百済(くだら)(ひゃくさい) – 世界史用語集

百済(くだら/ひゃくさい)は、朝鮮半島西南部に前4世紀末ごろから7世紀中葉まで存続した古代王国で、高句麗・新羅と並ぶ三国の一つです。都城の変遷(漢城→熊津→泗沘)と黄海を横断する海上ネットワークを武器に、中国の王朝や倭(日本列島)と活発に交流し、仏教・文字文化・工芸・技術を広く媒介しました。4世紀の近肖古王の拡張、6世紀の聖王による制度整備と文化振興、7世紀の義慈王期の苦闘を経て、660年に唐・新羅の連合軍により滅亡しますが、亡命者・技術者・文人の移住を通じて日本列島に大きな影響を残しました。以下では、成立と政治構造、対外関係と宗教・文化の伝播、社会と経済・美術、滅亡と遺産という観点から、百済の実像を分かりやすくまとめます。

スポンサーリンク

成立と政治構造:漢江流域の都城国家から泗沘の王都へ

百済は、馬韓諸国の一派を母胎に、漢江流域(現在のソウル周辺)で勢力を伸ばして成立したと考えられます。建国伝承では温祚(おんそ)王・比流王らの名が伝わり、早くから城郭と河川交通を抑える都城国家としての性格を強めました。4世紀に入ると、近肖古王(在位346–375頃)が高句麗・楽浪方面への軍事行動や南方の支配拡大を進め、諸侯を編成して王権の伸長を実現します。王権の周辺には王族・貴族(八姓などと称される有力氏族)や在地勢力が重層的に存在し、軍事・外交・祭祀の実務を担いました。

5世紀前半には高句麗の南下圧力が強まり、百済は漢城の拠点を失って熊津(現・公州)へ遷都します。ここで王権は体制の立て直しを図り、官僚制の整備と周辺勢力との再編に取り組みました。6世紀に聖王(在位523–554)が登場すると、王都はさらに泗沘(現・扶余)へ移され、都市は宮城・市街・寺院・貯蔵施設が計画的に配置された政治・文化の中心地として生まれ変わります。聖王は法令・位階・祭祀の制度を整え、国内の行政区画と地方支配のネットワークを強化しました。

百済の官制は、上位官として佐平(さへい)と呼ばれる大臣層を頂点に、十六官等とされる位階体系が整えられ、中央の評議と地方統治が結びつきました。佐平には内臣・刑臣などの分掌が置かれ、軍政・司法・財政の役割を分担します。王権は氏族連合の合議を調整しつつ、仏教や儒教の権威を政治理念に取り込み、王都に学問施設や寺院を創建しました。王陵や石造物、瓦当・土器の意匠からは、王権の儀礼と都市建設の格調がうかがえます。

対外関係と文化交流:南朝・北朝、倭との往来、仏教と学芸の伝播

百済の強みは、黄海・対馬海峡を結ぶ海上ネットワークにありました。中国の南朝(宋・斉・梁・陳)との冊封・朝貢関係を通じて制度や文物を受け取り、王号や暦、儒教典籍を導入します。同時に北朝(北魏・東魏・北斉・北周)とも外交を持ち、北方の政治軍事情勢を注視しました。これにより、百済はユーラシア東端の情報回路の分岐点となり、仏教・工芸・書記技術の受容と再編に成功しました。

倭(ヤマト政権)との関係はとりわけ密でした。百済の王族・貴族・技術者・僧侶が渡来し、日本列島の宮都建設・寺院創建・製鉄・瓦生産・木工・漆工・仏像彫刻・書記制度の整備に大きく寄与しました。『日本書紀』には、仏教伝来について、欽明朝の552年(または538年とする伝承も有力)に百済の聖王が金銅仏・経論・幡蓋などを献上した記事が見えます。これを契機に、蘇我・物部の対立を経て日本での仏教受容が進み、飛鳥寺・四天王寺・法興寺など早期寺院の成立に百済系の技術者が関わりました。

学芸面でも、王仁(わに)が『論語』『千字文』をもたらしたという伝承、阿直岐(あじき)が馬政や獣医的知識を伝えた記事、観勒(かんろく)(百済の僧)が暦法・天文・算術の書を献上した記録などが残ります。これらは史料批判の対象でもありますが、5〜7世紀にかけて百済を媒介にした学術・技術の移動が継続的であったことは確かです。日本列島側では、東漢氏(やまとのあやうじ)西文氏(かわちのふみうじ)鞍部(くらつくり)などの渡来系氏族が形成され、文字・記録・外交・工芸の担い手となりました。

仏教については、百済は早くから王権の庇護のもとで受容が進み、熊津・泗沘を中心に寺院が建立され、戒律・経論の学派が形成されました。インド僧の行脚と中国の訳経を媒介に、百済僧は戒律(律)・論書・禅的修行の諸潮流を学び、倭へも師資相承の系譜を伝えています。寺院遺構や石塔・金銅仏、瓦の文様には、南朝風の柔和な表現や、百済特有の「微笑」をたたえた仏像様式が認められ、日本の飛鳥仏へ通じるやわらかな造形の源流が確認できます。

