宗教寛容令 – 世界史用語集

宗教寛容令(しゅうきょうかんようれい)とは、一般に18世紀後半のハプスブルク帝国(オーストリア)の皇帝ヨーゼフ2世が出した法令を指し、それまでカトリックが絶対的に優位だった領内で、プロテスタントや正教徒などの信仰を一定の条件付きで認めた政策のことです。世界史の教科書では「啓蒙専制君主」の改革の一つとして紹介され、絶対王政のもとでも宗教の自由や寛容の考え方が広がっていったことを示す重要な事例として扱われます。

当時のヨーロッパでは、宗教改革以来、カトリックとプロテスタントの対立が長く続き、三十年戦争などの大きな戦争も起こってきました。17世紀のウェストファリア条約以降、宗教対立はある程度落ち着いたものの、多くの国では依然として「支配者の宗教=領民の宗教」という原則が強く、異なる宗派の信仰は制限されることが多かったです。そうした中で、啓蒙思想の影響を受けた君主たちは「理性」や「寛容」を掲げ、信仰の違いによる差別をゆるめていこうとしました。ヨーゼフ2世の宗教寛容令は、その代表例の一つです。

宗教寛容令によって、カトリック以外のキリスト教徒たちは、私的な礼拝を行う権利や、一定の条件付きながら教会・学校の設立や職業選択の自由を与えられました。また、その後にはユダヤ人に対する制限をゆるめる法令も出されます。ただし、あくまでカトリックが「国家の優位な宗教」であることは変わらず、完全な意味での信教の自由が認められたわけではありませんでした。それでも、従来の厳しい差別や迫害に比べれば大きな前進であり、宗教と国家の関係が変化しつつあることを示すものでした。

簡単にまとめると、宗教寛容令とは「啓蒙専制君主ヨーゼフ2世が、カトリック以外の信仰に対する制限をゆるめ、一定の宗教の自由を認めた法令」であり、宗教対立の時代から、より寛容で多様な社会へと向かう流れの一場面ととらえることができます。以下では、この宗教寛容令が生まれた背景、ヨーゼフ2世の改革全体の中での位置づけ、具体的な内容とその影響、そしてその限界とその後の展開について、もう少し詳しく見ていきます。

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宗教寛容令という用語の意味と基本的な内容

世界史で「宗教寛容令」といった場合、もっとも典型的には1781年にハプスブルク帝国の皇帝ヨーゼフ2世が出した「非カトリック教徒に対する寛容令」を指すことが多いです。ヨーゼフ2世は母マリア=テレジアの共同統治者として政治に参加し、母の死後に単独皇帝となってから、教育・行政・農奴制・宗教など多方面にわたる大規模な改革を進めました。その一つが、宗教問題に関する一連の法令、とくに「宗教寛容令」です。

この宗教寛容令は、カトリックを国教とする体制を基本的には維持しながらも、ルター派やカルヴァン派(改革派)、ギリシア正教徒など、これまで制限されていた他のキリスト教諸派に対して、一定の信仰の自由を認めるものでした。具体的には、彼らが私的な礼拝をおこなう権利、一定人数以上の信者が集まる場合には教会堂や学校を設置する権利、そして職業選択や商業活動における差別を軽減する規定などが含まれていました。

さらに、ヨーゼフ2世は1780年代の中で、ユダヤ人に対する制限をゆるめる法令も公布しました。ユダヤ人は、それまで多くの地域で居住や職業に厳しい制約を課されていましたが、ヨーゼフ2世は彼らに学校教育の機会を与え、職業選択の幅を広げ、ドイツ語の使用を促すなど、社会への統合を進めようとしました。こうした一連の政策も、広い意味での「宗教寛容」政策の一部として理解されています。

もっとも、宗教寛容令は「宗教を完全に自由にして、国家は一切口出ししない」という現代的な意味での信教の自由ではありませんでした。カトリックは依然として特権的な地位にあり、非カトリック教徒の礼拝には外見上の制限(教会に塔や鐘楼をつけないなど)が設けられました。また、改宗や宣教活動には一定の制約が残り、国家は宗教生活を「理性にかなう範囲で」管理し続けました。

それでも、従来のカトリック一色の状況と比べれば、宗教寛容令は大きな変化でした。異なる信仰を持つ人々が「公認された存在」となり、社会の一員として認められる方向へと進んだのです。世界史学習では、宗教寛容令を通じて、「絶対王政下でも啓蒙思想の影響で、宗教の多様性が徐々に容認されていった」という流れを押さえることができます。

