サン=ドマング – 世界史用語集

サン=ドマングは、17~18世紀にフランスがイスパニョーラ島西部に築いた植民地で、のちのハイチに相当する地域を指します。カリブ海有数の砂糖・コーヒー生産地として急速に繁栄し、同時に大量のアフリカ人奴隷を酷使する過酷なプランテーション社会が成立しました。1789年のフランス革命期には、白人入植者、自由有色人(ジェン・ド・クルール)、被奴隷化人口の三層が鋭く対立し、1791年に大規模蜂起が発生して長期の内戦と国際戦争へ発展しました。トゥーサン・ルヴェルチュールらの指導のもとで革命は進み、最終的に1804年にハイチが独立することで、サン=ドマングは歴史から姿を消しました。この過程は、奴隷制と植民地支配の矛盾を暴き、アメリカ大陸とヨーロッパの政治・経済・思想に深い影響を与えた出来事として知られています。

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地理・成立とフランス植民地の確立

サン=ドマングはイスパニョーラ島の西側三分の一を占め、東側のサント・ドミンゴ(現在のドミニカ共和国)とは別の政治単位でした。フランスの統治は17世紀後半に本格化し、1697年のライスワイク条約でスペインが西部の主権をフランスに正式に譲渡したことで、サン=ドマング植民地の法的地位が確立しました。気候は熱帯で降水に恵まれ、肥沃な平地と丘陵が広がり、港湾はヨーロッパや北米との交易に適していました。こうした自然条件は砂糖黍やコーヒー、インディゴ、綿花、生姜といった商品作物の栽培に向いており、プランテーションの立地として世界屈指の生産性を発揮しました。

行政的には総督と監察官が置かれ、海軍省や植民地省の管轄下で本国からの統制が及びました。しかし海を隔てた距離のため、現地の大農園主や商人が実質的な影響力を握り、密輸や独自の関税慣行が横行しました。宗教面ではカトリックが公認で、司教座・修道会が設置されましたが、住民の宗教文化は多層的で、アフリカ起源の信仰や医療実践と結びつく混淆が進みました。これがのちにヴードゥー(ヴォドゥン)として知られる宗教的実践の一部を形づくります。

経済構造は早くから大西洋三角貿易に組み込まれ、フランス本国やナント・ボルドーの商人、さらには英米の密貿易商も関与しました。アフリカ西岸で人身が買い付けられ、サン=ドマングで砂糖やコーヒーへと「転換」され、欧州へ輸出される循環です。18世紀半ば以降、砂糖の国際需要が高まるなかで、サン=ドマングは世界最大級の砂糖・コーヒー供給地へ成長し、フランスの貿易黒字と財政収入を支える「宝石」と呼ばれるまでになりました。

プランテーション社会と身分秩序――砂糖の富と人間の犠牲

サン=ドマングの繁栄は、極度の人的搾取の上に築かれました。被奴隷化人口は18世紀末におよそ50万人規模とされ、白人入植者は3万人前後、自由有色人は2~3万人と見積もられます。人口の圧倒的多数がアフリカ出身者で、男性が多く、年齢構成も偏っていました。過酷な労働と疾病、高い死亡率のため、自然増では需要を満たせず、アフリカからの継続的な補充が不可欠とされました。砂糖は植え付けから圧搾・煮詰め・結晶化まで重労働が続き、夜間の作業や事故も多発しました。

法的枠組みとしては、1685年の「黒人法(Code Noir)」がフランス帝国の奴隷制を規定し、主人の権限、刑罰、婚姻やキリスト教化の義務などを定めました。しかし、現地運用は主人側に著しく有利で、鞭打ち、鎖、烙印、逃亡者への残虐な処罰が常態化しました。小屋住まい、限定的な配給、医療の欠如といった生活条件は、奴隷の身体に長期的な負荷を与え、平均寿命を著しく低下させました。逃亡者(マルーン)は山岳地帯に共同体を築き、ゲリラ戦や農具破壊、毒殺といった抵抗の技法を発達させました。

社会構成は大きく三層に分かれました。第一に「大白人(グラン・ブラン)」と呼ばれる大農園主・輸出商・高級官吏で、政治的発言力と社交文化を独占しました。第二に「小白人(プティ・ブラン)」と呼ばれる商店主・職人・下級監督で、数は多いものの経済基盤は脆弱で、肌の色を唯一の優位とみなして自由有色人に敵対する傾向が強く見られました。第三に「自由有色人(ジェン・ド・クルール・リーブル)」で、アフリカ系や混血の自由身分の人々です。彼らの一部は土地や奴隷を所有し、民兵に参加する者もいましたが、法的・社会的差別は根強く、選挙権や官職への道は閉ざされがちでした。

こうした差別は、肌の色、出自、合法婚姻の有無など、細かな序列意識と絡んで固定化しました。自由有色人は富裕であっても公民権が制限され、衣服の色や装飾品まで規制されることがありました。1780年代後半には、メスティーソやムラートの中から、フランス革命の「人権宣言」を根拠に公民権の拡大を要求する運動が現れ、ヴィンセント・オジェの蜂起(1790年)など、初期段階の政治的対立を生み出しました。この内部対立が、のちの大蜂起の土壌となりました。