社会・経済・美術:都市と農村、海上交易、百済様式の洗練

百済の経済は、漢江・錦江(白馬江)・栄山江などの河川交通と、黄海沿岸の港湾を結ぶ水運に支えられました。稲作農業と、麦・雑穀・豆類・麻の栽培、塩・魚介・海産物、鉄・銅・金などの金属資源、瓦・土器・木工・漆工・装身具の工房生産が、王都と地方都市をつなぐ市場ネットワークで循環しました。山地の砦と平野の倉城(城柵)は、軍事と貯蔵の両面で機能し、戦時動員に対応しました。

社会構造は、王族・有力氏族(八姓に象徴される貴族層)を頂点に、官人・兵士・工人・農民が階層化され、地方の豪族は王権に従属しつつも一定の自治を保ちました。位階・服制・乗具の規定は身分秩序を可視化し、儀礼と服飾は政治の場を演出します。王都泗沘では、宮城・大通り・寺院・市が計画的に配置され、屋根瓦・鬼瓦・塼(せん)に繊細な文様が施されました。瓦の蓮華文・変形唐草文、金銅装飾の唐草・葡萄唐草は、南朝美術との接続を示します。

美術・工芸の領域では、百済金銅仏に代表される柔和な肉身表現と流麗な衣文線が特徴的です。韓国扶余・公州地域に伝わる金銅観音・菩薩像、定林寺五層石塔(扶余)や弥勒寺址(益山)の塔・金銅仏は、均整のとれた比例感と穏やかな表情をたたえ、「百済の微笑」と形容されます。建築では、木塔・瓦葺・礎石・柱間割の技術が洗練され、日本の法隆寺・四天王寺など早期寺院のプランや木作りに影響を与えました。鏡・玉・装身具・帯金具・甲冑の意匠にも、百済的な繊細さと南朝風の優雅さが響き合います。

海上交易では、百済は中国南朝・遼東・倭・伽耶諸国と結び、絹・漆器・金工品・陶磁・書籍・薬物・香料を媒体として、広い文化圏を形成しました。外交使節と商人は重なり合い、港湾都市には異文化の居留地や工房が並びました。これらの往来が、百済を単なる「半島の一国」ではなく、東アジア海域の文化ハブへと押し上げたのです。

滅亡と遺産:唐・新羅連合軍の侵攻、白村江、亡命と記憶

7世紀に入ると、半島の勢力図は大きく動きます。新羅が唐と結び、高句麗・百済を挟撃する構図が固まりました。内部では王権と貴族の緊張、地方支配の弛緩が深刻化し、義慈王(在位641–660)の治世に至って外交・軍事の選択が厳しさを増します。660年、唐の蘇定方・新羅の金庾信らの連合軍が白馬江流域に進攻し、泗沘は陥落、百済は滅亡しました。王族・貴族・将兵の一部は熊津や周辺の城に籠もって抵抗を続け、復興運動(扶余豊璋の擁立など)が試みられました。

倭は旧来の同盟関係に基づいて援軍を派遣し、663年の白村江(はくそんこう/はくすきのえ)の戦いで唐・新羅水軍と激突しますが、敗北を喫します。これにより、倭は北部九州の防衛ライン整備(水城大野城などの築造)、天智朝の中央集権化・戸籍整備・律令導入を加速させました。他方で、敗亡した百済からの亡命者・技術者・学僧は、日本列島各地に移住し、氏族(百済王氏(くだらのこにきし)など)として編成され、宮都・寺院建設、文書行政、薬物・暦法・天文、音楽・舞楽などの領域に貢献します。

半島内でも、百済の遺民や文化は唐・新羅体制下の地方社会に痕跡を残しました。泗沘・熊津周辺の遺跡群、王陵・石塔・瓦器、地名や神社的聖所の伝承は、百済の地域アイデンティティと文化の連続性を示します。中世・近世の日本では、在地の百済寺や渡来系氏族の由緒が地域文化の核となり、近代以降の考古学・美術史は、百済の美と技術の源泉を再評価しました。

総じて、百済は政治的には7世紀に幕を閉じたものの、文化の伝播者・媒介者として東アジア史に長い影を落としました。南朝文化の柔らかさと半島在来の実務性を合わせ持つ「百済様式」は、仏像の微笑、塔の均整、瓦の文様、木作りの端正さに息づき、日本の飛鳥・奈良の造形と言語・儀礼を底から支えています。黄海を渡る船が運んだのは物資だけではなく、制度・知識・信仰の束でした。百済は、その束を選び取り、編集し、次へと手渡すことに長けた王国だったのです。