教皇党(ゲルフ) – 世界史用語集

「教皇党(ゲルフ)」は、中世後期のイタリア諸都市やドイツ・教皇庁との関係でしばしば登場する政治的グループを指す名称で、簡単に言えば「皇帝(神聖ローマ皇帝)よりもローマ教皇の側につく」勢力の総称です。対立陣営は「皇帝党(ギベリン)」です。両者の対立は、都市の自治や商業の発展、叙任権闘争後の権威バランス、家門間の競争などが絡み合って生まれたもので、単純な宗教対政治の図式ではありません。イタリアの都市国家では、ゲルフはしばしば商人=金融業者・手工業ギルドの支持を得て、市民的な自治の拡大を後押ししましたが、都市や時期によって立場は変動し、内部で黒派・白派に割れることもありました。文学ではダンテの亡命の背景としても知られます。以下では、呼称の由来と成立、イタリア都市における展開、社会的基盤と文化的影響、衰退と遺産という流れで分かりやすく解説します。

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呼称の由来と歴史的背景――叙任権闘争の余波から都市政治へ

「ゲルフ(Guelfi)」と「ギベリン(Ghibellini)」という呼称は、ドイツの王家や地名に由来する異説があり、一般的には前者がヴェルフ家(Welf)に、後者がホーエンシュタウフェン家の拠点ヴァイベルク(Waiblingen)の名に関係するとされます。ともに神聖ローマ帝国の王権・皇帝位をめぐる競合から派生した呼称が、イタリアに輸入され、教皇支持/皇帝支持という対立軸と結びついて広がりました。

背景には、11世紀末~12世紀の叙任権闘争があります。これは司教・修道院長など聖職者の任命権を、教皇と皇帝のどちらが握るかをめぐる長い争いでした。和解(ヴォルムス協約、1122年)の後も、皇帝はイタリア支配の再編と都市への関与を続け、教皇庁は自立化する都市=コムーネと連携して皇帝の干渉に歯止めをかけようとしました。こうした環境の中で、都市内部の家門争い・経済利害と、上位権力の対立が重なり、ゲルフ/ギベリンの標識が「旗印」として機能し始めます。

とくにホーエンシュタウフェン朝のフリードリヒ1世(赤髭王)・フリードリヒ2世の対伊政策は、ロンバルディア同盟(1167年結成)など都市の連携を促し、教皇側への傾斜を強める契機になりました。教皇庁は都市や諸侯、修道会を通じて外交・経済で皇帝の圧力を相殺し、都市の自治と商業の自由を擁護する論理を提供します。この過程で、ゲルフ=都市の商人層・手工業者の代表、ギベリン=封建領主・皇帝派というイメージが定着していきます。

イタリア都市における展開――フィレンツェを中心に、黒派と白派

ゲルフとギベリンの対立が最も劇的に表れた舞台が、トスカーナをはじめとする中部・北イタリアの都市国家です。フィレンツェでは、13世紀後半にゲルフが台頭し、ギルド(職人・商人の組合)を基盤に市政の主導権を握りました。ゲルフ政権は、信貸・為替・毛織物業などの興隆を背景に、都市の行政・司法・軍事の近代化を進め、郊外のコムーネ連携や道路・橋梁の整備を推し進めます。

しかし、ゲルフ内部は一枚岩ではありませんでした。14世紀初頭、フィレンツェのゲルフは教皇庁との距離感と貴族勢力への姿勢をめぐって「白派(ビアンキ)」と「黒派(ネーリ)」に分裂します。白派は、教皇庁(当時アヴィニョン教皇庁)の過度の介入に慎重で、市民自治の自立性を重んじる傾向があり、黒派は教皇庁と密接に結んで国内の反対派を抑えようとしました。結果として黒派が一時的に優位に立ち、白派の有力市民や知識人が追放されました。詩人ダンテ・アリギエーリも白派に属し、1302年の亡命によって『神曲』の創作へと向かいます。

シエナ、ピサ、ボローニャ、ジェノヴァなど他の都市でも、ゲルフ/ギベリンの対立は、家門間の抗争、商圏の競合、農村支配をめぐる争いと絡み合って展開しました。シエナはしばしばギベリン色を強め、モンティ・デイ・パスキなど金融の伝統を育みながらも、対フィレンツェ関係で均衡を探りました。ジェノヴァでは地中海交易の覇権と海軍動員が派閥化の要因となり、教皇・皇帝・フランス・アラゴンなど外勢との関係が都市内部の連立に反映しました。どの都市でも、ゲルフ・ギベリンというラベルは、固定的イデオロギーというより、現実の利害と同盟関係を表す「政治の言語」だったのです。

