旧教とは、一般に宗教改革(16世紀)以後に新たに成立・発展したプロテスタント諸派(新教)に対して、従来からの西方キリスト教の主流すなわちローマ・カトリック教会を指して用いられる呼称です。言い換えれば、「旧教=カトリック」「新教=プロテスタント」という対概念として用いられてきた日本語の歴史的術語です。思想や制度の古新を価値判断として断じる語ではなく、宗教改革を境にした相対的な位置づけを示す名称です。現代では国際的にも国内的にも「カトリック」という固有名の使用が一般的であり、「旧教」は主に歴史叙述や近世・近代日本の文献に見られる用語だと理解しておくと誤解が少ないです。以下では、この語の成り立ちと意味の広がり、教義・制度の特徴、宗教改革後の展開、そして日本語史と日本社会との関わりについて、順序立てて説明します。
用語の成り立ちと歴史的背景――「旧」と「新」は何を区切るのか
「旧教」という言い方は、16世紀の宗教改革を歴史的分水嶺とみなす視点から生まれました。中世ヨーロッパでは、西方キリスト教の制度教会としてローマ・カトリックが支配的な位置を占め、公会議・教皇庁・司教制・修道制度が信仰生活を組織していました。16世紀、ドイツのルター、スイスのツヴィングリ、カルヴァンらが教義と教会制度の刷新を掲げる改革運動を起こし、各地の諸侯・都市の支持を得て既存の教会権威から離脱します。この新しい流れを、近代以降の日本語資料はしばしば「新教」と総称し、これに対して従来のローマ・カトリックを「旧教」と呼び分けました。
ここでいう「旧/新」は、時間的な先後と制度の連続性を指す記述上の区分であり、優劣や進歩・保守といった価値評価を自動的に含むものではありません。実際、宗教改革は旧教会の側にも大きな内的刷新(対抗宗教改革)を促し、教育・慈善・宣教・芸術など多方面で新しい活力を生み出しました。その意味で、「旧教」は静的に保存されただけの存在ではなく、歴史の中で再編と発展を繰り返してきた可変的な共同体でした。
また、「旧教」はギリシア正教(東方正教会)を指す語ではありません。日本語で東方の教会を指す時は「正教会」や「東方正教会」と表現するのが通例で、旧教という語は西方ラテン教会=カトリックに対応させるのが基本です。語の射程を誤らないことが重要です。
教義・典礼・制度の特徴――カトリックとしての顔
旧教=カトリックの中心的な教理は、公会議と教父の伝承、聖書と聖伝の結合を土台とし、信仰と行い、恩寵と自由意志の協働を重視することにあります。秘跡(サクラメント)は七つ(洗礼・堅信・聖体・ゆるし・病者の塗油・叙階・婚姻)とされ、ミサにおける聖体礼儀は典礼の中心です。聖人崇敬やマリア崇敬、煉獄の教えなど、救済史と共同体の交わりを立体的に捉える要素が体系に組み込まれています。
教会制度は、教皇を中心に全世界の司教団が共同体の教導職(マギステリウム)を担う仕組みで、各地域に教区が置かれ、その下に小教区が編成されます。司祭は秘跡を司る奉仕者であり、修道会(例:ベネディクト会、ドミニコ会、フランシスコ会、イエズス会など)は教育・宣教・学術・慈善の専門的ミッションを持ち、世界各地で学校・病院・救護施設を運営してきました。聖職者の独身制(ラテン典礼の規範)、聖像や聖遺物の礼拝(崇敬)といった実践は、共同体の霊性と感性を形作る重要な特徴です。
典礼は地域語化を進めつつ、普遍教会の規範に基づいて統一性を保ちます。音楽・建築・美術の領域では、ゴシックからバロック、近代の新古典や現代の多様な様式に至るまで、典礼空間の演出が信仰の体験を支えてきました。十字架、聖母子像、聖人像、ステンドグラス、パイプオルガンなど、視覚と聴覚の総合芸術が教理の体験的理解を助けるのが伝統です。
プロテスタント(新教)との比較で言えば、旧教は「聖書のみ」ではなく聖伝をも権威と認め、信仰義認論の理解にも差異があります。教会観でも、目に見える制度共同体としての教会とその教導職の権威を強調する点が際立ちます。聖餐(聖体)の理解では、カトリックは実体変化(パンとぶどう酒がキリストの体と血に「本質的に」変化する)を教え、これに対して多くの新教は象徴理解や霊的臨在の理解を採ります。こうした相違は、神学的論争の的であると同時に、礼拝の形、教会空間、信徒教育の内容に具体的な違いをもたらしました。
宗教改革後の展開――対抗宗教改革と世界宣教の二つの軸
宗教改革に直面した旧教会は、トリエント公会議(1545–63年)で教義の再確認と司牧・教育の改革を断行しました。聖書と聖伝の関係、義認、秘跡、聖職者教育(神学校制度)などが整備され、典礼の標準化と教会規律の刷新が進みます。これがいわゆる「対抗宗教改革(カトリック改革)」で、反撃というより内的更新の性格が強い運動でした。司教の巡察や説教の重視、教理問答の普及、信心会の組織化など、信徒の宗教教育と共同体の秩序づくりが図られました。