宗教寛容令が生まれた背景:啓蒙専制とハプスブルク帝国

宗教寛容令を理解するには、18世紀のヨーロッパに広がった啓蒙思想と、それを取り入れようとした「啓蒙専制君主」の存在を押さえることが重要です。啓蒙思想家たちは、理性や経験に基づいて世界を理解し、人間の権利や自由、寛容の価値を語りました。宗教についても、盲目的な信仰や教会権威への絶対服従を批判し、「信仰は個人の良心の問題であり、国家や教会はそれを過度に縛るべきではない」という考えが広がりました。

一方で、当時のヨーロッパ諸国の多くは依然として絶対王政のもとにありました。啓蒙思想をそのまま実現すると、君主の権威や身分制度が揺らぎかねません。そこで一部の君主たちは、「君主自らが理性と啓蒙思想に基づいて改革を行い、国家を近代化する」という道を選びました。これが、フリードリヒ2世(プロイセン)、エカチェリーナ2世(ロシア)、そしてヨーゼフ2世(オーストリア)などに代表される「啓蒙専制君主」です。

ハプスブルク帝国は、多くの民族・言語・宗教が共存する多元的な国家でした。オーストリアやボヘミアではカトリックが優勢でしたが、ハンガリーやトランシルヴァニア、ガリツィアなどにはプロテスタントや正教徒、ユダヤ人が多く住んでいました。17世紀の三十年戦争やその後の再カトリック化政策を経て、非カトリック教徒は様々な制限を受け、政治参加や教育、職業選択の面で不利な立場に置かれていました。

ヨーゼフ2世は、こうした状況を「国家の統治効率」という観点から問題視しました。彼にとって重要だったのは、神学的な正統性よりも、「多様な臣民をいかに合理的に管理し、国家の財政や軍事力を強化するか」という実務的な視点でした。異なる信仰を持つ人々を無理に抑圧するよりも、一定の自由を認めて経済活動や教育に参加させた方が、国家全体の発展にとって有利だと考えたのです。

また、ヨーゼフ2世は、国家と教会の関係を見直し、カトリック教会を国家の管理下に置こうとしました。修道院の数を減らし、教会財産を国家の監督下に置き、司祭や司教の任命にも積極的に介入しました。これらの政策は、教皇や保守的な聖職者からは強い反発を受けましたが、ヨーゼフ2世は「教会もまた国家のために存在するべきだ」という一貫した姿勢を貫こうとしました。

このように、宗教寛容令は、単に「心優しい皇帝が少数派への差別をかわいそうに思って出した法令」というよりも、「多民族・多宗教国家を合理的・効率的に統治するために、啓蒙思想と国家理性を取り入れた改革」の一環として位置づけられます。ヨーゼフ2世にとって、宗教政策の改革は、農奴制改革や行政改革、教育制度改革などと同じく、「国家を近代化する大プロジェクト」の一部だったのです。

宗教寛容令の具体的内容と社会への影響

宗教寛容令の具体的な内容は地域や対象によって細かな違いがありますが、中心となるポイントを整理すると、いくつかの重要な要素が見えてきます。まず、ルター派や改革派、正教徒といった非カトリック教徒に対し、私的な礼拝や宗教活動を認めることが挙げられます。これまでは秘密裏にしか信仰を守れなかった人々が、公認された形で集会を開き、教会組織を持つことができるようになったのです。

次に、教会堂や学校の設立に関する規定があります。一定以上の人数の信徒がいる場合、彼らは当局の許可を得て礼拝所や教育施設を作ることが承認されました。ただし、建物の外観には制限があり、カトリック教会と区別するために塔や鐘楼を設けないことなどが求められました。これは、形式上はカトリックの優位を保ちつつ、他宗派にも生活に必要な宗教施設を認めるという折衷的なやり方でした。

さらに、職業選択や経済活動に関する制限が緩和されました。非カトリック教徒は、これまで就くことが難しかった職業に就けるようになり、商業や手工業、行政の一部の仕事に参加する道が開かれました。これにより、彼らは社会の中でより積極的な役割を果たすことができるようになり、経済活動の活性化にもつながりました。

