クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599–1658)は、清教徒革命(イングランド内戦)を推し進め、共和政(コモンウェルス)から護国卿政体(プロテクター政)を率いた人物です。騎兵指揮官として頭角を現し、新模範軍(ニュー・モデル・アーミー)を礎に王党派を打倒し、王政復古までの「王なき十年」を主導しました。彼の政治は、議会主権や宗教的寛容の一部を押し広げる一方、軍事的強制や言論統制、アイルランド・スコットランドへの苛烈な遠征、異論の切り捨てなど、相反する側面を伴いました。外交では海洋覇権と通商の拡大を志向し、航海条例や対蘭戦争、対スペイン戦で成果を上げつつ、国内では増税と軍政が不満を招きました。要するに、クロムウェルは「信仰に根ざした現実主義者」として、戦時動員の論理を国家運営に持ち込み、新旧の秩序を縫い合わせようとした指導者だったと理解すると全体像がつかみやすいです。以下では、出自から内戦、共和政の制度、宗教・外交・財政、そして評価・遺産へと丁寧に整理します。
出自・内戦への道:地方ジェントリから「鉄騎隊」へ
クロムウェルはケンブリッジ近郊のハンティンドンに生まれた地方ジェントリで、ケンブリッジ大学シドニー・サセックス・カレッジで学び、のち下院議員となりました。個人的な信仰は厳格なピューリタン(清教徒)で、説教師や独立派の会衆と交流し、内省的・摂理史観に彩られた宗教的自覚を深めていきます。チャールズ1世の専制(議会なき統治、課税の強行、国教会一体化の強化)とスコットランド・アイルランドでの緊張は、1640年代に臨時議会を招き寄せ、やがて王党派と議会派の決定的対立を生みました。
1642年の内戦勃発後、クロムウェルは地元で騎兵中隊を募り、規律・節制・祈りを重んじる「鉄騎隊(Ironsides)」を育てます。軍事的才能は、演習と規律の徹底、士官任用の実力主義に現れ、エッジヒル、マーストン・ムーア(1644)、ネイズビー(1645)といった会戦で決定的に貢献しました。彼の強みは、宗派・身分に左右されず能力と敬虔を基準に士官を登用する点にあり、この実力主義はのちの新模範軍の核となりました。
議会は1645年に「自制律令(Self-Denying Ordinance)」を可決し、議員の軍職兼任を原則廃止、名将エセックスら旧来の指揮官を入れ替え、新模範軍を編成します。クロムウェルは例外扱いで副司令官に残り、フェアファクス総司令官とともに王党派を追い詰めました。ネイズビーの勝利は王の機密書類を押収する結果も生み、国王の対外通謀や離反工作を世に示し、王権の正統性に致命傷を与えます。
王政裁判・共和政樹立:軍と議会のねじれ、苛烈な統合戦
戦争の勝利は直ちに平和をもたらしませんでした。長期の戦時財政と徴発、宗教統一をめぐる路線対立、軍隊への未払い給与が、議会と軍の不信を深めます。軍内部には「平等派(Levellers)」の影響も広がり、アグリーメント・オブ・ザ・ピープル(人民協約)に基づく広範な男性普通選挙や法の前の平等を主張する声が高まりました。1647年のパトニー討議では、クロムウェルと娘婿アイアトンが、財産資格に基づく選挙権(古来の自由の維持)を擁護し、急進的平等論に距離を取りました。
国王チャールズ1世はスコットランドと結び直し、1648年に第二次内戦が再燃します。クロムウェルはプレストン会戦で王党派・盟約派の連合軍を撃破し、軍は議会から長老派を追放(プライドのパージ)して、王政裁判の道を開きました。1649年、チャールズ1世は大逆罪で処刑され、王政と上院は廃止、イングランドは共和国(コモンウェルス)となります。王の処刑は国内外に衝撃を与え、正統性をめぐる対立は一層深まりました。
共和政樹立直後、クロムウェルはアイルランド遠征(1649–1650)を指揮します。ドロヘダとウェックスフォードでの虐殺は、包囲戦の慣行(降伏拒否時の無差別)という当時の枠を超える苛烈さとして長く記憶され、今日まで評価の大きな争点です。続いてスコットランドに転じ、ダンバー(1650)、ウスター(1651)で王党派新王チャールズ2世の軍を破り、三王国(イングランド・スコットランド・アイルランド)を武力で統合しました。これにより、反乱の再燃を抑えつつも、軍の政治的役割は一段と強まりました。
護国卿政体の実像:制度設計、軍政、宗教・外交・財政
共和政の運営は難航し、率直派(Rump)議会は改革と既得権の調整で膠着します。1653年、クロムウェルは軍と側近に支えられて議会を解散、信仰的エリートを集めたベアボーンズ議会(聖者議会)も短命に終わります。同年末、イングランド初の成文「憲法」とされる『統治文書(Instrument of Government)』が公布され、クロムウェルは護国卿(Lord Protector)に就任、枢密院に相当する国務会議、三年ごとの議会、信教の自由(一定範囲)の原則など、文民統治と軍の均衡を図る枠が整えられました。
