「我(アートマン, ātman)」は、インド思想における人間存在の核心を示す語で、呼吸・生命・自己・主体といった意味合いを帯びます。古代インドの宗教文献ヴェーダからウパニシャッドにかけて、その内容は「身体や心の変化に左右されない真の自己」「生の根源としての生命原理」「宇宙の根本原理(ブラフマン)と同一であるもの」など、多層的に語られてきました。歴史の中では、アートマンを肯定して解脱(モクシャ)を目指す立場と、「無我(アナートマン)」を説く仏教のようにこれを否定・再定義する立場が対照を成し、インド思想の枠組みを形づくってきました。アートマンを理解することは、輪廻と業(カルマ)の思想、解脱の方法、自己とは何かという根本問題を読み解く鍵になります。本稿では、用語と成立背景、諸学派の理解と差異、アートマン—ブラフマン関係と解脱、近現代を含む受容と再解釈の四点から、できるだけ平易に整理します。
用語と成立背景—呼吸から自己へ、ウパニシャッドの転回
アートマンという語は、原義的には「呼吸するもの」「生命あるもの」を意味し、やがて「自己」「主体」の意味が前景化しました。最古層のヴェーダ讃歌では、神々や宇宙全体にもアートマンがあると語られ、生命の内的中心を示す広い用法が見られます。祭祀と宇宙秩序(リタ)に重心があった時代から、内面の探求へと視線が移るのがウパニシャッド期です。ここでアートマンは、感覚・思考・記憶といった変転する働きの背後にあって、それらを支える不変の基盤として描かれます。
ウパニシャッドの有名な命題に「それは汝なり(タット・トヴァム・アシ tat tvam asi)」があります。これは、宇宙の根本原理ブラフマンと、個人の内なる自己アートマンが本質的に同一であるという洞察を端的に示す句です。自己の核心は、身体でも心でも社会的役割でもなく、宇宙の根源的な実在と同質である—この転回が、外的儀礼中心から内的認識中心への思想的移行を後押ししました。ここでのアートマンは、特定の個性や記憶の塊ではなく、観照と気づきの純粋な基盤として理解されます。
この内面化は、輪廻と業の思想とも結びつきました。生は因果の連鎖のなかで生まれ変わりを繰り返し、無知(アヴィディヤー)によって自己を身体や心に誤認する限り、苦しみから自由になれないとされます。では、何が解放をもたらすのか。ウパニシャッドは、真の自己(アートマン)を直観・識知すること(知識=ジュニャーナ)によって、誤認が破れ、輪廻の束縛から離脱できると説きました。ここに、認識と修行、倫理と内観が重なり合う道が開かれます。
諸学派の理解—ヴェーダーンタ、サーンキヤ・ヨーガ、ジャイナ教、仏教の対照
アートマンの理解は、インド思想の各学派で大きく様相を異にします。まずヴェーダーンタ諸派は、ウパニシャッドの解釈学として展開し、アートマン—ブラフマン関係を正面から論じました。シャンカラの不二一元論(アドヴァイタ)は、究極的には実在は唯一(ブラフマン)であり、個別の自己(ジーヴァ)や世界の差別は無明による見かけにすぎないとします。悟りとは、自己がブラフマンであると「知る」ことで、そこに行為や帰依の手段が最終的に必要だというより、知識の光で無明が消える出来事として描かれます。
これに対して、ラーマーヌジャの限定的不二論(ヴィシシュタ—アドヴァイタ)は、アートマンはブラフマンの中に包摂されつつ固有性を失わないと主張しました。個我は神(ナーラーヤナ)の身体の一部のように位置づけられ、愛と帰依(バクティ)によって解脱へ至る道が強調されます。さらにマードヴァの二元論(ドヴァイタ)は、アートマンとブラフマンは本質的に別であり、神の恩寵によって救済されるという関係を明確にします。こうして、アートマンの同一・包摂・差別という三つの枠組みが、ヴェーダーンタ思想の骨組みを形づくりました。
サーンキヤ学派では、宇宙は純粋な見る者プルシャ(精神原理)と、変化を生むプラクリティ(根本質)の二元から成るとされます。ここで個々の主体は多数のプルシャとして想定され、各プルシャは本来不変・純粋ですが、心身の働き(プラクリティの変容)に自らを重ね合わせて苦を生みます。解脱は、プルシャが自他(心身)を識別して純粋な観照へ戻ることです。ここでのプルシャは、アートマンに近い働きを担いますが、ブラフマンのような宇宙的一者とは結びつきません。
ヨーガ学派(パタンジャリ『ヨーガ・スートラ』)は、サーンキヤの枠組みを採用しつつ、実践体系を整えました。八支則(禁戒・勧戒・坐法・呼吸・制感・集中・静慮・三昧)を通じて心の波立ち(チッタ・ヴリッティ)を静止させ、プルシャが自らの本性に安住することを目標とします。ここでも「観照者(ドラシュトゥリ)」としての自己が強調され、アートマン的な側面が実践の中で体験的に目指されます。
ジャイナ教は、無数の個別的な生命原理「ジーヴァ」を認め、それぞれが業の微粒子に覆われて曇っていると捉えます。苦行・倫理・瞑想によって業粒子を落とし、ジーヴァは本来の光明・遍在性を回復して解脱に至るとされます。ここでの自己は固有の個別性を保持し、永遠に存続する点が特徴です。
