「尚巴志(しょうはし)」は、15世紀前半に琉球(現在の沖縄本島を中心とする地域)を初めて統一し、「琉球王国」の基礎を築いた王として知られる人物です。それまで琉球は中山・北山・南山という三つの勢力に分かれて争っていましたが、尚巴志は父・尚思紹(しょうししょう)とともに中山で力を伸ばし、やがて北山・南山を相次いで服属させることで「三山統一」を成し遂げました。この統一によって、琉球は一つの王権のもとで中国や日本、東南アジア諸国と積極的に交易を行う海洋国家へと歩み出すことになります。
尚巴志の時代、琉球は明(みん)王朝とのあいだで朝貢・冊封(さくほう)関係を結び、「中山王」として国際的にも正式な王として認められました。尚巴志は首里城を政治の中心とし、那覇を港町として整備しながら、中国・朝鮮・日本・東南アジア世界との往来を活発にし、貿易を通じて富と文化を取り入れました。その結果、琉球は「万国津梁(ばんこくしんりょう)=万国をつなぐ懸け橋」とも呼ばれる国際交易国家として発展していきます。
一方で、尚巴志の事績は、後世に編まれた『中山世鑑』『球陽』などの史書やさまざまな伝承によって伝えられており、そこには事実と物語が交じり合った側面もあります。たとえば、父・尚思紹の出自や、尚氏王統の正統性をめぐる物語は、王権の権威を高めるために後から整えられた要素も含んでいると考えられています。それでも、三山統一と王国建設の中心に尚巴志がいたこと自体は確かであり、琉球史を語るうえで欠かせない人物です。
以下では、まず三山時代の琉球の状況と尚巴志の出自・台頭を確認し、そのうえで三山統一の過程、首里・那覇を中心とする王国体制の整備、そして尚巴志以後の琉球王国の発展とのつながりについて、順を追って解説していきます。
三山時代の琉球と尚巴志の出自
尚巴志が登場する以前の琉球は、「三山時代」と呼ばれる分立の時代にありました。沖縄本島には、大まかに北部の「北山」、中部の「中山」、南部の「南山」という三つの勢力が存在し、それぞれに按司(あじ)と呼ばれる有力首長が支配していました。これら三山は、中国との朝貢貿易の利権や島内の支配権をめぐって競い合い、ときに武力衝突も起こしていました。
この時期の琉球社会は、城(グスク)と呼ばれる石造りの城塞を拠点とする按司たちが、周辺のムラを支配するしくみが基本でした。按司たちは、農産物の収取や海上交易を通じて富を蓄え、また中国の明王朝や日本の諸大名などと関係を結びながら、自らの勢力を拡大しようとしていました。しかし、三山が並立している限り、琉球全体として一つの対外政策を取りにくく、対外貿易の利益も分散せざるをえませんでした。
尚巴志の父である尚思紹は、もとは佐敷(さしき)按司とされ、沖縄本島南部の一角を支配する地方勢力の一人でした。彼がどのような出自を持つかについては史料によって説が分かれており、後世の王朝史書は尚氏の権威を高めるために「中山王家に連なる血筋」「異民族や外来の英雄」といったさまざまな物語を付け加えています。いずれにせよ、尚思紹は次第に勢力を伸ばし、やがて中山王府の実権を握るようになりました。
尚巴志は、この尚思紹の子として生まれ、若いころから父とともに中山の政治・軍事に関わっていったと考えられます。史書によれば、尚思紹は一時的に中山王として立てられますが、明からの正式な冊封は受けておらず、その立場はまだ不安定でした。そこで、尚巴志の世代で、明との正式な関係を築き、三山を統一することで、より安定した王権を目指すことになります。
三山時代の琉球では、中国との朝貢貿易が非常に重要でした。明王朝は「海禁政策」によって民間の海外交易を制限する一方、冊封関係にある周辺諸国とは公的な朝貢貿易を認め、その代わりにその国の君主に「王号」を授けていました。北山・中山・南山は、それぞれ明への朝貢を通じて王号の承認と貿易の利権を獲得しようとしており、この競争に勝つことが、琉球内での政治的優位にもつながっていたのです。
三山統一への道:中山王としての台頭
尚巴志が歴史上の表舞台に本格的に登場するのは、父・尚思紹の後を継いで中山の政権を握ってからです。尚巴志は、まず中山内での基盤を固めつつ、周辺勢力との力関係を調整し、三山の中で中山の優位を確立しようとしました。史書では、尚巴志が智略と軍事力を兼ね備えた人物として描かれており、ときには柔軟な外交、ときには武力を用いながら、段階的に勢力を拡大していきます。
三山統一の過程は、北山征服と南山制圧という二つの大きなステップに分けて語られることが多いです。まず、北山は沖縄本島北部から奄美方面にかけて勢力を広げており、海上交通の要衝を押さえる存在でした。尚巴志は、北山内部の対立や外部環境の変化を利用しながら、北山を攻め、ついにその勢力を服属させます。このとき、北山の有力按司たちは処刑や追放の対象となることもありましたが、一部は新王権のもとで地位を与えられるなど、統合のための懐柔策も取られました。
次に、南山は沖縄本島南部を拠点とする勢力で、那覇周辺の港湾や交易に関わる利権をめぐって中山と激しく競合していました。尚巴志は、南山に対しても軍事的圧力と外交的工作を組み合わせ、最終的には南山王を降伏させ、領域を中山王権のもとに取り込むことに成功します。こうして、北山・南山を取り込んだ尚巴志は、沖縄本島全域を実質的に支配する立場となり、「三山統一」が達成されたとされます。
