五代十国(907〜979年頃)は、唐が滅んだのち、華北で五つの王朝(後梁・後唐・後晋・後漢・後周)が短期間で交代し、同時に江南・嶺南・四川・河西など各地で多数の地方政権(十国)が並立した時代を指す通称です。分裂と戦乱の時代という印象が強い一方で、軍制・財政・官僚制、都市と手工業、海上貿易や信仰の広がりなど、次の宋代を準備する変化が各所で進みました。北では遼(契丹)との国境攻防が政治を規定し、南では運河と海路の交易網が急速に洗練され、文化面では山水画や版刻印刷、詞(ことば)の新形式が成熟しました。五代十国は「乱世」でありながら、国家と都市社会の再編という意味で非常に創造的な時代だったといえるのです。本稿では、成立の背景、五代の交替と対外関係、十国の地域世界と経済文化、そして宋への橋渡しという四つの視点で、全体像をわかりやすく解説します。
成立の背景――唐末の崩壊と節度使の自立
9世紀末の唐は、黄巣の乱や藩鎮(節度使)の自立、宦官の専横、両税法の空洞化など、政治・財政・軍事の危機が重なっていました。各地の節度使は、軍団と財政を自前で運用し、中央からの任免を儀礼的に受けながらも、実質は独立政権に近い権力を握ります。907年、朱全忠(朱温)が唐哀帝から禅譲を受けて後梁を建てると、華北は黄河流域の牙軍(親軍)を握る武人勢力同士の抗争の場となりました。政治の重心は関中(長安)から大梁(開封)・洛陽・太原など東方へ移り、交通・糧道・城寨の制圧が王朝の命運を左右します。
同じ頃、南の世界では、長江下流から福建・広東・広西、さらに四川盆地や河西走廊にかけて、在地の軍政指導者や旧来の豪族が権力を握り、独自の政権を樹立しました。唐が整えた交通・租税・市場の仕組みは完全には失われず、在地のネットワークに埋め込まれた形で生き延び、各政権は必要に応じて制度を継ぎはぎしながら実務を回しました。この「部分的継承」と「在地化」は、後の宋による全国的な再統合の土台となります。
五代の交替と対外関係――後梁から後周、遼とのせめぎ合い
五代とは、華北で禅譲・簒奪・内乱を経て交替した五つの王朝の総称です。後梁(907〜923)は開封を都に、宦官勢力の一掃や財政の集権化を進めましたが、苛烈な徴発と諸軍閥の離反で短命に終わりました。後唐(923〜936)は沙陀系武人李存勗・李嗣源の政権で、洛陽を都とし、いったん版図を拡げたものの、軍功派と内廷の対立、各鎮軍の利害不一致で動揺します。後晋(936〜947)は石敬瑭が遼の支援で建国した代償として、戦略要地の燕雲十六州を遼に割譲しました。これは長期的に華北政権の防衛線を後退させ、世論の強い反発を招きます。後漢(947〜951)は太原の劉知遠が開封に入って立てたものの短命で、権臣郭威が後周(951〜960)を開きました。
五代中でも後周は改革志向が強く、太祖郭威と世宗柴栄が中央禁軍の再編(殿前司・侍衛馬歩軍司の強化)、軍需の官営化、塩鉄・酒税の整備、貨幣新鋳(周元通宝)などを断行しました。対外的には、淮北・江北で南唐に圧力をかけ、河北・山西では遼や北漢への攻勢で失地回復の芽を育てます。とはいえ、燕雲十六州の喪失は重く、山海関から内陸に連なる山地・河川・城寨線を再設計して防衛するほかありませんでした。960年、後周の禁軍将・趙匡胤が陳橋で推戴されて宋が成立し、五代政権の連鎖は終わります。
遼(契丹)との関係は、軍事のみならず交易・外交の三位一体でした。遼は馬・皮革・金属製品を供給し、華北の諸政権は絹・穀物・銅銭を出す互市を維持しつつ、幽薊の城郭線でたびたび衝突します。国境の騎兵戦と城攻防の技術、俘虜の編入・招撫、互市の儀礼と贈与の政治は、宋代初期の北辺政策にそのまま引き継がれました。
十国の地域世界――江南・嶺南・四川・河西の多様な繁栄