同時に、修道会と新しい使徒的会(とりわけイエズス会)は教育・知性・宣教のネットワークを地球規模で展開しました。イエズス会は大学・学院を設立し、古典教育と哲学・神学、人文学の体系的教授でエリート形成に貢献しました。宣教では、アジア(インド、日本、中国)、アフリカ、アメリカ大陸に活動を広げ、現地文化への適応(アコモデーション)を巡って大胆な試みを行いました。マテオ・リッチに象徴される中国宣教、フランシスコ・ザビエルに始まる日本宣教、パラグアイのイエズス会レドゥクシオンなどは、旧教が世界史に刻んだ独自の足跡です。こうした活動は、バロック芸術と結びついた鮮烈な宗教文化を生み、劇・音楽・図像を通じて信仰の体験を深めました。
一方で、宗教裁判や禁書目録、魔女裁判の時代に旧教世界が果たした抑圧的側面にも注意が必要です。信仰純化の試みは多くの地域で文化的緊張を生み、宗派間戦争(例:三十年戦争)や政治的対立と絡み合いました。それでも、17世紀後半以降には寛容と学知の対話が広がり、18世紀には啓蒙との緊張と交流が複雑な模様を描くことになります。19世紀には教皇権の再定位、労働問題への社会教説、カトリック復興運動が進み、20世紀には第二バチカン公会議(1962–65年)で典礼改革・エキュメニズム(教会一致運動)・現代世界との対話が大きく前進しました。ここでも「旧教」は静的ではなく、歴史的課題に応じて自己を更新し続けたことが理解できます。
日本語史と日本社会との関わり――「旧教」という言い方の来歴
日本における「旧教」という語の定着は、主に近世末から近代初頭の言論空間に由来します。戦国・安土桃山期の16世紀、日本にはポルトガル人宣教師とともにカトリックが伝来し、キリシタン大名の保護のもとで共同体が拡大しました。やがて江戸幕府は禁教政策を強化し、踏絵・宗門改め・キリシタン弾圧を進め、17世紀半ばには公然たる教会活動はほぼ消滅します。それでも長崎・天草などには隠れキリシタンの伝承が残り、民間信仰と折衷しつつ信念が継承されました。
幕末から明治初頭にかけて開国・条約体制の下で布教の自由が広がると、欧米からは「新教(プロテスタント)」の宣教師も来日します。この時期、知識人や新聞は、欧米の宗派区分を日本語に置き換えるために「旧教/新教」という対語を多用しました。とりわけ明治前期の宗教言論、教育現場の教材、地理歴史の教科書では、「旧教=羅馬(ローマ)派」「新教=改革派」といった図式が示され、カトリックとプロテスタントの違い(教皇の有無、聖人崇敬、告解、聖職者独身制など)が比較されました。
やがてカトリック教会自身の日本での制度整備が進み、「羅馬公教会」「天主教」などの表記は「カトリック」へ、信徒も「信者」から「カトリック信徒」へと用語が整えられていきます。20世紀以降の日本語では、学術的にも一般的にも固有名「カトリック」「プロテスタント」「正教会」を用いるのが標準で、「旧教」「新教」は歴史叙述上の便宜的呼称に後退しました。現代の実務や対話の場では「旧教」はやや古めかしく、時に当事者の自己称とずれるため、使用には文脈配慮が求められます。
日本社会との関わりでは、明治後期以降の教育・福祉・医療分野でカトリック修道会が果たした役割、文学・美術におけるカトリック表象(遠藤周作の小説、長崎の教会群、バロック音楽の受容など)、第二次世界大戦後の宗教間対話・平和運動への参加など、多面的な接点があります。隠れキリシタンの文化遺産の再評価、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の世界遺産登録は、近世禁教下の信仰継承という日本固有の歴史が、普遍宗教のローカルな姿として記憶されていることを示します。
語法上の注意として、「旧教」は価値判断を帯びない中立的記述語として使うのが原則です。歴史の文脈を離れて現代の信者共同体に対してこの語を当てると、望まない含意(古い/遅れたという印象)を与える恐れがあります。学習や記述では、時代・地域・文脈を明示し、「旧教(=ローマ・カトリック)」と括弧で明確化するなどの配慮が望ましいです。
まとめれば、「旧教」とは、日本語史に固有の呼称であり、宗教改革を境にローマ・カトリックを相対的に位置づけた言葉です。教理・制度・典礼の全体像はカトリックとして理解され、その歴史はトリエント以後の改革と世界宣教、近現代の社会的実践、第二バチカン公会議後の更新へと連続しています。学ぶ際は、単なる二分法に留まらず、旧教内部の多様性(修道会の違い、地域文化の差、典礼形の多様化)、新教側との対話と相互影響、東方教会との関係など、立体的な視野で捉えることが大切です。名称は歴史の窓であり、その向こうにある豊かな現実に目を向けることが、用語理解の要諦と言えるでしょう。