仏教は、これらと対照的に「無我(アナートマン)」を基本教義とします。人間は五蘊(色・受・想・行・識)の集まりであり、その背後に独立不変の主体はないと説かれます。執着の対象としての「我」がないことを見抜く智慧が、苦の原因(無明・渇愛)を断つ鍵とされます。もっとも、後期の仏教ではブッダの悟りの体験を説明するために、如来蔵・仏性といった概念が現れ、言語上はアートマン的に読める表現が登場しますが、伝統的にはこれを「実体的我」の肯定と同一視しない慎重な解釈が守られてきました。
アートマンとブラフマン、業・輪廻・解脱—認識と実践の接点
アートマンの教説は、業と輪廻の枠組みの中で具体性を持ちます。行為は心身に傾向性(サンスカーラ)を刻み、生の持続と関係性の網を通じて結果(カルマ・ヴィパーカ)をもたらすとされます。自己を身体や心と誤認している限り、私たちは「私の行為」「私の結果」に縛られます。ここでアートマンへの洞察は、誤認を解く鍵として位置づきます。行為の連鎖を全否定するのではなく、行為の主体理解を転換することで、結果への執着を超え、心の自由が広がるという発想です。
解脱(モクシャ)への道は、一枚岩ではありません。ウパニシャッド以来、知(ジュニャーナ)の道、行(カルマ)の道、愛(バクティ)の道が相補的に語られます。不二一元論では、究極的には「知」が中心ですが、現実の修行段階では倫理・瞑想・神への帰依が不可欠とされます。神への愛を通じて自己中心性が薄れ、行為の無私化が進むと、自己理解が変容し、アートマンへの識知が容易になると説明されます。ヨーガでは、呼吸・姿勢・集中の技法を通じて、観照者としての自己が直接体験されるよう設計されています。
「アートマン=ブラフマン」の同一命題は、誤解されやすい箇所でもあります。これは、個人の記憶や性格が宇宙神と「混ざる」という意味ではなく、認識主体としての「気づきの場」が本質的に普遍である、という比喩的表現として読むのが一般的です。波が海と同一であるのは、波の形が海に溶けるからではなく、そもそも波の実体が水であるのと同様だ、という説明が古典にも見られます。個別性は現象のレベルでは実在し、倫理や社会に意味を持ちますが、究極のレベルでは実在の基盤は一つである—この二重の視点が、多くの注釈家によって守られてきました。
死後観の点でも、アートマンは重要です。伝統的には、徳や知に応じて異なる径路をたどるとされ、知の完成者はブラフマンの境地に帰入し、輪廻に戻らないと語られます。他方で、バクティの伝統では、人格神のもとに到達する親密な救済図が描かれます。多様な救済観が併存しうるのは、アートマンをめぐる解釈が「唯一の正解」ではなく、修行者の資質と実践に応じた複数の道を許容してきたからです。
受容と近現代の再解釈—近代ヒンドゥー思想、比較思想、心理学・瞑想との接点
19世紀以降、植民地支配と学術の言語化を背景に、アートマン概念は新しい局面を迎えます。ラーム・モーハン・ローイやヴィヴェーカーナンダらは、ウパニシャッドの普遍主義的読解を前面に押し出し、宗教間対話や道徳教育の文脈でアートマンを「普遍的霊性」「良心の声」として再解釈しました。これにより、ヒンドゥー教は多神的儀礼の宗教という固定観念を越えて、内的探求の哲学として世界に紹介されます。
西洋哲学・宗教学でも、自己の問題としてアートマンは議論されてきました。実体としての自己を退ける潮流(ヒューム、近現代分析哲学の一部)と、統覚・意識の統一を重視する潮流(カント、現象学)の双方が、アートマン/無我の比較研究を刺激しました。心理学・精神療法の領域では、フロイト以降の自我概念の再検討、ユングの自己(セルフ)象徴、トランスパーソナル心理学やマインドフルネス実践において、インド思想の瞑想的自己理解が参照される場面が増えました。ここで注意すべきは、アートマンは単純に「自我を強める」概念ではなく、むしろ自我の同一化から自由になる方向を指し示すという点です。
現代のヨーガや瞑想の実践では、呼吸・姿勢・集中を通じて「気づいていることに気づく」体験が重視されます。これは、アートマンを「感じ取る」こととは異なりますが、観照性の回復という点で接点があります。加えて、倫理(アヒンサー=非暴力、サティヤ=真実など)を生活に根づかせることが、自己の静けさと共同体の健全さを同時に支えるという発想は、古典の枠組みとよく響き合います。宗教的帰属の有無にかかわらず、自己を「所有物」ではなく「気づきの場」として扱う態度は、多文化社会における対話の素地を提供します。
一方、近代以降の解釈はしばしば単純化の危険も孕みます。アートマンとブラフマンの同一を、倫理や社会責任から切り離した抽象的合一感として消費してしまうと、伝統が重視した規律・言葉・共同体の支えが見えなくなります。古典の注釈家は、認識・行為・帰依・瞑想が相補的であること、師弟関係とテキストの文脈が理解の鍵であることを繰り返し強調しました。現代的応用にあっても、この全体性を尊重する読みが求められます。
総じて、アートマンは「私」という経験の地平を問い直すための古典的語彙です。呼吸として始まり、自己として深まり、宇宙原理との関係において開かれていくこの語は、インド思想の多様性の中でさまざまに形を取りながら、人間の苦と自由の問題に向き合ってきました。歴史的解釈の幅を踏まえつつ、用語の精度と実践の具体性を大切にするならば、アートマンという古い言葉は、現代の私たちにもなお穏やかに語りかけ続けるはずです。