とはいえ、制度は常に軍事的現実に脅かされました。1655年、王党派反乱(ペンラッドの反乱)を機に、全国を区分し「少将(Major-Generals)」を派遣して軍政的統治を敷き、娯楽課税やモラル規制(サバス厳守、闘鶏・劇場抑制など)を強めます。これは治安を安定させる一方で、生活の自由の侵害として反発を招き、のちに撤回されました。1657年の『謙虚なる請願と勧告(Humble Petition and Advice)』は、第二の成文憲章として二院制の復活、財政の正規化、護国卿の後継指名権などを導入し、クロムウェルに「王冠」を提供しましたが、彼は象徴としての王号を辞退し、護国卿のまま権限強化を受け入れました。
宗教政策では、国教会的強制を相対化しつつ、会衆派、独立派、一定範囲のバプテスト、長老派に講壇を開き、良心の自由を広げました。他方で、反三位一体派(ソシニアン)やクエーカー、過激派には抑制を加え、国家と教会の秩序を乱す説教・出版には検閲を残しました。1656年にはサスーン(マンセス)会議で、ユダヤ人の再入国を黙示的に認め、ロンドンにユダヤ共同体が復活します。これは商業・金融の実利と、旧約的摂理史観の双方に根差した措置でした。
外交と通商では、1651年の航海条例(Navigation Act)が象徴的です。これはイングランドやその植民地への貿易を自国船か産地国船に限定し、中継貿易で優位だったオランダに打撃を与えました。第1次英蘭戦争(1652–1654)は激烈な海戦の応酬の末、商業上の譲歩を引き出して終結します。続く対スペイン政策では、1655年に「西方航海(Western Design)」を発動し、カリブ海でジャマイカを奪取、1658年には仏と同盟してダンケルクを占領(のち仏に売却)しました。これは海上帝国の萌芽を作る一方、軍事費と海軍整備は財政を圧迫しました。
財政では、戦時税(十パーセント課税=ディム)や関税、土地没収収入、国債発行で凌ぎましたが、税負担の偏在と汚職、徴収効率の限界が不満を生みました。議会との協調は、選挙資格・宗教寛容・軍費の扱いで何度も行き詰まり、護国卿議会(第一次・第二次)は解散に追い込まれます。クロムウェルは終始、軍の忠誠と神の摂理への確信に支えられましたが、制度としての持続性には弱さが残りました。
思想・人物像・評価:敬虔なる実務家の光と影
クロムウェルは、しばしば「独裁者」「革命の守護者」という両極で語られます。本人の語りは、祈りと内省、神の摂理への信頼に満ち、政治的決断を宗教的使命の履行と捉える色合いが濃いものでした。同時に彼は、軍制改革、税制・海軍・植民・外交の実務に長け、才能主義と規律の文化を国家運営に持ち込みました。王党派の財産没収や検閲、反対派の弾圧は権威主義的であり、アイルランド遠征の記憶は植民・宗派対立の暴力として重くのしかかります。
政治思想的には、クロムウェルは絶対王政の否定と議会・法の優越を掲げつつ、戦時の非常措置を常態化させました。これは、立憲主義と軍事的必要の緊張という、近代国家の宿命的ジレンマを早くも体現した例です。宗教的寛容は歴史的に見ると相対的に広く、講壇を異派に開いたこと、ユダヤ人再受け入れに動いたことは、のちの寛容思想に接続しますが、反体制的急進派には抑圧的で、全面的自由には到達しませんでした。
1658年にクロムウェルが没し、長男リチャードが護国卿を継ぎますが、軍と議会の支持を失い、政体は崩壊に向かいます。1660年、チャールズ2世の帰還で王政復古が成立し、クロムウェルの遺骸は掘り返されて象徴的に「処刑」されるという、記憶の政治の極端な演出が行われました。それでも、ニュー・モデル・アーミーの軍事革命、航海条例と海軍の整備、宗教的多元性の萌芽、成文憲章の試行は、後のイングランド/イギリス国家を形づくるリソースとなりました。
歴史叙述のうえでは、19世紀のカライルが英雄史観としてクロムウェルを称揚し、20世紀後半以降は社会史・宗教史の観点から内戦の多層性が描かれ、最近では帝国史・植民史の視点からアイルランドや大西洋世界への影響が再評価されています。クロムウェルは、自由の拡大と暴力の正当化が併存した、近代の両義性を凝縮した人物といえます。
まとめると、クロムウェルは、信仰に裏打ちされた実務能力で内戦を勝ち抜き、非常時の統治モデルを国家に持ち込んだ指導者でした。彼の治世は、議会政治・宗教多元・海洋覇権の芽を育てつつ、軍事的強制と抑圧、植民的暴力を伴い、後世に長い影を落としました。彼を学ぶことは、非常時の統治と自由の関係、国家建設と暴力の線引き、宗教と政治の結びつきという、今も続く課題に向き合うことでもあります。

