「徐光啓(じょ こうけい/シュー・グアンチー)」は、明代後期に活躍した中国の大官であり、同時に農学・天文学・数学など多方面にわたる学問で業績を残した人物です。さらに、イエズス会宣教師マテオ・リッチらとの交流を通じてキリスト教に改宗し、西洋の科学や技術を中国に紹介したことで知られています。つまり徐光啓は、「科挙で出世したエリート官僚」「現場重視の農政家」「西洋科学の受容者」「カトリック信徒」という、いくつもの顔を持つ非常にユニークな人物なのです。
彼は上海近郊の出身で、科挙に合格して中央官僚となり、礼部尚書や内閣大学士など、明王朝でも最高レベルの地位にまで上りつめました。その一方で、地方での治水や農業の改善に深く関わり、灌漑・肥料・作物栽培などについて実地に調査を行い、『農政全書』という大部の農業書をまとめました。また、マテオ・リッチとともにユークリッド『原論』の一部を漢訳し、西洋数学の導入に貢献しています。暦の改革や火砲の導入などにも関与し、明末の「実学」的な政治・学問の動きの中心人物の一人でした。
さらに宗教面では、カトリックに改宗した最初期の高級官僚として、中国カトリック史でも重要な存在です。洗礼名は「パウロ」で、のちには「中国カトリックの三柱」の一人としても語られます。彼は儒教的な忠孝の精神とキリスト教信仰をどう両立させるかをまじめに考え、西洋の学問を「中華の富強」に役立てようとしました。その姿は、東西交流・文明の対話という観点から見てもきわめて象徴的です。
以下では、まず徐光啓の生涯の流れをたどり、そのうえで学問的な業績(農学・理工学・暦法)、キリスト教受容と東西交流への貢献、そして彼が明末社会の中でどのような意味をもち、現代の評価にどのようにつながっているのかを詳しく見ていきます。
徐光啓の生涯と科挙官僚としての歩み
徐光啓(1562〜1633年)は、明王朝の南直隷松江府上海県、現在の上海市の一帯で生まれました。当時の上海は、今日のような巨大都市ではなく、江南地方の一地方都市にすぎませんでしたが、経済的・文化的には活気のある地域で、多くの文人や商人が行き交っていました。徐家は大土地所有の大豪族というより、勤勉な農業と小規模な商いで生計を立てるような家だったとされます。
徐光啓は少年時代から学問に励み、儒教古典を中心とした科挙の勉強に力を注ぎました。明代の科挙は非常に競争が激しく、地方試(郷試)・会試・殿試と段階的に合格していく必要があります。徐光啓も何度か失敗を経験しながら挑戦を続け、40歳を過ぎた1604年、ようやく最高レベルの進士科に合格しました。比較的晩年の合格でしたが、だからこそ彼は地方行政や農村の現状に対する現実感覚を失わなかったとも言われます。
進士合格後、彼は官僚として中央・地方でさまざまな役職を歴任しました。刑部や兵部などを経て、最終的には礼部尚書(礼部の最高責任者)や文淵閣大学士(内閣の一角を担う高官)にまで昇進し、明王朝の最高意思決定に関わる一人となります。礼部は儒教的儀礼・科挙・外交儀礼などを所管する官庁であり、その長官は制度面・文化面において大きな影響力を持っていました。
徐光啓は、単なる出世のための官僚ではなく、「経世致用」、つまり国家と民衆の生活を良くするために学問を役立てるべきだと考えるタイプの官僚でした。彼は地方赴任の際、治水や農業の現場に足を運び、洪水・干ばつ・飢饉への対策に心を砕きました。また、軍事面でも、国防の強化や新式大砲の導入などに関心を持ち、実際にポルトガル人の火砲技術を取り入れるよう朝廷に建言しています。このような「実務に根ざした学問と政治」の姿勢が、彼の生涯を貫く特徴といえます。
西洋人との出会いと科学・暦法への貢献
徐光啓の名を世界史の文脈でとくに有名にしているのは、イエズス会宣教師マテオ・リッチ(利瑪竇)との出会いと共同研究です。マテオ・リッチは16世紀末から中国で活動したイタリア人宣教師で、高度な数学・天文学・地理学の知識を持ち、漢文にも通じていました。彼は単に宣教をするだけでなく、西洋の学問を通じて中国の文人・官僚と対話しようとした点で特異な存在です。
徐光啓は1600年前後、南京などでリッチと出会い、その学識の高さと人柄に強い感銘を受けました。彼はリッチのもとで西洋数学・天文学を学び、とりわけユークリッド『原論』の論理的構成に深い感銘を受けます。やがて両者は協力して、『幾何原本』として知られるユークリッド『原論』前半の漢訳を完成させました。この翻訳は、中国における本格的な西洋数学導入の出発点とされ、のちの学者たちにも大きな影響を与えました。
また、徐光啓は暦法の改革にも重要な役割を果たしました。明末には、従来の中国暦法が実際の天体運行とずれを生じており、日食・月食の予測などで誤差が目立つようになっていました。暦の正確さは王朝の威信とも関わるため、暦法改革は政治的にも重大な課題でした。徐光啓は、リッチや後続のイエズス会士たちの天文学・数学の知識を取り入れ、新しい暦(のちの崇禎暦)を作る計画に中心的に関わります。
1629年には、彼らの予測した日食が正確であったことが評価され、朝廷は西洋暦法の導入に前向きになりました。徐光啓は暦局を率いる立場となり、西洋式の計算方法や観測技術を取り入れた暦書編纂に取り組みます。彼は崇禎帝に仕えている途中で亡くなったため、その完成を自ら見ることはできませんでしたが、彼の働きはその後の中国暦法の大きな転換点となりました。