「十国」とは便宜的な呼び名で、実際には十より多い地方政権が交替・並立しました。代表的なのは、江南の呉→南唐、浙江の呉越、福建の閩、広東・広西の南漢、湖南の楚、四川の前蜀・後蜀、湖北の荊南(南平)、河西の北涼系統(五代期の「北漢」は華北側に数えることが多い)などです。これらの政権は、地形・水系・海路にあわせて独自の交通網を整え、在地豪族と士人層、商人ギルド、寺院ネットワークを結びつけて、安定した徴税と軍糧供給の仕組みを作りました。
江南の呉越は、銭鏐・銭弘俶の下で運河・港湾・堤防を整備し、塩業・絹織・陶磁・造船を発展させました。杭州・蘇州・明州(寧波)などの都市は市舶司に準じる機能を持ち、宋代の海上貿易の前史を形づくります。南唐は金陵(南京)を中心に文芸が花開き、李煜の詞に代表される洗練された宮廷文化が、器物・絵画・書の美意識とともに後世へ影響しました。福建の閩は山地と海の二面性を活かし、泉州・福州の港湾から東南アジアへ通じる航路を開拓します。嶺南の南漢は広州を拠点に海上交易で富み、銅銭の流通と陶磁輸出の先駆けとなりました。
四川の前蜀・後蜀は、成都平原の穀倉と職人集積を基盤に、絹・漆・紙墨・版刻が高度化しました。後蜀の画院は山水画の発展に貢献し、董源・巨然らの江南山水とともに、宋代画壇の母胎をなします。河西・敦煌の勢力は、ソグド系商人と仏教文化の結節点として石窟・文書・絵画を残し、シルクロード文化の西の扉を守り続けました。宗教は禅・浄土・天台など多様で、寺院は金融・倉庫・教育・福祉の拠点として経済と行政の補完を担いました。
これらの諸政権は、必ずしも「小国の安逸」ではなく、対外戦争・内紛・飢饉・疫病を経験しながらも、在地の資源と人材を動員する術に長けていました。科挙は地域により実施状況が異なりましたが、文人群像の形成、書籍の版刻、学術の蓄積は着実に進み、宋代の学術と官僚制の母床となります。
制度と文化の継承――宋への橋渡しとしての五代十国
軍事と行政では、五代十国の試行錯誤が宋の「強幹弱枝」(中央強化・地方抑制)政策に直結しました。中央禁軍の二重機構(殿前司・侍衛馬歩軍司)、財政の直轄化(塩鉄・酒税・市易の管理)、州県の文官統治、兵站と城寨線の体系化は、宋太祖・太宗が制度として固定化します。武人の専横を抑えるための文武分業、節度使の権限縮減、将帥の転任・分権なども、五代の反省に基づく設計でした。
経済面では、江南の都市と港湾、運河と海路の整備、手工業の集積、貨幣流通の拡大が宋の商業革命を準備しました。各地で私鋳銭や異銭が混在する混乱は、逆に国家が標準化・互市・均輸・市易といった政策ツールを発達させる動機となり、のちの交子(紙幣)や国家的流通調整へとつながります。市は坊の枠を越えて夜市化し、商館・行(ギルド)・牙人(ブローカー)が機能を分担し、契約・信用・保険の初歩が芽生えました。
文化では、山水画論の成熟(荊浩・関仝の北宗、董源・巨然の南宗の前夜)、宮廷絵画・職人の組織化、刻書技術の普及が目立ちます。文学は、唐詩の伝統を踏まえつつ、詞という新形式が南唐を中心に洗練され、宋詞の隆盛を先取りしました。宗教は、寺院の社会的役割が拡大し、禅の機鋒と民間信仰の折衷が在地文化の厚みを増しました。法と訴訟は、軍政的即断の影を残しつつも、式例や先例の集積が進み、宋代の成文法・判例文化に接続します。
最後に、五代十国は「分裂=停滞」ではないことを強調しておきます。分裂は確かに戦費と人命の損耗をもたらしましたが、同時に各地で〈何が機能し、何が機能しないか〉を露わにし、制度と経済の実験を促しました。北では遼との緊張が軍事・外交・互市の技術を磨き、南では在地の富と技術が都市・海商・手工業を押し上げました。その成果を、宋が法と制度で回収・統合したと見ると、五代十国は「宋の前史」という受け身の位置づけを越え、能動的な創造の時代として立ち現れてきます。