ミラノやヴェローナのように、スフォルツァ家やスカラ家などのシニョーリア(僭主政)が成立すると、ゲルフ/ギベリンの対立は支配家門の外交選好に吸収されることもありました。教皇派に立つことが都市の利益にかなえばゲルフ、対外関係上皇帝との関係を深める方が得策ならギベリンというように、柔軟な切替が現実的に行われたのです。

社会的基盤・政策・文化への影響――商業都市の自治と表現世界

ゲルフの社会的基盤としてしばしば挙げられるのは、商人・金融業者・手工業者を束ねるギルド(アルティ)です。彼らは交易の自由、契約の安定、裁判の迅速化、道路・橋梁・港湾などのインフラ整備、通貨の安定といった政策を好み、教皇庁と結ぶことで皇帝・諸侯の過度の介入を抑制しようとしました。教皇庁は一方で、十分の一税・贖宥・裁治権などを通じて都市の宗教・経済に影響を及ぼし、都市は「自治の拡大」と「普遍教会への帰属」のバランスを取る必要がありました。

法制度の面では、コムーネの成文法(スタトゥート)が整備され、商事・手形・保険・海事法の発達を後押ししました。これらの制度は、のちの地中海世界や北欧のハンザの実務とも接続し、ヨーロッパの商業革命を支える一因となります。ゲルフ政権の下で、都市は徴税・兵役・司法の均衡を模索し、貴族の私闘(フェーデ)を抑えるための治安条例を制定しました。

文化への影響は、文学・美術・教育の広がりに見られます。ダンテ、ボッカッチョ、ペトラルカらの文学活動は、派閥抗争と都市生活の経験を背景に、言語(俗語イタリア語)の自立と公共性の言説を育てました。美術では、教皇派・都市派のパトロネージュが教会建築・フレスコ・祭壇画・市庁舎の壁画を生み、都市のアイデンティティを可視化しました。大学・スタジオーロにおける法学・修辞・会計の教育は、ゲルフ的な市民層の実務を支える基礎となりました。

同時に、ゲルフの名の下で行われた政治的排斥や財産没収、亡命の強制は、都市社会に深い傷を残しました。派閥対立はしばしば暴力化し、民兵動員・城門封鎖・報復が繰り返され、商業の停滞や連鎖破綻を招くこともありました。つまり、ゲルフの「市民自治の推進」と「共同体分裂のリスク」は常に表裏一体でした。

衰退と遺産――シニョーリア、大国政治、そして記憶の中のゲルフ

14~15世紀、イタリアの多くの都市でシニョーリア体制が定着し、メディチ家のフィレンツェ、スフォルツァ家のミラノ、ヴェネツィアの貴族共和国など、より安定した(あるいは硬直化した)支配体制が整うと、ゲルフ/ギベリンの旗印は実質を失っていきました。対外的にはフランス、スペイン、神聖ローマ帝国など大国の介入が強まり、イタリア戦争(1494年以降)の渦中では、従来の派閥名は新しい同盟関係に飲み込まれます。教皇庁も、アヴィニョン教皇庁とルネサンス・ローマを経て、領邦君主としての側面を強め、都市との関係は軍事・財政・外交の現実政治に引き寄せられました。

それでも、ゲルフという名が持つ記憶は長く残りました。都市の紋章や史書には、ゲルフの勝利・敗北の年、追放者名簿、復帰交渉の記録が刻まれ、家門の伝承や地名にも痕跡が見られます。文学では、ダンテの政治論や『神曲』の地獄篇に描かれた同時代人の評価が、後世の派閥像に強い影響を与えました。近代の歴史家は、ゲルフを「市民的自由と商業の代表」、ギベリンを「封建的秩序と皇帝権の代表」と類型化して語る傾向がありましたが、近年は地域差・時期差・利害関係の複雑さを重視し、固定観念の見直しが進んでいます。

また、ゲルフ的な「上位権力に対する都市自治の拡張」という発想は、後世の市民社会や自治体の自立論と響き合う部分を持ちます。ギルドの政治参加、会計と文書の公開、法の成文化、合議制の工夫は、派閥対立の負の遺産とともに、ヨーロッパの都市文化に残された実務的な遺産でもあります。現代の観光都市に残る市庁舎、ギルドホール、教会、橋や広場は、その記憶を目に見える形で伝えています。

総じて、教皇党(ゲルフ)は、宗教的信念だけでなく、都市の利害・商業の自由・家門の競争・上位権力との駆け引きが絡む「中世都市政治のことば」でした。ゲルフを理解することは、ダンテの亡命の事情を知るだけでなく、コムーネの自治、ギルドの力、法と暴力のせめぎ合い、そしてヨーロッパの都市が近代へ向かう途上で経験した試行錯誤の全体像をつかむ手がかりになります。華やかな芸術や文学の背後で、旗と印章と文書が交差した現場を思い描くと、ゲルフという用語がより立体的に見えてくるはずです。