航海法は、17世紀半ばから19世紀半ばまでのイギリス(イングランド/後にグレートブリテン)が、自国商船と帝国圏の通商を保護・統制するために制定・改定してきた一連の法律の総称です。基本理念は重商主義にあり、貿易黒字の確保、銀の流出抑止、海運・造船・水夫雇用の内国化、そして競争相手(とくにオランダ)の中継貿易を削ぐことにありました。対象は本国と植民地の往来だけでなく、帝国圏内の都市間・島嶼間の小規模航路まで広く、積荷の産地・積出港・船籍・船員国籍を細かく規定し、違反には没収や罰金を科しました。法体系は1651年の初出から、1660年・1663年・1673年・1696年などの追加法で厚みを増し、18世紀には「列挙品目(enumerated commodities)」の拡張や副王立海事裁判所の整備を通じて実効性を高めました。19世紀の自由貿易化の流れの中で段階的に緩和・廃止され、1849年の商船法改正で事実上終わりを迎えます。以下では、成立の背景、主要条文と仕組み、影響と評価、緩和・廃止と余波の順に整理します。
成立の背景:重商主義と対オランダ競争の交点
航海法の出発点は、清教徒革命(ピューリタン革命)のさなか、クロムウェル政権下で制定された1651年法です。背景には、バルト海・北海・大西洋を結んで圧倒的な運送力を誇ったオランダの海上中継貿易への対抗がありました。オランダ商人は安価で大量の積み替えを行い、イングランド産品の輸出や植民地産品の再流通でも優位に立っていました。イングランド側は、海運と通商を一体として保護することで、国内造船・帆布・ロープ・鉄釘・樽材など周辺産業を育て、海軍予備となる船員層を厚くしたいという思惑を持っていました。この「海運=国力」観は、同時代の海軍主義と直結し、民間商船の増勢をそのまま戦時の海軍動員へ転用する設計思想を伴っていました。
1651年法は、イングランド向けまたはイングランドの植民地向けの貨物は、原則として「本国(イングランド)船、または貨物の産地の国籍船」に限る、という大枠を定めました。これにより、第三国(典型的にはオランダ)が他国産品をイングランドへ運ぶ「中継」を排除する狙いでした。制定直後に第一次英蘭戦争(1652–54年)が起きたことは、航海法が外交・軍事バランスとも連動していた事実を象徴します。
王政復古後もこの路線は維持され、1660年法で体系が再構築されます。王権は租税基盤と帝国の一体性を強めようとし、議会は国内産業保護と植民地管理を支持しました。1663年のいわゆる〈積み地法(Staple Act)〉、1673年の〈プランテーション関税法(Plantation Duty Act)〉、1696年の補強法は、植民地の迂回・二重帳簿・密貿易を抑え、取り締まりの手足を与えるものでした。
主要条文と仕組み:船籍・船員・列挙品目・直行義務・裁判
航海法の〈核〉は四つに整理できます。第一に、船籍規定です。本国と植民地の間の貿易は、原則として英本国船(のちに連合王国船)に限られました。これは造船・保険・海員雇用の利益を王国に引き寄せる措置でした。第二に、船員構成比です。一定割合(当初は船員の半数以上、のち法改正で変動)を英臣民で占めることを要求し、戦時の徴用に備えました。第三に、積荷の品目管理です。砂糖・タバコ・綿花・染料木(インディゴ)・ジンジャー・コチニール・米・モラス(糖蜜)・銅・毛皮など、植民地で生じる高付加価値品を「列挙品目」として指定し、必ず本国港に直行して通関させるよう義務づけました。第四に、直行・積み替えの制限です。1663年法は「ヨーロッパ産品で植民地に送るものは、一旦ロンドン等の指定本国港で積地証明を得てから送れ」と定め、植民地の独自仕入れを封じました。
徴税・取り締まり面では、1673年法が植民地側にも関税納付義務を課し、密貿易対策として海事副王立裁判所(Vice-Admiralty Courts)を活用しました。これらは陪審を不要とするため、植民地側からは「本国偏重・手続不当」と批判されました。1696年の強化法は、関税局・通商委員会(後のBoard of Trade)と連携して検査権限を拡充し、輸送証書・船籍登録・ボンド(保証金)などの文書制度を整えました。違反の罰は荷・船の没収、罰金、船長の資格停止などで、沿岸の徴税官と海軍が共同で取り締まりにあたりました。
十八世紀に入ると、列挙品目の拡張や調整が続きます。米(南部植民地の主力輸出)やタール・ピッチ・マスト材(海軍補給の戦略物資)が対象に加わり、逆に帝国の戦略上有利なときには緩和も行われました。1733年の〈糖蜜法(Molasses Act)〉は英領西インド諸島産以外の糖蜜に高関税を課し、ニューイングランドのラム酒産業に打撃を与えましたが、実務上は広範な密輸・賄賂・黙認(いわゆる“サラトリー・ネグレクト=恣意的寛容”)の下で運用され、紙面上の厳格さと現実の緩さが併存しました。1764年の〈砂糖法(Sugar Act)〉は課税率を引き下げつつ取締りを厳格化したため、却って反発を招くことになります。
