「上京竜泉府(じょうけいりゅうせんふ)」とは、東アジアに存在した国家・渤海国(ぼっかいこく/渤海)の主要な都(みやこ)の一つで、最盛期には政治・経済・文化の中心として機能した都市のことです。現在の中国黒竜江省牡丹江市寧安市付近にあった都城の跡で、朝鮮半島北部から沿海州にかけて広がった渤海国の「首都」として位置づけられます。
上京竜泉府は、唐の都・長安や日本の平城京と同じように、南北・東西に整然と区画された計画都市として建設されました。外城・内城・宮城という三重の構造をもち、外郭の中に役所や住居区画が並び、北側には王宮のある宮城が配置されるという、本格的な都城の形を備えていました。その規模は東北アジアでも最大級の都市の一つとされ、渤海が「海東の盛国」と呼ばれたゆえんの一端がここに見て取れます。
また、この都は「東京城(とうけいじょう/東京城)」とも呼ばれ、日本の史料にもたびたび登場します。渤海と日本は8世紀から9世紀にかけて使節や商人をさかんに往来させており、その外交・交易の舞台となったのが上京竜泉府でした。遺跡からは日本の貨幣・和同開珎(わどうかいちん)なども出土しており、当時の活発な交流を物語っています。
現在、上京竜泉府は城壁跡や宮殿跡、仏教寺院跡などが広大な範囲にわたって残る遺跡となっており、渤海国の都市文化や対外関係を知るうえで非常に重要な史跡です。以下では、この上京竜泉府がどのような都であったのか、その成立背景や都市構造、日本との関係、そして発掘調査によって明らかになった姿について、もう少しくわしく見ていきます。
渤海国と上京竜泉府:どのような都だったのか
まず、上京竜泉府を理解するためには、その都を築いた渤海国そのものに触れておく必要があります。渤海国は、7世紀末の698年ごろ、大祚栄(だいそえい/テ・ジョヨン)によって建てられた王国で、高句麗の流れをくむ人びとと、ツングース系の靺鞨(まつかつ)などが結びついて形成された多民族国家でした。領域は現在の中国東北部から朝鮮半島北部、ロシア沿海州にまで及び、唐からは「海東の盛国」と称されるほどの勢力を持っていました。
渤海国は、建国後しばらくしてから都城を複数整備し、「五京制」と呼ばれる体制をとりました。つまり、上京・中京・東京・南京・西京といった複数の都を設け、政治・軍事・経済上の拠点を分散させたのです。その中でも「上京竜泉府」は、とくに重要な都であり、王権の象徴とされました。渤海がもっとも栄えた時期には、ここが実質的な首都として機能していたと考えられています。
上京竜泉府が都として整備されたのは、8世紀半ば以降とみられます。渤海第三代王・大欽茂(だいきんも)や、その後の王たちの時代に、唐の長安城をモデルとした本格的な都城が建設されました。史料によれば、上京竜泉府は756年ごろから約30年にわたって国都となり、いったん別の都に遷都したあとも、8世紀末から9世紀にかけて再び首都として用いられ、およそ160年ほどにわたって渤海国の中心であり続けたとされています。
このように、上京竜泉府は、一時的な臨時首都ではなく、渤海国の政治と文化がもっとも成熟した時期にその中枢を担った都でした。国王の居所である宮殿や中央官庁が置かれ、国内外から人と物が集まる拠点として機能していたと考えられます。そのため、この都の姿を解き明かすことは、渤海国という国家の性格そのものを理解することにもつながります。
場所と都市構造:長安を手本にした計画都市
上京竜泉府の遺跡は、現在の中国黒竜江省牡丹江市寧安市渤海鎮周辺に位置します。牡丹江(ぼたんこう)という川が北と西を取り囲むように流れ、周囲は山と水に囲まれた自然の要害となっています。ここに築かれた都城は、唐の都・長安や、日本の平城京・平安京と同様、南北・東西に整然と区画された「方形の都」の形式をとっていました。
上京竜泉府は、大きく外城・内城・宮城の三重構造から成り立っていました。最も外側の外城は長方形の土塁で囲まれ、その内側に役所や住居、寺院などが整然と配置されていました。外城の規模は東西約4600メートル、南北約3500メートルほどと推定され、面積にすると16平方キロメートル前後にも達します。これは、当時の東北アジアの都市としてはきわめて大きな規模であり、渤海国の国力を示すものだと考えられます。
外城の北側中央部には、さらに土塁や石垣で囲まれた内城が設けられ、その北隅には王宮のある宮城が築かれていました。宮城は石積みの城壁で囲まれ、その内部には五〜六棟の大規模な宮殿建築が南北方向に並んでいたと推定されています。これは、長安城の宮城や、日本の平城宮・大内裏にも通じる配置であり、渤海国が唐の都城制を積極的に受け入れていたことを示しています。
都城内部は、南北・東西に走る大路によって区画され、方形の街区(坊)に分割されていました。これは長安城や平城京と同じく、「条坊制」と呼ばれる都市計画の方式です。商業地区、官庁街、貴族・官僚の邸宅地、一般の住居区などが区分され、それぞれに役割を持っていたと考えられます。都の南側には正門にあたる南大門が置かれ、そこから宮城へと伸びる南北の大路は、儀礼や行幸の際に重要な舞台となったことでしょう。