1791年蜂起からトゥーサン・ルヴェルチュールの台頭まで

1789年のフランス革命は、サン=ドマングにも直ちに波及しました。白人側では自治と自由貿易を求める急進派が現れ、自由有色人は法的平等を請願し、被奴隷化人口は自由という言葉を自らの経験に引き寄せて理解しました。1791年8月、北部平野で大規模な蜂起が始まり、製糖工場や農園が次々と焼かれました。伝承では、蜂起の契機としてボワ・カイマンの集会が語られ、宗教的誓約と連帯が反乱の精神的支柱になったとされます。蜂起は瞬く間に広がり、植民地政府は鎮圧に苦しみました。

この混乱に乗じて、イギリスとスペインが介入しました。英軍は経済的価値の高い港湾と製糖地帯の掌握を狙い、スペインは島の東部支配をてこに西部への影響力拡大を図りました。フランス本国では、植民地問題をめぐる政治的駆け引きが続き、1793年にサン=ドマングの民政長官ソントノ(ソントナクス)が反乱鎮静のために現地で奴隷解放を宣言します。これに続き、1794年、国民公会はフランス全植民地での奴隷制廃止を決議しました。これにより、黒人・有色自由人の多くがフランス共和国軍に参加し、英西勢力との戦闘で戦果を挙げます。

この時期、トゥーサン・ルヴェルチュールが頭角を現しました。彼は初期にスペイン側と協力しながらも、1794年以降は共和国側へ転じ、軍事・行政の才能で頭抜けた指導力を発揮しました。土地政策では、自由化と同時に「規律ある労働」を維持するため、農地からの大規模離脱を抑制し、元奴隷を有給労働者として農場に残す仕組みを模索しました。これは自由の実現と生産の維持を両立させる試みでしたが、現場では旧主と労働者の衝突が続き、懲罰的な措置が復活することもありました。

1801年、ルヴェルチュールは自治的な憲法を制定し、サン=ドマングに広範な自律権と終身総督の地位を定めました。彼は名目上フランスへの忠誠を掲げつつ、奴隷制の永久廃止と黒人の自由の不可侵を宣言し、海外列強との交易再開を進めました。これに対し、フランスの第一統領ナポレオンは、カリブ帝国の再編と砂糖経済の復興を狙い、1802年に義弟ルクレール将軍を総司令とする大遠征軍を派遣します。遠征は当初、技巧的な交渉と軍事行動で一定の成果を収め、ルヴェルチュールは逮捕・送還され、フランス本土で獄死しました。

独立とその余波――ハイチの誕生と世界への波紋

ルヴェルチュールの排除後、フランス軍は秩序回復を進めますが、黄熱病が兵力を急速に蝕み、現地社会の抵抗はやみませんでした。さらにフランス政府は同年、他植民地で奴隷制を復活させ、サン=ドマングでも労働体制の強制的再編を試みました。これにより、黒人兵と自由有色人の多くが再びフランスへ反旗を翻し、ジャン=ジャック・デサリーヌらが指導する大反攻が始まります。1803年のヴェルティエールの戦いでフランス軍は決定的な敗北を喫し、翌1804年1月1日、デサリーヌはハイチ独立を宣言しました。こうして、サン=ドマングという植民地は姿を消し、黒人による最初の独立国家が誕生しました。

独立後、ハイチは対外的孤立と経済再建の困難に直面しました。周辺の植民地諸国や米国南部の奴隷主はハイチを「危険な前例」とみなし、貿易や外交を制限しました。フランスは長らく独立を承認せず、1825年、賠償金(いわゆる「独立債務」)の支払いと引き換えに承認を与えました。巨額の支払いは財政を圧迫し、長期にわたり経済発展の足かせとなりました。国内では農地分配をめぐる対立や地域分裂が続き、旧プランテーションの再建と小農経済の拡大の間で揺れ動きました。

サン=ドマングの崩壊とハイチの独立は、国際政治と経済に連鎖的影響を与えました。ナポレオンはカリブ戦略の挫折を受けて、1803年にルイジアナをアメリカ合衆国へ売却し、北米の版図は一挙に拡大しました。また、カリブの砂糖供給の混乱はキューバや英領植民地の生産拡大を促し、奴隷制の地域的再編を招きました。他方、ハイチの存在は、奴隷制廃止運動や黒人の権利を主張する思想に強い刺激を与え、文学・政治演説・宗教運動に形を変えて流布しました。多くの亡命者・難民がニューオーリンズや米南部、キューバに流入し、文化・経済・言語に痕跡を残しました。

サン=ドマングをめぐる記憶は、しばしば相反する物語として語られます。ある者にとってそれは繁栄の記号であり、別の者にとっては人間の尊厳を踏みにじる制度の象徴でした。現地の人々は歌や儀礼、ことばのなかに抵抗と喪失の体験を刻み、旧宗主国や周辺社会は、危機と教訓、恐怖と希望を重ね合わせました。この重層的な記憶は、現在のハイチとディアスポラにおいても文化的アイデンティティの資源であり続けています。

まとめると、サン=ドマングは、商品作物の国際市場、帝国の法制度、種族・身分秩序、宗教・文化の混淆、そして革命と戦争が交差した場でした。そこでは、砂糖の甘さと引き換えに、数え切れない犠牲が生じ、同時に自由と平等をめぐる普遍的な理想が具体的に試されました。植民地の発展と崩壊、ハイチの成立という連続する出来事を通じて、近世から近代への転換が、カリブ海の一角から世界規模で波紋を広げていったのです。