ジャックリーの乱は、百年戦争の渦中である1358年、フランス王国北部一帯(イル=ド=フランス、ボーヴェジ、オワーズ川流域など)で突発的に広がった農民・町人層の大規模蜂起を指す通称です。蜂起の中心には、戦争と略奪で荒廃した農村社会の疲弊、領主・騎士層の軍事的失策と増税への憤り、治安の崩壊と自衛の必要といった要因が絡んでいました。当時はポワティエの戦い(1356年)でフランス王ジャン2世が捕虜となり、王権は弱体化していました。首都パリではエティエンヌ・マルセルが率いる市民運動が王太子(のちのシャルル5世)と対立し、政治空白が生じます。こうした混乱の中で、ボーヴェ近郊の村役人ギヨーム・カル(ギヨーム・カルル、英語文献ではウィリアム・カールとも)とされる人物が動員の核を担い、各地の「ジャック(田舎者の蔑称、ジャック・ボノム)」が武器を取りました。反乱は短期間に激化しますが、やがて貴族連合軍の反撃を受け、同年6月末のメロ(Mello)近郊の戦いで主力は壊滅し、凄惨な報復が続いて終息しました。本項では、この蜂起の背景・展開・弾圧・記憶を、史料上の語りの偏りにも注意しながら整理します。
背景――百年戦争、治安崩壊、税と負担の連鎖
14世紀半ばのフランス王国は、百年戦争の長期化で深刻な疲弊に見舞われていました。1348年の黒死病は人口を急減させ、耕地の荒廃と人手不足を招きます。戦場はしばしば農村そのもので、イングランド軍の騎行(シュヴォシェ)や傭兵隊の略奪は、収穫物・家財・家畜・種子までを奪いました。王権は戦費調達のため、塩税(ガベル)や消費税、貨幣改鋳などを繰り返し、領主もまた保護を名目に村落へ臨時負担を課しました。領主保護の対価としての年貢・労役という旧来の契約は、いざという時に守ってもらえないという実感とともに信用を失います。
決定打は1356年のポワティエの戦いでした。フランス王ジャン2世はエドワード黒太子に敗れ捕虜となり、王太子シャルル(摂政)は莫大な身代金と戦費に直面します。議会(一般三部会)は王権の財政・軍事改革を要求し、都市勢力を背景にエティエンヌ・マルセルらが政治的発言力を強めました。パリ市内は王党派と市民派の対立で騒擾が続き、王国中枢の統治は麻痺状態に陥ります。地方では、傭兵化した無頼の兵(グランド・コンパニ—「大隊」)が冬営のために村々を脅かし、領主の館すら守りにならない状況が広がりました。こうした治安不安は、自衛のための集団行動と、既存権威への抗議を同時に生み出します。
社会経済的には、黒死病後の労働力不足で賃労働の価格が上がる一方、領主は賦役の回復や身分的拘束の強化で収入を補おうとしました。市場の動揺と流通の停滞は物価を不安定化させ、村落の貨幣負担を増やします。村役人(プリュダム=「善良な人々」)は徴税・防衛・交渉の実務を担わされ、板挟みのストレスが蓄積しました。ジャックリーの乱は、こうした多層の圧力が同時に吹き出す場となります。
名称と指導層――「ジャック・ボノム」とギヨーム・カル
「ジャックリー(Jacquerie)」という語は、フランス語の蔑称「ジャック」に集団接尾辞が付いたもので、都市と貴族側の史料が蜂起を「無教養な田舎者の暴動」として名づけたところに由来します。ジャック・ボノム(良いジャック)という呼びは、中世都市の上層にとって「単純で従順な百姓」を意味する常套句であり、反乱の主体が「政治的行為者」として語られにくい構図を作りました。史料の多くは聖職者や都市エリートの筆によるため、蜂起側の声は断片的にしか伝わっていません。とはいえ、村落の会合、鐘の合図、教会や館の襲撃の手順、武器の手配などからは、現場レベルの組織性と情報網の存在がうかがえます。
指導的役割を果たしたとされるギヨーム・カルは、ボーモンやクレールモン周辺の村役人(分限者)だった可能性が高い人物で、徴税や村の防衛実務を担う立ち位置にありました。彼の周辺には、鍛冶・粉挽・商人など、武器や物資にアクセスしやすい職能人が集まり、短期間で多数の農村が動員されました。ジャックリーの蜂起は無秩序な突発ではなく、村ごとに代表格が立ち、近隣のネットワークを介して一帯が連鎖した現象だったのです。