また、上京竜泉府では仏教寺院も多数確認されています。遺跡の中には、寺院跡とみられる基壇や塔の跡が点在し、仏像や石塔、石灯籠などが出土しています。とくに有名なのが、高さ6メートルにも達するといわれる石灯籠で、渤海国における仏教文化の隆盛を象徴する遺物として知られています。これらの寺院は、王族や貴族の信仰の場であると同時に、学問や文化の中心としても重要な役割を果たしていたと考えられます。
このような都城の構造からは、渤海国が単なる辺境の地方政権ではなく、唐王朝の先進的な都市文化を積極的に取り入れ、それを自らの政治秩序や都市生活に合わせて再構成した高度な国家であったことが見えてきます。上京竜泉府は、その象徴的な舞台だったと言えるでしょう。
日本との交流と「東京城」としての上京竜泉府
上京竜泉府が日本の歴史にも登場するのは、渤海国との外交・交易の場としてです。日本の史料では、この都は「東京城(とうけいじょう)」と呼ばれることが多く、「海の向こうの大国・渤海の都」として意識されていました。奈良時代から平安時代にかけて、日本と渤海国のあいだでは、互いに使節を派遣し合う関係が続きました。
渤海から日本に来る使節は「渤海使(ぼっかいし)」、日本から渤海へ向かう使節は「遣渤海使(けんぼっかいし)」と呼ばれます。記録によれば、8世紀から9世紀にかけて渤海使は30回以上、日本からの遣渤海使も十数回派遣されたとされます。彼らは主に日本海を横断する航路を通り、出羽国や北陸地方の港に着き、そこから都へ向かうルートをたどりました。
このような往来の最終目的地として位置づけられたのが上京竜泉府=東京城です。日本からの使者は、まず渤海の沿岸部の港に到着し、そこから内陸に進んで上京竜泉府に入り、王に謁見しました。都では儀礼的な使節の交換だけでなく、絹織物や毛皮、人参などの特産物、金属製品・工芸品など多様な物資の交易も行われました。
こうした交流の存在は、上京竜泉府の遺跡から出土した品々にも表れています。とくに注目されるのが、日本の古代貨幣・和同開珎(わどうかいちん)の出土です。日本で鋳造された貨幣が渤海の都で見つかったという事実は、両国の間に実際の物流と経済的なつながりがあったことを具体的に示しています。また、装飾瓦や仏教美術品には、唐や朝鮮半島、日本など東アジア各地の影響を感じさせる意匠も見られ、上京竜泉府が国際的な文化交流の場であったことがうかがえます。
日本側から見ると、渤海国は新羅に対抗しうる友好国として位置づけられました。朝鮮半島北部から満州にかけて勢力を伸ばす渤海と友好関係を築くことで、日本は新羅や唐との関係において一定のバランスを取ろうとしたのです。その意味で、上京竜泉府は単なる外国の都というだけでなく、日本の対外政策・東北アジア外交の中で重要な役割を演じた都市でもありました。
遺跡調査と現代に伝わる上京竜泉府の姿
渤海国が10世紀前半に契丹(きったん)族の遼によって滅ぼされると、上京竜泉府もやがて放棄され、都市としての機能を失いました。その後長いあいだ、都城跡は土塁や瓦片を残すだけの遺跡となり、その本格的な姿は歴史の中に埋もれていました。しかし20世紀以降、中国や日本、韓国などの研究者による調査・発掘が進められ、少しずつ具体的な姿が明らかになってきました。
1930年代、日本の調査隊による発掘で、上京竜泉府の城壁や宮殿跡、寺院跡などが確認され、その都城が唐の長安城を手本にした条坊制の計画都市であったことが判明しました。戦後も中国の考古学者による調査が継続され、外城・内城・宮城の構造、城門や道路の配置、宮殿建築や庭園遺構などが次々と明らかになっています。
遺跡からは、石造の灯籠や石獅子、仏像、石塔、花文をほどこした瓦、文字を刻んだ瓦片など、多くの文化財が出土しています。これらは、渤海国が仏教を厚く信仰し、同時に唐風の建築技術や美術様式を積極的に取り入れていたことを示す資料です。一方で、石造品の表現や瓦の文様には独自性も見られ、渤海文化が単なる模倣ではなく、自らの美意識を育んでいたことも感じられます。
上京竜泉府の城跡は、現在では中国側で重要な文化財保護区として指定され、考古公園や博物館が整備されています。宮殿跡や城壁の一部は復元・整備され、訪れる人びとは広大な都城のスケールと、そこにかつて存在した国家・渤海の姿を想像することができます。近年は、東アジア史や中韓日の関係史をめぐる議論の中でも、この遺跡の位置づけが注目されるようになりました。
上京竜泉府に関する研究は、渤海国の正体や、東北アジアにおける古代国家の交流ネットワークを理解するうえで欠かせません。都城の構造や出土品を通して、渤海が唐をはじめとする周辺諸国から文化を受け継ぎつつ、自らもまた周辺地域に影響を与えていた姿が浮かび上がります。その中心にあった都こそが、上京竜泉府だったのだといえるでしょう。