影響と評価:英蘭戦争からアメリカ独立、帝国財政とグローバル秩序
短期的には、航海法はオランダの中継貿易に痛打を与え、英蘭戦争の軍事的勝敗と連動してイングランド(後のグレートブリテン)の海運・保険・造船・倉庫・金融の複合優位を育てました。ロンドンのシティは保険(ロイズ)や為替で世界の結節点となり、船腹と資金の厚みが英海軍の作戦持続力を支えます。バルトのマスト材・ピッチ、コロニアル産品の砂糖・タバコ、アジア産品の茶・絹・陶磁など、帝国の物流は「本国港ハブ・アンド・スポーク型」に再設計され、関税と消費税(エクサイズ)が王国財政の柱になりました。
一方、植民地側には歪みも生じました。価格上昇と仕入れ先の制限は、ニューイングランドの造船・漁業・ラム酒、ヴァージニアのタバコ、南部の米・インディゴといった地域経済にそれぞれ別様の影響を与えました。好況時には帝国市場(本国の巨大な需要)に守られる安定感があった反面、不況時や規制強化時には密貿易が常態化し、本国官吏と植民地商人の「現場調整」が制度の内側に組み込まれていきます。陪審を用いない海事裁判所の増加、捜索一般令状(Writs of Assistance)の付与、港湾での押収強化は、法的権利の侵害としての不満を蓄積させました。
七年戦争(1756–63年)後、戦費の回収と帝国管理の強化を図った本国は、1764年砂糖法、1765年印紙法、1767年タウンゼンド諸法などで歳入確保に踏み切ります。これは観念面で「課税なき代表なくして課税なし」を掲げる植民地側の反発を招き、〈ボストン茶会事件〉や第一次大陸会議を経て、独立戦争の政治・思想的文脈に接続しました。航海法そのものが独立の唯一原因ではありませんが、帝国の通商統制をめぐる数十年の摩擦は、政治的決裂の下地を作ったことは確かです。
長期の視点では、航海法は「帝国の市場を囲い込む」設計でありながら、英本国の産業革命・金融革命と結びつくことで、むしろ世界的な取引量の拡大を促しました。本国港を経由させることは輸送非効率を生みつつも、保険・信用・価格形成を集中させ、標準化と情報集約を進める効果を持ちました。こうして、英帝国は「保護と統制を通じた規模の経済」を獲得し、18世紀末の覇権国家としての地位を固めます。
緩和・廃止と余波:保護から自由貿易へ、そして制度の残響
ナポレオン戦争後、イギリスは一方では「穀物法」に代表される保護主義を温存しつつ、他方では関税体系の整理と通商条約の再編を進め、1820年代以降、航海法の段階的緩和に踏み出します。1823年の相互通商条約群は、相手国が英船に対して開放的であれば、英側も相手国船に一定の開港を認めるという実務的措置で、双務主義が導入されました。1846年の穀物法廃止、1849年の商船法改正によって、航海法の中核—船籍限定と直行義務—は撤廃され、帝国の通商は自由化へ大きく舵を切ります。帝国主義の時代を迎えながらも、通商政策は自由主義的志向を強め、海運の国籍制限は国際競争の中へ晒されました。
とはいえ、制度的残響は長く続きました。例えば、港湾税制・検疫・船員登録・保険実務・船級検査といった周辺制度は、航海法時代の様式を引き継ぎました。また、英帝国ネットワークの心理的慣性—「本国ハブ」志向—は、蒸気船・電信・保険・為替の集中とともにロンドンの中心性を維持させました。植民地側でも、独立後のアメリカ合衆国が一時期、自国船保護の「再航海法」的政策を採ったことは、海運保護のロジックが国籍を超えて有効であることを示しています。
歴史評価では、航海法を〈保護主義の象徴〉として批判する見方と、〈海軍・商業・財政を結びつけた国家戦略〉として肯定的に捉える見方が併存します。今日の視点からは、サプライチェーンの安全保障、制裁・輸出管理、海上保険・船員市場の脆弱性などに照らして、航海法的発想—通商と安全保障の接合—が形を変えて復活している面もあります。過去の制度を一義的に善悪で裁くのではなく、その機能とコスト、外部不経済(植民地側の負担や市場歪み)を具体的に比較評価することが大切です。
総じて、航海法は「帝国という巨大な港湾装置」を設計する法でした。船と積荷、港と検査、税と裁判を網の目のように結び、通商を国家目的に沿って配線し直したのです。重商主義の時代にはその配線が成長を牽引し、自由貿易の時代には配線の束ね方が変わりました。航海法を学ぶことは、国家が市場をどのように「つくる」か、そして市場が国家をどう変えるかを理解する好例になります。