三山統一の時期としてよく挙げられるのは、15世紀初頭、具体的には1420年代ごろです。この統一を明王朝も承認し、尚巴志は「中山王」として正式に冊封を受けます。冊封は、中国皇帝が周辺諸国の君主に公式に王号を授ける儀礼であり、同時にその国との朝貢貿易を認めることを意味しました。なお、明の側から見れば、琉球は「中山」という一つの王国として扱われるようになり、北山・南山の存在は名実ともに後景に退いていきます。
こうして尚巴志は、国内的には三山の諸勢力を統合した王として、対外的には明から承認された「中山王」として、その地位を固めました。三山統一は単なる軍事的勝利ではなく、対外関係の枠組みもふくめた新しい政治秩序の確立でもあったのです。
首里・那覇の整備と国際交易ネットワーク
三山を統一した尚巴志は、統一王国の拠点として首里(しゅり)を政治の中心に定め、首里城の整備を進めました。首里城は、それ以前から中山の按司の居城として存在していたと考えられますが、尚巴志の時代に王城としての機能が強化され、政治・儀礼の中心地となっていきます。首里城の周辺には役所や貴族の屋敷が置かれ、中山王権の行政機構が整えられていきました。
一方、海上交易の中心となったのが那覇です。那覇は、もともと良港として知られていましたが、尚巴志の時代には中国や東南アジア、日本などからの船が往来する国際港として整備されました。那覇港周辺には、外国商人のための居留地や倉庫、交易品を管理する施設などが整えられ、港町として大きく発展していきます。後世に「那覇は王国の表玄関、首里は中枢」と言われるように、この二つの都市は、政治と交易の両輪として機能しました。
尚巴志の時代の琉球は、明との冊封・朝貢関係を基盤にしつつ、日本(とくに薩摩や博多・堺など)、朝鮮、東南アジア諸国(シャム=タイ、マラッカ、ジャワなど)とのあいだで積極的に交易を行いました。琉球の船は各地を巡り、中国産の絹や磁器、日本の銀・刀剣、東南アジアの香料・薬物・木材など、多様な物資を運びました。琉球王国はこれらの交易を通じて利益を上げ、同時に各地の文化・技術・情報を取り入れていきます。
このような国際交易ネットワークの形成には、尚巴志の政治的な判断も大きく関わっていました。琉球は大国ではなく、軍事力で他国に圧力をかけることも難しかったため、むしろ「中継貿易」と「柔軟な外交」を通じて自国の立場を確保しようとしました。明の朝貢秩序に積極的に参加しつつ、日本や東南アジアとも友好的な関係を維持することで、琉球は「万国津梁」としての役割を果たしていきます。
首里城正殿に掲げられていたと伝えられる「万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘」の銘文には、琉球が中国・日本・南蛮(東南アジア)を結ぶ架け橋として、自らの役割を自覚していたことがうかがわれます。尚巴志の治世は、このような国際感覚を持つ琉球王国の方向性を形づくった時期として位置づけられます。
尚巴志以後の尚氏王統と評価
尚巴志は、三山統一と王国体制の整備という大きな仕事を成し遂げたのち、子の尚忠(しょうちゅう)らに王位を継がせます。尚巴志が属する「第一尚氏王統」は、その後も数代にわたって琉球王国を支配しましたが、15世紀後半に内紛や権力抗争が激化し、やがて尚円(しょうえん)によるクーデターを経て「第二尚氏王統」に取って代わられます。
この王統交代により、尚巴志の直系の血筋は王位から退きますが、第二尚氏王統もまた、「尚」の姓を名乗り、尚巴志の築いた政治・外交の枠組みを基本的には引き継ぎました。そのため、琉球王国の歴史全体を通じて見ると、尚巴志の時代に確立された「首里を中心とする王国体制」と「中国との冊封・朝貢を軸にした国際関係」は、一つの大きな枠組みとして長く続いたと言えます。
後世の琉球王国は、自らの正統性を語る際に、しばしば「尚巴志による三山統一」を出発点として強調しました。王国史書である『中山世鑑』『球陽』などは、尚巴志を理想的な開国の王として描き、その徳と功績を称えています。こうした物語は、王国の支配を正当化し、臣民の忠誠心を高めるための政治的な意味も持っていました。
近代以降、琉球王国が日本に編入され、戦後には沖縄が日本とアメリカの狭間で揺れる中で、尚巴志は「沖縄の歴史における統一と自立の象徴」として、再評価される側面もあります。一方で、三山統一の過程では、戦いに敗れた按司やその配下の人びとが従属させられたり、場合によっては処刑・移住を強いられたりしたことも想像されます。そのため、地域によっては尚巴志への評価が一様ではなく、複雑な感情が交錯している可能性もあります。
歴史学の立場から見ると、尚巴志は一人の「英雄」としてだけでなく、当時の東アジア国際秩序や海上交易ネットワークの中で、琉球という小さな島嶼国家がどのように位置取りをしようとしたのかを考えるための鍵となる人物です。三山を統一して一つの王国を作ったこと、明との冊封関係を積極的に受け入れたこと、首里・那覇を中心とした政治・交易体制を整えたことなど、彼の行動は琉球社会の構造そのものを大きく変える転換点になりました。
尚巴志について学ぶことは、沖縄・琉球の歴史を理解する上で欠かせないのはもちろんのこと、周辺の大国に囲まれた小国が、どのようにして生き残りと発展をはかってきたのかという、より広い視点から歴史を考える手がかりにもなります。その際には、尚巴志を単なる英雄として美化するのではなく、彼の時代の社会状況や国際環境、統一の影で生じた矛盾や葛藤にも目を向けることで、より立体的な歴史像を描くことができるでしょう。