展開――暴力の連鎖と都市政治の交錯
蜂起は1358年5月末から6月にかけて急速に拡大します。多くの村々で、領主の館(マナ—)や防備の弱い城が襲撃され、文書の破棄、穀倉の焼き討ち、貴族・従者・修道士の殺害や拷問が報じられました。暴力の対象は象徴的で、封建的支配の記録と徴発の拠点を破壊する行為は、単なる略奪を超えて旧秩序への攻撃という意味を帯びます。他方で、戦時の残虐と報復の慣行は農村側にも内面化され、女性や聖職者への暴行が記録されるなど、暴力は無差別化する局面を孕みました。ここには、長年の戦争がもたらした倫理の崩壊が反映しています。
パリの市民運動との関係は複雑です。市政を握ったエティエンヌ・マルセルは、王太子シャルルに対抗するため近郊農民の蜂起を戦略的に利用しようとし、蜂起勢と都市民兵が合流した場面もありました。いっぽうで都市は、食糧供給と治安の維持という実利を優先し、状況次第で農村側を切り捨てる冷徹さも見せます。ジャックリーは都市政治の駆け引きに巻き込まれ、反王権の駒とも、秩序回復の犠牲ともなり得る、きわめて不安定な位置に置かれました。
蜂起の広がりに危機感を募らせた貴族側は、ナバラ王シャルル(通称「悪しきシャルル」)や、イングランド側に与した名将キャプタル・ド・ブシュらを中心に、機動力の高い騎兵を動員して各地で反撃に転じます。ジャックリー側は槍や農具、即席の武装が中心で、開けた野戦では騎兵に歯が立ちませんでした。要所では防御に成功した例もあったものの、6月10日前後から形勢は急速に逆転します。
敗北と弾圧――メロの壊滅と見せしめの政治
決定的な局面となったのが、6月末のメロ(Mello)近郊の戦闘です。ギヨーム・カルは休戦交渉に応じる名目で呼び出され、謀略によって拘束されたと伝えられます(史料によって細部は異なります)。指揮官を失った蜂起軍は乱戦の末に崩壊し、多数が捕虜となりました。カルは拷問の後、見せしめとして処刑され、以後、各地で公開刑と村落への重罰が相次ぎます。貴族側は、蜂起参加の疑いがある村から罰金・補償金を徴収し、焼失した館の再建費用を課しました。教会当局は説教で「秩序の回復」を称え、書記たちは蜂起の残虐性を誇張して記録し、反乱抑止のプロパガンダとして機能させます。
短期的には、弾圧は徹底的でしたが、長期的に見ると、暴力の応酬は農村・都市・貴族の相互不信を深め、王国の統合をさらに難しくしました。王太子シャルルは、即位後(シャルル5世)に財政・軍制の再建で秩序を取り戻していきますが、ジャックリーの記憶は、地方ごとの「自助」と「反抗」の潜在力を当局に意識させ続けました。
史料・言説と「ジャックリー像」――誰が語り、何が消されたか
ジャックリーの乱を伝える主要史料は、年代記作者や修道士、都市の書記が中心で、語りは多くが蜂起側に非友好的です。暴力の残虐さは克明に描かれる一方、彼らが何を要求し、どのような合議で行動したのかは乏しく、運動内部の意思決定についての情報は欠落しています。「愚昧な百姓」という固定観念は、蜂起を政治の外部に追いやり、封建的秩序に対する理性的批判の可能性を見えにくくしました。近代歴史学は、租税台帳、法廷文書、村落規約、地名・人名の追跡、考古学的痕跡などを用いて、蜂起の社会的基盤とネットワークを再構成しようとしてきました。
同時代のパリ市民運動との関係も、史料の対立のなかで評価が揺れます。エティエンヌ・マルセルは農民との連携を戦術的に追求しましたが、最終的に彼自身がパリで暗殺され、都市の運動は瓦解します。都市と農村の「民衆」は常に一致したわけではなく、利害のズレと不信が協力の限界を形づくりました。この相互不信の構造は、後世の蜂起においても繰り返し観察されます。
比較と波及――14世紀末の反乱連鎖の一断面