さらに、彼は西洋式の火砲や軍事技術についても理解を深め、ポルトガル人の協力を得て大砲の導入や訓練を実施するよう朝廷に建言しました。北方からの後金(のちの清)勢力の脅威が高まる中で、彼は中国の軍事力強化に西洋技術を役立てようとしたのです。「富国強兵」というスローガンを掲げ、農業・軍事・科学技術を総合的に向上させることで国を守るべきだという彼の構想は、後世の改革論とも響き合う先駆的な発想でした。
『農政全書』と実学としての農業研究
徐光啓の業績の中で、とくに中国国内で高く評価されてきたのが、農業に関する大著『農政全書』です。これは、彼が長年にわたる観察・調査・読書・実験にもとづいてまとめた農業百科事典のような著作で、およそ70万字にも及ぶ膨大な分量を持ちます。明末という社会不安の時代にあって、彼は「農」を国家と社会の根本ととらえ、農村の生産力向上と民衆の生活安定こそが政治の基礎であると考えました。
『農政全書』には、土地制度や耕作法、水利・灌漑、肥料の使い方、作物の選び方、病害虫対策、桑や綿花などの繊維作物、果樹や野菜の栽培、林業、家畜の飼育、さらには飢饉対策や救荒植物に関する情報まで、非常に幅広い内容が含まれています。彼は過去の農書(賈思勰『斉民要術』や王禎『農書』など)を参照しつつ、自身の経験や現地調査の結果を積極的に取り入れ、実際に役立つ知識を整理しようとしました。
特に水利についての関心は深く、各地の灌漑施設や水車・揚水装置などを詳しく記録し、ときには西洋式の新しい技術も紹介しています。また、サツマイモやトウモロコシなど、新大陸起源の作物が中国にもたらされる過程とも時期が重なり、それらの作物の飢饉対策としての有用性にも目を向けていました。彼は農政を、単なる生産技術の問題ではなく、人口・税制・軍事・社会秩序と深く関わる総合的な課題としてとらえています。
『農政全書』は、徐光啓の死後、江南の学者たちによって整理・出版されましたが、以後の清代・近代においてもたびたび参照され、中国農業史・技術史の重要な資料となりました。20世紀に入ると、科学技術史家ジョゼフ・ニーダムらによって、西洋の科学史の文脈でも評価されるようになり、「近世中国における経験主義的・実証的な農業研究の集大成」として位置づけられています。
この農業研究の姿勢は、徐光啓の実学的な性格をよく示しています。彼にとって学問とは、抽象的な議論だけでなく、実際の田畑・水路・農民の生活と結びついてこそ意味を持つものでした。その意味で彼は、後の時代に登場する洋務運動や近代化論者にも通じる、「現場に根ざした改革志向」の先駆的存在と見ることができます。
キリスト教への改宗と東西交流の象徴としての徐光啓
徐光啓の人生を語るうえで欠かせないもう一つの側面が、カトリックへの改宗です。彼はマテオ・リッチらとの交流を通じてキリスト教教義に触れ、1603年ごろ洗礼を受けて「パウロ」という洗礼名を名乗るようになりました。中国の高級官僚としては最初期の改宗者の一人であり、その信仰は一時的なものではなく、晩年まで継続しました。
もっとも、徐光啓は儒学の教養を深く身につけた士大夫でもありました。彼にとって重要だったのは、儒教とキリスト教が完全に対立するのではなく、互いに補い合い得ると考えることでした。マテオ・リッチが「天主」(唯一神)を儒教の「上帝」と重ね合わせつつ、祖先祭祀や儒教倫理との調和を図ろうとしたように、徐光啓もまた、忠孝・仁義といった儒教倫理とキリスト教信仰をどのように調和させるかを模索しました。
彼は、西洋の学問や宗教を中国社会に紹介する際、単に異質な「外来文化」としてではなく、「中華の秩序と民生をより良くするために役立つもの」として位置づけました。暦法の正確化や農業技術の改善は、天命にかなう善政の実現に資するものであり、キリスト教の教えもまた、人間の倫理と救いに関わる真理の一部だとみなしたのです。そのため、彼は西洋の学問・宗教を無批判に受け入れたわけではなく、儒教的価値観からの吟味と再解釈を通じて受容しようとしました。
カトリック教会の側から見ると、徐光啓は「中国カトリックの三柱」(ほかに李之藻、楊廷筠)と呼ばれる代表的信徒の一人であり、後世には列聖(聖人認定)へ向けた動きもあります。また、上海の徐家やその子孫は、その後もキリスト教信仰を守り続け、清代以降の宣教にも影響を与えました。彼の存在は、単なる個人の改宗の問題を超え、東西の宗教・文化が出会い対話する場の象徴として語られています。
近代以降、中国が「西洋にどう向き合うか」という問題に直面したとき、徐光啓はしばしば先駆者として再評価されました。彼は明末という動揺期において、西洋科学・技術とキリスト教を受け入れつつ、中国の伝統的価値観と国家の安定を守ろうとしました。その姿は、近代中国の知識人たちが「中体西用」や「洋為中用」といったスローガンのもとで模索した姿と重ね合わせて理解されることも多いです。
このように徐光啓は、一人の明代官僚であると同時に、長い時間軸の中で見れば「東西交流の象徴的存在」として、さまざまな文脈で語り継がれてきました。彼の生涯をたどることは、明末中国の政治・社会状況だけでなく、科学技術の受容、宗教間対話、近代への入口に立つ東アジアの姿を立体的に理解する手がかりにもなります。