ユダヤ人に対する政策も、宗教寛容の重要な側面です。ヨーゼフ2世は、ユダヤ人に世俗教育を受けることを義務づけ、ヘブライ語だけでなくドイツ語の習得を奨励しました。また、居住や移動の自由をある程度広げ、職業選択の幅を増やしました。一方で、伝統的なユダヤ人共同体の自治や宗教的慣習には一定の制約を加え、国家への統合を進めようとしました。これは、寛容と同化政策が複雑に交じり合った改革だったと言えます。

宗教寛容令の影響は、社会のさまざまな層に及びました。非カトリック教徒にとっては、長年続いた差別や不利な扱いが緩和され、自分たちの信仰と職業を両立させる可能性が広がりました。都市部では、プロテスタントやユダヤ人の商人・職人・知識人が、比較的自由に活動できる環境が整い、経済や文化の面で多様性が増していきました。

一方、カトリック教会や保守的な信者にとっては、宗教寛容令は「真の信仰が相対化される危険な政策」に見えることもありました。特に地方の司祭や貴族の中には、「異端」と見なしてきた人々に特権が与えられることに強い不安と反発を抱く者もいました。また、教会財産の整理や修道院の廃止など、ヨーゼフ2世の他の宗教改革と合わせて、伝統的な宗教生活が大きく揺さぶられることになりました。

こうした緊張の中でも、宗教寛容令は長期的には、ハプスブルク帝国内での宗教的多様性と共存の土台を作る役割を果たしました。後の時代、民族運動や自由主義運動が高まっていく中で、「宗教を理由に人を排除しない」という考え方は、近代的な市民社会の形成と結びついていきます。

宗教寛容令の限界とその後の展開

宗教寛容令は、一見すると先進的で人道的な政策のように見えますが、その限界も多く指摘されています。まず第一に、この法令はあくまで君主の側から一方的に出されたものであり、臣民の側からの政治的参加や発言の自由が十分に保障されたわけではありませんでした。ヨーゼフ2世は「人民の幸福」を重視していましたが、その手段を決めるのはあくまで自分自身であり、民衆の意見や伝統に十分な配慮を欠いた面があります。

第二に、宗教寛容令は、すべての宗教に対して対等な自由を認めたものではありませんでした。カトリックは依然として優位な地位を占め、国家と強く結びついていました。非カトリック教徒やユダヤ人は、確かに以前よりも権利が広がりましたが、その信仰や文化を完全に自由に守ることができたわけではなく、しばしば「国家に役立つ範囲で」容認されたにすぎませんでした。

第三に、改革の進め方の急激さも問題となりました。ヨーゼフ2世は短期間で多くの改革を一気に推し進めたため、地方社会や伝統的エリートの間に強い反発が起こりました。農奴制改革や行政改革、修道院の整理など、他の分野の改革と重なって不満が蓄積し、彼の死後には弟レオポルト2世のもとで一部の政策が修正・後退することになります。宗教寛容令自体も、地域や内容によって運用が揺れ動きました。

それでも、宗教寛容令が歴史的に重要なのは、宗教をめぐる国家の姿勢が「正統信仰の強制」から「異なる信仰の一定の容認」へと徐々に変化する転換点の一つを示しているからです。フランス革命やアメリカ独立革命のように、「人民の権利宣言」や憲法に明文で信教の自由を記す動きとは別のルートとして、「啓蒙専制君主による上からの寛容政策」という道があったことも、世界史を立体的に理解する上で重要です。

19世紀以降、ヨーロッパでは自由主義や民族主義の運動が高まり、信教の自由は多くの国で憲法上の権利として位置づけられていきます。ハプスブルク帝国でも、1848年革命やその後の憲法制定を通じて、宗教の自由がより広く認められる方向へ進みました。その意味で、ヨーゼフ2世の宗教寛容令は、完全な自由とは言えないものの、「宗教をめぐる近代化」の初期段階として位置づけることができます。

今日、「宗教寛容」という言葉は、特定の宗教寛容令だけでなく、多様な信仰や価値観を尊重し、暴力や差別ではなく対話によって共存を図る姿勢全般を指すことも多いです。ヨーゼフ2世の宗教寛容令は、その歴史的出発点の一つとして、「宗教の違いを持つ人々をどのように一つの社会の中でともに生きさせるか」という課題に対する、ある時代なりの答えだったと見ることができます。