンボジア国内の正統性の「傘」として、最高国民評議会(SNC)が設置されました。SNCは4派が代表を送り、国連との窓口・対外代表・政策承認の役割を担います。SNC議長にはシハヌーク殿下が就き、UNTACの活動はSNCの権威の下に行われるとされました。
第三に、停戦と軍の集結・武装解除(DDRの前段)が規定されました。各派の部隊は指定集結地に集合し、武器は登録・保管・削減され、戦闘員の動員停止と新規徴兵の禁止が課されました。地雷敷設の停止と除去協力も重要項目です。
第四に、自由で公正な総選挙の実施と、新議会が制定する新憲法に基づく政府樹立の道筋が示されました。選挙は比例代表制、秘密投票、国際監視の下で行われ、選挙法・政党登録・メディアの公平・治安の中立化がセットで求められました。
第五に、人権・基本的自由の保障が強調され、政治的迫害の禁止、表現・集会・結社の自由、司法の独立、恣意的拘禁の禁止などが明文化されました。UNTACには人権部門が置かれ、モニタリングと啓発が任務とされました。
第六に、復興・再建・人道支援です。難民・国内避難民の安全な帰還(主にUNHCRが担当)、帰還後の生活再建、インフラ・行政・保健・教育の復旧が国際協力の課題として位置づけられました。
実施の枠組み—UNTACの権限と部門、SNCとの関係
協定に基づき、国連は「カンボジア暫定統治機構(UNTAC)」を設置しました。UNTACは当時としては前例の少ない広範なマンデートを持ち、①軍事部門(停戦監視・兵力集結・武装管理・地雷対処の支援)②文民警察(CIVPOL:治安部門の中立化監視)③選挙部門(有権者登録・投票実施・監視)④民政部門(行政監視・情報の自由化支援)⑤人権部門(監視・啓発)⑥情報部門(ラジオ放送・広報)⑦復興・帰還支援(UNHCR等と連携)といった多角的な構成でした。
特筆すべきは、UNTACが一部行政権の監督・是正権限を持ち、現地行政の不当干渉・偏向的運用があれば介入できるとされた点です。これは、単なる停戦監視を超えて「選挙が公正に行われる環境」を作るための制度的保障でした。SNCは国家主権の象徴として位置づけられ、UNTACはSNCの権威の下で実務を担うという二層構造が採用されました。
現地での運用は容易ではありませんでした。クメール・ルージュは幾度も合意履行を拒み、兵力集結や武装登録を妨げ、地雷敷設や威嚇行為を続けました。他方、国家カンボジア(SOC)側の行政・治安装置は規模が大きく、政治的中立の確保やメディアの公平化には粘り強い監視と交渉が必要でした。地雷汚染は深刻で、国連・各国の地雷対策機関(のちのCMACの前身など)が基盤づくりに着手します。
難民帰還と社会の再起動—UNHCR、地雷、復興の初動
タイ側のキャンプに長年滞在していた難民・避難民の帰還は、和平実施の可視的な成果でした。UNHCRは登録・輸送・受け入れ地の準備を進め、教育・保健・住居・生計支援と連携しました。しかし、帰還地の多くは地雷汚染と土地権利の混乱を抱え、農地へのアクセス、紛争地からの復員兵と住民の共存、基礎サービスの不足など、再定住は容易ではありませんでした。復興の初動は、道路の補修、橋梁の仮復旧、学校と保健所の再開、地方行政の再配置など、基礎からの立て直しに重点が置かれました。
人権部門は、恣意的拘禁や政治的暴力の監視、法教育、メディア研修、市民社会の育成に着手しました。情報部門は「ラジオUNTAC」を運用し、選挙や人権、地雷回避、帰還手続などの公共情報を多言語で放送しました。これらは、恐怖と流言が支配してきた社会を、公開的コミュニケーションで「再接続」する試みでもありました。
1993年総選挙と新憲法—立憲王政の復活へ
有権者登録は高い参加を得て、選挙運動は暴力の脅威をはらみつつも全国的に展開されました。投票率は非常に高く、国民の「戦争ではなく投票で将来を選びたい」という意思が示されました。結果、FUNCINPECが第一党となり、CPP(旧人民革命党系)と連立を組む形で政府が樹立されます。制憲議会は新憲法を制定し、立憲王政(国王はシハヌーク)が復活、基本的人権・複数政党制・権力分立が定められました。
選挙後も、政権運営をめぐる緊張、軍・警察の統合、人事配分、地方統治の再編など、多数の課題が噴出しました。クメール・ルージュは非合法化の道をたどり、一部は投降・和解、他は残存武装勢力として散発的襲撃を続けました。それでも、国家としての最低限の統治と国際関係の正常化は前進し、援助と投資、観光と文化復興、教育と保健の再建が段階的に進みます。
成果と限界—「重いマンデート」の実験から学ぶこと
カンボジア和平協定とUNTACの成果として、(1)戦闘の全般的な沈静化と難民帰還(数十万人規模)(2)選挙の実施と新憲法制定(3)人権・メディア・市民社会の萌芽(4)地雷対策機関や行政・統計の基盤整備(5)国際的な承認と地域復帰、が挙げられます。これらは、破綻国家に近い状況から国家機能を再起動させるうえで決定的でした。
一方の限界として、(a)クメール・ルージュの不履行と武装解除の未達(b)治安機関の中立化の不徹底、恐怖と買収の政治文化の残存(c)地雷・不発弾の長期的被害(d)土地権利の混乱と社会的格差の固定化(e)選挙の「一度きり」では民主主義が根づかないという制度化の難しさ、が指摘されます。UNTACの行政監督権限は革新的でしたが、現地装置の実力・利害と衝突し、全面的な中立化は達成できませんでした。
また、「平和の配当」を公平に行き渡らせるための長期的制度改革—司法の独立、汚職対策、公共財政、地方分権、教育と保健の質—は、その後の世代に持ち越されました。1997年以降の政治的動揺や、クメール・ルージュ特別法廷による責任追及の遅延は、和平が「出発点」であり続けることを示しています。
長期的影響—多国間主義と国連PKOの転換点として
パリ和平協定は、冷戦終結期の多国間主義の象徴であり、国連PKOのマンデート拡大(「選挙実施」「人権」「帰還」「行政監視」)の出発点になりました。のちの東チモール、シエラレオネ、コソボ、南スーダンなど、文民保護・統治支援・選挙支援を含む複合型任務の先駆けとして参照されます。カンボジアの経験は、停戦監視にとどまらず「政治秩序を支える制度の一式」を暫定的に国際社会が肩代わりするモデルの可能性とリスク—コスト、主権、現地政治との齟齬—を同時に提示しました。
地域的には、ASEANの拡大・域内協力の深化、タイ・ベトナム・ラオスとの関係正常化、メコン開発枠組みの進展に資する環境を整えました。国内的には、立憲王政と多党制の枠組みが制度として定着し、経済開放と観光・縫製産業の成長が進む土台が築かれました。他方で、政治権力の集中と対立の処理、土地・環境・労働の問題は、今日まで継続する課題です。
総じて、カンボジア和平協定は、暴力の連鎖を止め、投票と法の枠組みによって政治競争を管理し直すための「国家再起動の設計図」でした。完全ではなく、継続的改善を要する設計図でしたが、長い戦争の後に「やり直す機会」をつくったという意味で、近現代の国際政治史とPKO史の中で際立つ意義を持っています。協定の条文とUNTACの運用から学べるのは、和平のカギは合意文書そのものだけでなく、信頼を積む現場の反復、透明な情報、社会の参加、そして長期的な制度づくりにあるということです。

