金(きん)は、12~13世紀に中国北部を支配した女真(じょしん)族の王朝で、遼(契丹)を滅ぼし、南宋と対峙しながら華北に強大な国家を築いた存在です。いっぽう「後金(こうきん)」は、17世紀初頭に建州女真のヌルハチが建てた国家で、のちに国号を「清」と改めて中国全土を支配する王朝へ発展しました。つまり、同じ「金」という語が、①中世の女真王朝(金、1115~1234年)と、②近世初頭の女真国家(後金、1616~1636年)を指し、後者は清へつながる前段階の名称である点が重要です。
金は、北方の遊動・半遊動社会の軍事力を背景に急拡大し、征服先の農耕地帯における税制・官僚制を巧みに取り入れて支配を確立しました。宋との複雑な外交や、遼・西夏との三角関係、最終的にはモンゴル帝国の台頭による滅亡という流れは、東アジアの国際秩序が大きく組み替わるダイナミズムを象徴しています。後金は、八旗と呼ばれる軍政一体の組織によって部族連合を近代的な統合国家へと再編し、明の動揺を突いて勢力を広げ、ホンタイジの代で「清」に改称して本格的な征服王朝へと歩みを進めました。以下では、まず中世の金の成立と支配、南宋・モンゴルとの関係を整理し、続いて後金の誕生から清への改称までをたどります。
成立と拡大:女真の蜂起から華北支配へ(中世の金)
12世紀初頭、満洲一帯に居住していた女真諸部は、狩猟・漁労・牧畜・簡易農耕を組み合わせた生活を営みつつ、契丹(遼)や高麗、宋などと交易や朝貢関係を結んでいました。女真の完顔部の指導者アグーダ(完顔阿骨打)は、遼の圧迫から自立する形で1115年にハルハ川流域で建国を宣言し、国号を「金」としました。金という名称は、女真の故地に産する金や神聖な川の名にちなむとされ、部族連合から王朝国家への一歩を象徴します。
アグーダは、女真の騎射に長けた戦闘力と、機動力の高い軍編成を強みに連戦連勝を重ね、遼の領域を急速に蚕食しました。遼に対しては、契丹支配下の漢人・渤海人・高麗人の不満を巧みに取り込み、城邑の攻略と人心の掌握を並行して進めました。1125年にはついに遼を滅ぼし、遼が保ってきた華北・満洲・内モンゴル方面の支配権を奪取します。遼と対立していた北宋は当初、金と同盟して遼を南北から挟撃する「海上の盟」を結びましたが、利害の行き違いと軍事力の差が顕在化し、やがて金は北宋との対決に踏み切ります。
1126~27年の靖康の変で、金軍は宋の都開封を陥落させ、徽宗・欽宗ら皇族・官僚・工芸者多数を北方へ連行しました。北宋は滅亡し、長江以南に退いた残存勢力が南宋を樹立します。金は河北・山東・山西・陝西の広大な華北を掌握し、山海関以北の遼東・満洲にも深く根を張りました。この段階で金は、騎馬軍事力を背景に中国北方最大の強国となり、南宋との間に長期的な対峙と講和・和戦の繰り返しが生まれます。
金の拡大は単なる略奪ではなく、征服地の行政を整備して税収と人材を取り込むものでした。捕虜として移送した工匠は宮廷の工房で技術を発揮し、銅銭や布帛の流通量は華北の都市経済を支える基礎となりました。宋の学官・文人も登用され、漢文官僚制の要素が吸収されていきます。こうして金は、遊動の機動力と定住農耕社会の行政技術を組み合わせる複合的な国家へと変貌しました。
支配の仕組みと社会:二重統治、制度、文化の交錯
金の統治は、女真本来の部族的慣習と、漢地の官僚制・法令を組み合わせた「二重統治」が特徴です。征服者である女真は軍事・要職を担い、漢人・契丹人・渤海人・高麗人など被征服民は行政・税務・技術職で広く活用されました。人口規模や経済の中心が漢地にある以上、漢文による公文書と科挙的な選抜は有効であり、金朝も独自の科挙を整備して文人層を取り込みました。一方で、女真社会の戦闘集団は俸給と土地分配によって維持され、軍事貴族が王朝の骨格を形づくりました。
金は女真語の表記として女真文字(大字・小字)を整え、同時に漢文を公用の高級文書として積極的に使用しました。宗教面では仏教・道教が保護され、華北では宋以来の寺院経済が継続します。契丹文化・渤海文化の遺産も行政・儀礼に取り込まれ、宮廷儀礼や年号、律令格式の整備に反映されました。地方社会では、華北の地主層や都市の商人が税役負担の単位として再編され、治安・徴税・灌漑の枠組みが再構築されます。
対南宋関係では、国境の軍事拠点(堡塁)と交易拠点(榷場)が並立し、平時は塩・茶・絹・陶磁・金属器などの交易が活発化しました。長江・淮河の水運と黄河流域の陸運が結びつき、国境地帯は緊張と相互依存が交錯する経済圏となります。講和時には歳幣・互市が制度化され、戦争と和平が周期的に訪れる中で、商人たちは柔軟に利潤機会を見いだしました。
軍事制度では、女真の騎射部隊を中核としつつ、城郭戦に強い歩兵・工兵も整備されました。攻城兵器や火薬武器の使用も記録され、華北の要衝には多重の防衛線が敷かれます。金の宮廷は、遊牧の機動性を失わないために季節移動(幸行)を行い、北方草原と華北都市の双方に基盤を維持する工夫を続けました。これにより、王朝は従来の草原国家の柔軟性と漢地王朝の持続的統治を両立させようとしたのです。