ジャックリーの乱は孤立した事件ではありませんでした。14世紀後半から15世紀にかけて、西欧各地で農民・町人の反乱が相次ぎます。フランドルの反乱、ロワール以南のトゥシャン運動、ノルマンディーのアレル(ハレル)などのフランス国内の動きに加え、1381年のイングランド農民反乱(ワット・タイラーの乱)は、課税と身分的拘束への反発を背景に都市と農村が連動した事例として著名です。これらは、戦争・疫病・人口減少・財政難という「14世紀の危機」が共通に生み出した現象でした。ただし、各地の運動の指導層、要求、戦術、結果は大きく異なります。ジャックリーの乱は、短期決戦・短期終息型で、象徴的暴力と報復の応酬が激しかったのに対し、イングランドの反乱は王権の直接交渉を引き出し、要求目録が比較的明瞭に残りました。
比較史的視点からは、(1)王権の強度と交渉回路の有無、(2)都市と農村の協力関係、(3)傭兵勢力の存在と治安状況、(4)史料の偏りと語りの政治、が蜂起の性格を左右することが見えてきます。ジャックリーの乱は、とりわけ(1)(3)の条件が悪く、交渉より軍事鎮圧のコストが低いと判断されたことで流血が拡大したと解釈できます。
用語と地理の手引き――固有名の整理
主要固有名を整理しておきます。人物では、ギヨーム・カル(蜂起側の指導的人物)、王太子シャルル(のちのシャルル5世、当時は摂政)、エティエンヌ・マルセル(パリ市政の長、商人ギルドの代表的人物)、ナバラ王シャルル(NavarreのCharles、しばしばフランス貴族連合の軍事指導に関与)、キャプタル・ド・ブシュ(ガスコーニュの有力騎士)など。地名では、ボーヴェ(Beauvais)、サンリス(Senlis)、クレールモン(Clermont)、ムラン(Melun)、メロ(Mello)、そしてパリ。蜂起はオワーズ川流域の村々からパリ北方の一帯に広がり、場所によって都市との関係性や戦況は大きく異なりました。
語の由来としての「ジャック」は、一般名詞としてのジャック(庶民男子名の代表)から派生した蔑称で、ジャック・ボノムは「お人好しの百姓」の意を帯びます。これが運動全体の名称に固定化した事実そのものが、記憶の政治性を物語っています。
後景――蜂起は何を残したのか
弾圧後の農村は、しばらく沈黙を余儀なくされますが、徴税と軍役、治安の緩みが続く限り、不満の火種は消えませんでした。王権は、常備軍の整備や貨幣制度の安定化、徴税の合理化に着手し、とくにシャルル5世は行政の再建で秩序の回復に努めます。長期的には、封建的保護の契約が実質を失うなか、近世初頭に向けて国家の官僚制と常備軍が「保護」の担い手として台頭していきます。ジャックリーの乱は、この転換期における農村の叫びとして読むことができます。守られない契約への怒り、戦争の私有化に対する拒否、都市との不安定な連帯――それらは、近代以前の「民衆政治」の限界と可能性を同時に映し出しました。
記憶の面では、近代以降の歴史叙述や文学・演劇・絵画が、ジャックリーを「野蛮」か「悲劇の民衆」かのどちらかに振り分けがちでした。今日の研究は、暴力の実相を直視しつつ、蜂起の背後にある日常の協議・分配・自衛の実践を掬い上げ、単純な善悪二元論を避ける方向にあります。ジャックリーという語がもつ蔑視のニュアンスに敏感であること、都市と農村、貴族と百姓という図式の間に横たわるグレーゾーンを丁寧に読み解くことが、事件の理解を深めます。
小括――危機の世紀における瞬間的爆発
ジャックリーの乱は、14世紀の危機のただなかで、農村社会が抱えた不満と不安、そして自衛の衝動が一気に噴出した出来事でした。王権の空白と都市政治の策動、傭兵の跋扈と領主保護の破綻が重なり、蜂起は急速に拡大し、同じ速度で鎮圧されました。残されたのは、暴力の記憶と相互不信、そして「誰が誰を守るのか」という問いです。史料の偏りを意識しつつ、この蜂起を地域社会の実態と国家形成の文脈に置いて考えるとき、ジャックリーは単なる暴動ではなく、社会契約の破綻に対する劇的な応答として立ち現れます。そこには、戦争と政治のコストを最も重く負わされた人びとの、短い叫びが刻まれているのです。