文化面では、華北に移住した文人たちが金代の詩文・史書編纂に参加し、宋文化の多くが継承・変容されました。陶磁では定窯・磁州窯など北方系窯業が引き続き繁栄し、文房具・仏具・日用品の需要が王朝の保護のもとで拡大します。こうした生活文化の充実は、戦時下でも都鄙の市場を通じて浸透していきました。
衰退と滅亡:モンゴルの台頭、南宋との三角関係
13世紀に入ると、内外の要因が重なって金は徐々に不利な立場に追い込まれます。まず、黄河の流路変更や洪水・旱魃が華北経済に打撃を与え、税収が不安定化しました。さらに、長期の国境警備と度重なる遠征は財政を圧迫し、地方統治の弛緩や軍の規律低下を招きます。南宋との和平は時に歳幣によって安定をもたらしましたが、同盟・対立の振れ幅が大きく、持続可能な国境秩序を築けませんでした。
決定的だったのはモンゴル帝国の勃興です。チンギス・ハンは北方の部族連合を再編し、機動力と情報収集、包囲と追撃を組み合わせた大規模作戦で金の城郭網を分断しました。モンゴル軍は直接の会戦だけでなく、補給線や連絡路を断ち、局地ごとの降伏・離反を促す心理戦を展開しました。金は南宋との関係調整に失敗し、挟撃される形で消耗を余儀なくされます。
中都(北京)の放棄と南遷は象徴的な転換点でした。金は都を汴京(開封)方面へ移し、さらに河南・陝西方面での持久を図りましたが、モンゴルの包囲戦術の前に戦略的主導権を失います。1234年、金の哀宗が蔡州で抵抗を続けるも、最終的にモンゴルと南宋の連合軍により滅亡しました。ここで華北の主導権はモンゴルに移り、その後の元朝成立へとつながっていきます。金の崩壊は、征服王朝が漢地社会を取り込む成功例であると同時に、より大規模で柔軟な草原帝国の軍事・外交の前に脆弱だったことを示しました。
金の遺産は、その後の征服王朝に大きな影響を与えました。征服地の文治官僚制の吸収、被征服諸民族の統合、交易拠点と軍事拠点の併設、遊牧的移動宮廷の維持といった工夫は、後世の元・清にも観察されます。金は滅んだ後も、北方王権がどのように漢地の富と制度を取り込み、国家の持続性を確保しようとしたかを示す参照枠となりました。
後金の成立と清への改称:ヌルハチ、八旗、明末の動揺
17世紀初頭、満洲の建州女真から頭角を現したのがヌルハチです。彼は部族間の抗争と明の介入が続く東北辺境で、婚姻・同盟・征服を組み合わせて勢力を拡大しました。1616年、ヌルハチは赫図阿拉(フトゥアラ)で独立を宣言し、国号を「後金」と称しました。ここでの「金」は中世の金朝を継承するという象徴性を帯び、満洲の正統王権を自任する政治宣言でもありました。
後金の統合装置としてもっとも重要なのが「八旗」です。八旗は、軍事組織であると同時に行政・徴税・司法・移住・生産を統括する包括的システムで、旗ごとに漢軍・蒙古・満洲(女真)など複合的な編成が進みました。旗人は軍役と俸給で結ばれ、戦利品や土地の分配によって忠誠が維持されます。これにより、部族連合の緩い結びつきから、命令・補給・動員が一本化された常備動員体制へ移行しました。
ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる明への不満を掲げて軍事行動を開始し、サルフの戦い(1619年)で明軍と朝鮮軍の連合を破るなど、東北一帯で優位を確立しました。彼の死後、ホンタイジ(皇太極)が継承し、制度化と対外戦略の両面で前進します。ホンタイジは漢人官僚・工匠・農民を大量に取り込み、銃器・大砲の運用や攻城術を強化しました。また、女真という名称の自称を「満洲」へ整え、1636年には国号を「清」と改めます。ここで後金の段階は終わり、清朝としての本格的な中国征服が始まりました。
この過程で後金(清)は、明の内政の疲弊や財政悪化、農民反乱、リトルアイスエイジの気候変動による凶作といった複合危機を巧みに利用しました。内戦で疲弊した明・李自成勢力・南明残存勢力に対し、清は関寧錦の防衛線を突破し、呉三桂の関内誘導などを契機に山海関を越えて中原へ進入します。後金期に整えられた八旗と多民族編成は、この急速な征服の軍事的基盤となりました。
後金から清への変化は単なる改名ではありません。国号変更は王朝の正統性を中華世界に向けて再設計する行為であり、文治官僚制・科挙・礼制の導入、税制の安定化、農耕地帯の収奪から統合へという戦略転換を意味します。満洲人(女真)の王権が、旧金朝と同じく漢地の制度を取り込みつつ、より広域で持続的な帝国を目指した点に連続性が見えます。この連続性こそが、「金(後金)」という表記でしばしば並置される理由です。中世の金は前例として、近世の後金は発展させた形で、いずれも北方征服王朝の典型を体現しました。
まとめとして、「金(後金)」は二つの歴史的位相を持つ用語です。第一は、12~13世紀に華北を支配し宋と対峙した女真の金王朝で、これは遼を滅ぼし、華北の行財政を掌握し、最終的にモンゴルによって滅亡しました。第二は、17世紀にヌルハチが建てた後金で、八旗を基盤に明末の混乱を突いて拡張し、ホンタイジの下で清と改称して中国全体の征服に向かった国家です。両者は時代も政治状況も異なりますが、北方の軍事力と漢地の文治を結合する国家構想という点で連続性を持ち、東アジアの歴史において「征服王朝」のダイナミズムを象徴する存在として理解できるのです。

